別離(4)
十二歳のときだった。
僕は小学校を卒業し、彼女は年齢調整で、その年から英国のミッドスクールに入学した。
僕と彼女は別れた。
その年の流行歌で、「青い空の下、ふたりはどこかで繋がっている」なんて文句があった。
染みた。
その歌を、僕は今でも歌える。そしてその歌を聞くたび、その時の何とも言えない虚脱感が沸き上がってくる。
僕は奈良で……奈良という田舎で、随分偏屈な人間として、青春時代を過ごした。
それなりに刺激的だった……十代のときが刺激的でない人間などいるものかと思うんですがどうでしょう。
だからといって、僕が「あるべき場所」……埼玉の、生まれ育った場所に対する憧憬が消えることは、ついになかった。
だから、僕は大学に入るときに、埼玉に凱旋する心づもりを決めていた。
しーちゃんを待つ、という意味合いもそこにあった。
果たしてそれは叶えられた。僕が高校二年のとき、しーちゃんが日本に戻ってくるという報を受けたのだ。
僕の人生、少なくとも大学は決まった。しーちゃんと再び会うのだ。
そして僕としーちゃんは再び出会った。
この物語は、そのようなごく平凡な青年少女たちの、ある限定された瞬間を切り取ったものである。それが誰かの役にたつとも思えないけど、本人たちにとって大切な記録を収めたスナップ写真のように、僕にとっては意味のあるものである。
繰り返すが、それは平凡なものだ。ただ、どんな人生にも、ある程度の非凡さ (エクストラオーディナリー)を見い出すことは可能と僕は思う。そんな見方が文芸批評の場において望まれないことも僕は知っているが、「そこ」をおざなりにしっぱなしの批評というのも、何かを欠いていると僕は思う。
あらゆる人生は物語である。物語は自由に批評される義務を負っている。ゆえに人生に批評を加えることに異論のあるはずがない。
そんな三段論法が果たして正しいのか。僕には何とも言えない。
僕はとりあえず、誰のためになるともしれない、僕らの物語を語ってみたいと思う。
そこには伝奇もなければ異世界もない。超空間もなければタイムループもない。平凡な大学生の生活である。企画段階ではねられるようだな……目に浮かぶよ。
ただ、何かしらのケーススタディになればいいなと憶測する。希望する。
そもそもこれを僕が語るのも、大学時代の語り部として友人に所望されたから行うのであって。
とりあえず、僕は嘘をつかないつもりだ。ついたって、どうにかなるものでもないし、ありのままの僕を語れば、一応は何かになるのではないか、そのように思って。