あの妻のもとへ帰るのかと思うと、気が狂いそうになる。
あの妻のもとへ帰るのかと思うと、気が狂いそうになる。
オフィスの窓からみた空は鉛色をしていて、今にも雨が降りそうだった。
重いまぶたを懸命に開き、デスク上に置かれたパソコンを眺める。仕事が手に付かず、キーボードを叩くリズムは、いつもより遅くなっていた。
今日も家へ帰るのはやめよう。
そう思い、キーボードの右側に置いたスマホを取ろうと手を伸ばす。
取る直前にスマホが振動して、思わず驚きで身体が跳ね上がった。
ーーまさか、また。
頭皮からジワリと、汗がにじむ感覚がある。
ふと周囲を見ると、天敵を見つけた草食動物のような慌てぶりがおかしかったようで、みんなの視線が集まっていた。
目を丸くしている男性や、口に手を当てて笑いを堪えている女性社員に、ぎこちなく会釈する。
恐るおそるスマホを手に取って画面をゆっくりと見る。
ーーねえ広介。私のこと愛してる?
妻からのLINEだった。
なぜだッ。こんな連絡が来るわけないッ。
俺が返信をしないにも関わらず、一週間前から、全く同じ文面が何度も届いていた。
返信しないから何度も来るのか。
そうは思うが、返信するつもりなどないし、出来るはずもない。
気付けばスマホを持つ手は震えて、唇を噛みしめていた。飲み込んだツバが喉で音を立てる。
俺はそのメッセージを無視して、トークの画面から優作という名前を探し、連絡を入れるために文字を打った。
今日もキミに逢いたい。出来れば、また泊まりたい。
連絡を入れてから、息をつく間もなく既読マークがつき返信が来た。
昨日も泊まったでしょ。嬉しいけど今日は飲み会なの。
文面を見て、思わず舌打ちをしてしまう。
使えない女だ。頭に浮かぶ苛立ちを抑えながら、そんな感情を毛ほども出さない返信をする。
どうしてもキミに逢いたいんだよ。
瞬時に既読マークがついた。
二日も連続で泊まったら、奥さんにバレちゃうからダメ。でも、好きだよ広介。
奥さんにバレるか。
深いため息が出た。
もう、バレたのだーー。
苛立ちと焦りをないまぜにしたまま、優作という登録名の相手にメッセージを返す。
無理言ってごめん。俺も好きだよ優子。
脱力してスマホをデスクに置くと、その直後に振動した。
優子か。そう持って画面を見る。
ーーねえ広介。私のこと愛してる?
これはどこから送られてくるんだッ。
スマホの画面を見えないようにデスクに伏せて、俺は仕事を再開した。震える手がミスタッチを繰り返して、まったくはかどらなかった。
その夜、恐るおそる家の玄関を開けたが、やはり妻の姿はどこにもなかった。
リビングのテーブルにカバンと鍵を置き、ネクタイを緩める。おととし購入した一軒家は、一人には広すぎる。
俺は居間に移動した。テレビの前にローテーブルがある。その中央には、テレビのリモコンがひっくり返って乱雑に置かれている。
それは、妻がいないことを表していた。
妻は几帳面な女で、いつもローテーブルの右手前の隅に、ぴたりとリモコンを置く癖があった。
本人いわく、そうしないと落ち着かないらしい。俺にはそんな気持ちはわからず、あちこちに置いては良く注意されたものだ。
それがなくなって、もう一週間になるか。
ローテーブルの右手側の閉ざされたカーテンを開け、窓から外を眺める。
広い庭の周囲には、木製の板が平行に並べられ、柵を作っている。わずかな隙間はあるが、妻が趣味で植えた木々のおかげで、外からの視線が入ることはない。
庭を見渡す。土の景色のなかに、一本のスコップが倒れている。その脇には、不自然に土の色の濃い部分がある。誰が見ても、掘り返したのは一目瞭然だった。
妻のスマホがあるとすれば、あそこしか考えられない。
初めてLINEが届いた時に、家中探してもどこにも転がっていなかったし、彼女のカバンの中にも、それはなかった。
掘り返せば、すべて解決するかもしれない。しかし、そんなことをすれば、妻を怒らせるかもしれない。
しばらく葛藤していると、ポケットに入れていたスマホが小さく震えた。
一瞬、身体がけいれんしたように動いた。心臓に悪い。嫌な気持ちで取り出して画面を覗く。
ーーねえ、広介。私のこと愛してる?
まただ。もう耐えられない。
俺は意を決して返信をすることにした。
ーーお前は、誰だ。
例のごとくすぐに既読マークはついたが、返信が来ない。まずいことをしたのではないか。怒らせたかもしれない。そう思い、沈黙が長くなるほどに、後悔の念がふくらむ。
だからスマホに連絡が来たとき、俺は少し嬉しかった。しかし、その喜びは文面を見てすぐに吹き飛んだ。
ーーねえ、私はどこにいると思う?
言いようのない怖さを感じて、俺は色の違う土の部分を見た。
どこって、あの土の中に決まっている。
一週間前の夜。浮気がバレて口論になって。
あまりにも俺を侮辱して、軽蔑するものだから。
つい魔が差してーー。
俺が。首を絞めて。
ーー殺して埋めた。
確かに殺したのだ。
だから妻だったモノは、必ずそこに埋まっている。そうだとわかっているのに、冷や汗が止まらない。LINEが届く。
ーーねえ、広介。私のこと愛してた?
ゆっくりと呼吸をして、丁寧に指をスライドさせて文字を打つ。何とか相手の機嫌を取って、被害のないようにしなければ。
愛しているよ。
時計の音がはっきりと聞こえ、返信を待つ時間がとてつもなく長く感じた。ふいに、スマホが振動を始めた。一度ではなく、連続で震え続けている。
恐るおそる画面をみる。
ウソつき。
ウソつき。
ウソつき。
思わず恐怖でスマホから手をはなしていた。床に落ちてもなお、振動は止まず、画面に映されたウソつきの文字は増えている。新しいメッセージが、古いメッセージを押し上げていく。
「もうやめてくれよッ。俺が悪かったッ。でも、優子とはただの遊びだったんだよッ」
スマホに向かって叫んでも、着信は止まらない。
「本当に愛してるのはお前だったからッ。もうそれでいいだろッ」
ーー殺してやる。
そのメッセージを最後に、スマホの音は鳴り止んだ。
いやだ。死にたくない。
慌てて窓を開けて庭に出る。スコップを掴み、妻を埋めた場所を掘り返す。
妻の死体はここにあるんだッ。俺を殺せるはずがない。そして、妻のスマホはきっとポケットにでも入っていて、一緒に埋めたのだ。掘り出したら破壊しよう。なぜ連絡が来るのかわからないが。そんなのどうでもいい。とにかくLINEが来なくなればいいのだ。死体も、どこか遠くで燃やしてしまおう。
それがいい。
でも、もしかしたら。
湧き上がる不安を振り払うように、掘り出した砂を勢いよく脇へ放り出す。
何度も繰り返し、ひたすらに掘っていく。膝の高さまで掘り、さらに腰の高さまで掘り進めて、違和感を感じた。
おかしい。
なぜ妻の死体が見えてこない。
前回は腰ほどの高さまで掘り、妻を横向きにして、膝を抱えさせて埋めたのだ。
もしや。
いや、そんなはずはない。
顔に土がかかるのも気にせず、さらに掘り進めた。そして、穴の深さが胸のあたりまで来たときであった。背後の部屋の中から、小さな音がした。
物にぶつかったような音ではなく、何かを置いたような、コトリと表現したくなる音だった。
急いで振り向き、井戸から顔を出す霊のように部屋を注視する。
誰もいない。
それならば、どうして音がなった。まさか、そんなバカな。
穴の外に両手のひらを置き、勢いよく体を跳ね上げる。這うようにして穴から出て、土足のまま居間へ戻る。
やっぱり誰もいないじゃないか。なら、聞こえた音は何だったのか。
警戒しながら部屋を見回して、音の正体に気付いた。
ウソだろ。何でだよッ。
ローテーブルの中央にあったリモコンが、右手前の隅に移動していた。
妻がいる。
妻だったモノがいる。
そうとしか思えない。
誰もいないはずの背後から、足音が聞こえた。すり足の足音が等間隔で聞こえる。
見てはいけないものがいる。そう直感すると、恐怖で身体が動かなかった。
逃げなければと思うが、意識すればするほど、手と足の動かし方がわからない。肩に力が入り、呼吸さえも難しい。
不意に。床に落ちたままだった俺のスマホが、振動音を立てた。
近づいていた足音は、俺の真後ろで止まった。
直立不動のまま、視線だけをスマホへ落とす。
ーーなんで。こんなことしたの?
首元に、固くて冷たい指の感触がした。




