5 その馬、”神馬”で侍。
雨が降った次の日、空は青く何処までも澄んでいた。地面にはまだ水が溜まり、空の青が地面にまで写っていた。
晴信の屋敷では朝食が振る舞われていた。白飯、焼き魚、卵焼、漬物、洋風の建物には少し浮いた食事であった。
大きな机に座っているのは四人。机には五人目の男のものであろう朝食も用意してあった。そしてその4人には会話がなかった。
バクバクバクバク!!
いや、音はあるのだ。もう何匹目かの魚を平らげ飯を掻き込むのは金剛院慶治。米粒一つ残さず食べた茶碗を置き、茶を飲み干す。
「ぷはぁあ!!食った食った!!」
満足そうに腹を叩いた慶治は楊枝をくわえる。
「慶治、行儀が悪いぞ……」
それを見て白雨左近が言う。彼はゆっくりとそして丁寧に食べている。
「なぁにを言う左近!うまい飯はうまく食えばよりうまい!うまいが三つもあればそれは極上となる!」
訳のわからない理屈はこの男の専売特許だ。
「いやぁ!最近は白湯みたいな飯しか食ってなかったからな!アキちゃんは幸せ者じゃ!なぁ!?」
「えっ?!そ、そうですね………」
仲虎アキが上手く答えられなかったのは、突然話を振られたからというのもあったが、それとは別の事もあった。
「それより勘助は飯も食わずにどこに行ったんじゃ!俺が食べてしまうぞ!」
ここにいない男の名前を聞いてアキは顔を曇らせた。咄嗟に左近が諌めたが、慶治はとぼけた顔をした。
「オジキ、今日は調査だろ?俺を連れてけ!左近、お前は残れ」
「何故だ?」
「あいつらが来るかもしれんじゃろ?それに俺一人で十分じゃ!」
あいつらというのは晴信が全国から呼び寄せた黒堂会の仲間達だ。
「だが……!」
「すまん左近、そうしてくれ」
左近の話を遮ったのは仲虎だった。
「オジキ……」
「すまんな左近、アキを守っていてくれ。何があるかわからん……」
そう言われ左近はハッとした。確かに皆で向かえば家が手薄になる。あの男が動き出したということはここにいる少女も標的になることは間違いない。
「とっ、言うことだ!俺はちょっとばかし動いて腹を減らしてくる!」
慶治は手を合わせ食物に礼を言うと、立ち上がり部屋を後にしようとした。その途中でアキの肩に手を置き、小さく言った。
「昨日の事は心配するな。あいつはまだ部屋にいる。握り飯でも作っていってやるといい。あいつはあんな事でアキちゃんを嫌いになる筈がないと俺は思うぜ!」
片目を瞑ると同時に笑顔が弾ける。なんというか男前である。
アキはそれから急いで朝食を食べた。握り飯を作り、すぐに勘助の部屋に行った。
「……勘助様。アキです」
部屋の中からは音がしないが、気配は不思議と感じられた。育ちのいいアキにとっては返事もないのに開けることはできなかった。
「勘……!」
「……なんじゃ?」
勘助は扉を少し開けて答えた。
「……」
「……」
扉が開いたのはいいが、どう話していいのかわからない二人がいた。
ぐぅううう……
沈黙を破ったのは腹の音。咄嗟にアキは手に持った包みを差し出した。
「……これ!作って参りました」
勘助は黙ってそれを受けとると包みを開いた。中には握り飯が四つ。不恰好なそれはアキが一生懸命作ったものだった。
勘助は一つ掴み、一口で頬張った。米神に力を入れる度、昨日の事が思い出される。しかし、それは同時に気持ちを切り換えるものとなっていた。
数刻の後、呑み込んだ後の顔は清々しいものがあった。
「旨い!上手くなったなアキ」
アキの顔も明るくなった。
「はい!昔みたいな牡丹餅じゃありません!」
優しい目で彼女を見た勘助は、一度部屋に戻るとすぐに出てきた。
「さて、儂も出掛けるか!アキ、誰が残るんじゃ?」
「左近様です」
「わかった!オジキと慶治は?」
「それが……もう出られました。これが今日行く村だそうです」
勘助は唖然とした。昨日あんな事があったのだから少しは気を使って待ってくれてもいいものの。渡された紙には汚い字で村の名前が書いてある。確実に慶治の字である。
「私は止めたんですが……」
「はぁ……オジキも酷いのぉ……。まあいい、行ってくる!」
「お気をつけて!」
走り出した勘助にアキは手を振った。
外に出た勘助は、地面を見た。昨日の雨で道はぬかるみ、歩けば一瞬で泥塗れだ。しかし、馬車がどっちに行ったかはわかった。
「字が汚すぎて読めん……」
という訳で肝心な行き先がわからない勘助は馬車跡を追っていこうとした。しかし、仲虎達が出たのはすでに数刻前、走っても追い付けないのは確実だ。
「仕方ない……。鬼鹿毛ぇ!!」
雷のような嘶きが森に響き、鳥が一斉に散る。木々が揺れ、大地が揺れる。揺れは規則正しい振動を刻みながら近付く。
ドドドン、ドドドン、ドドドン!!
勘助はその音にも動じない。やがて竜巻でも来たような風とともに現れたのは……。
『呼んだか……』
頭の上までで約十四尺、体高も十尺はある黒毛の馬。驚くべきは人語を話す事だけではない。その身体はその全て鋼だったのだ。
「よぉ鬼鹿毛!乗っけてくれ!」
『私は馬ではない……』
鋼の胴体は丸太よりも太く、四肢は槍のように長く鋭い。身体の所々に装飾が施されており、まるで全身が鎧兜のような風貌だった。ただ一つ、漆黒の鬣が風もないのに揺れていた。
「馬ではないか……。頼む!オジキ達の所まででいい!」
『晴信の所までか……。よかろう、乗れ』
勘助は飛び上がると鬼鹿毛の背に軽々と乗った。さすがに少し大きいと言わざるを得なが……。
『神馬を馬代わりに使うとはいい度胸だ…」
「神は儂らの助けになってくれるんじゃろ?なら今がその時じゃ!」
神馬
戦国時代。数多の武将が闊歩した時代。しかし武将は自らの足では闊歩しない。そこには必ず馬がいた。地位の高いものほど馬に乗り、自らの地位を見せつけた。時には戦場に赴き、主とともに敵を蹴散らした。戦国の世、馬も一匹の武将であったのだ。
しかし、身体が大きい分、馬は人より散りやすい。矢に射たれ、槍で刺されて散っていく。例え名のある馬であろうとも同じなのだ。神馬とは、死してなお、魂だけで走り続けるうちに鋼を身に纏い、神の力を授かったもの達の事である。
この鬼鹿毛もそうだ。かの武田信虎が所有し、息子である武田信玄がねだっても与えなかった名馬。その魂が明治の世に甦ったのだ。
『行くぞ勘助、振り落とされるなよ!!』
大地が揺れた。鬼鹿毛が四脚に力を入れただけでだ。勘助は鐙に爪先を固定し、首から直接延びた手綱を握った。
「破ぁ!!」
掛け声とともに風となった勘助は晴信達の乗る馬車を追った。




