●「ひだまり」
あ、すいません、まだメインヒロイン、でてきませんでした。
次かと思います
ただ、僕は大学という場については、高校までのそれとは、いささか違った感慨を得ている。
それは、僕の人生の中で、ある種のひだまりのような時間であった。
そんなに手放しの幸せを得たのは、あるいは子供のとき以来だったのではないか、と。
もちろん僕の観点が、とてつもない偏見によるものだということは承知している。
ある人にとっては、大学が失望の場になりえるのだということを、僕は幾度も見てきた。
ある人は去り、ある人は罵倒しながら居残り(その内多くはダラダラ留年していた……なんだかな)、ある人は大学を卒業して会社で延々大学を愚痴る。
曰く、大学は無意味だと。大学で得たものはコネだけであって、学問たるものはくその役にもたたないと。
それを僕は否定しない。
僕にとって価値あるものが、人にとってまるで価値がないものであることは、往々にしてあることだから、これも「またか」に属することだ。
そういうわけで、特に大学を弁護するつもりもない。
ただ、いささか大学にいる「良き人たち」に対して、申し訳なるくらいだ。
……ここまで来て、やっと僕は「学校を愛する人たち」の気持ちが分かったような気がする。
それが一般的に見て、客観的に見て、働きアリ養成スクールだということは、関係ないのだ。
ただ彼らの人生において、高校までの学校(よし、この文章では「学校」をそのように、「スクール」と名のつくものと定義しよう。ジュニアスクール、ミドルスクール、ハイスクールと「大学」=カレッジ、の違いだ)が、僕にとっての大学のように、輝いていたということなのだ。
……輝いて?
僕は今ひだまりと言った。
それは確かに、時間の流れがゆっくりで、音が静かに聞こえ、空気がゆるやかに流れていた。そんな時間だった。
それをひだまりと呼ぶことに異論はない。
蒼樹うめ『ひだまりスケッチ』がそのタイトルなのも、あの美術学校に通うゆのっちらひだまり荘寮生たちが、そのような「ひだまりの時間」にいた、輝きを得ていた……からこそ、なのではないか。
もちろん寮の名前からとっているものだと承知しているが、この考えは曲解ではないと僕は確信している。だからこそあの漫画は素晴らしいのだ。優しいのだ。
話がずれた。
そう、僕にとっての大学は、そんな時間であった。
言うまでもなく、二十代前後のときというのは、とびきり傷つきやすく、自尊心がブレ、アイデンティティも確立されていなく……ようするにややこしい時期である。
あのとき呑みながら話した際、僕は二十を越したばかりだった。
上で書いたように、「傷ついたことを露悪的に言う」ことを僕はその当時も嫌っていた。
この時期の人間がそのようなことをよくしがちであるのは僕も承知していた。だからこそ――大人になりたかったのだろうな、僕はそれを忌避した。
その手の「どうしようもなさ」というのを僕はよく見てきた――この時代というのは、その手の精神のサンプルを採取するにはうってつけの時代だ。
弱みを見せてこその人じゃないかと人は言う。
一理あるとは思う。
あるいは僕が都合のつかない人間なのだろう、こういう物言いは。
だらしなく堕ちていくのに耐えられないのもある。
が……おそらく一番大きいのは、一度ダムが決壊したら、さぞみっともない結果になるのが、他でもない僕自身であることを、僕が重々承知しているからなんだろうな。
で、お前はどうしようもない人間だと公明正大に言えるかと言うと。
そんなことはない。
そういうことをなるべく少なくしたいと願っているだけだ。