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●この物語の目的

この物語で何を語ろうとするか、ここらへんで明確にしておきたいと思う。


今の「僕」は、大学時代の僕ではない。その未来の、古本屋としての僕だ。そのような見地から、この章を読んでほしい。


僕が嫌な奴であることは、ここまでで散々知れたことだと思う。おそらくそれに嫌気がさした方は、「二十一世紀の批評家オタク」のあたりで巻を投げ打ったのではなかろうか。


ただ、この物語は、(結果的にはそうなっているかもしれないけど)僕が嫌な奴であることをどこまでも克明に描写するものではない。


僕が皆様に提示したいのは、ある種のケーススタディ。


森博嗣の本のタイトルを借りるなら「Shape of Things Human(人間のかたち/姿、でも訳そうか)」のいくつかを描いてみたいのだ。


それらはごくありふれたものだ。あのしーちゃんの発作にしたって、人にしてみれば、「なんだ、単なるパニックディスオーダーじゃないか」みたいに言うかもしれない。僕は「とりあえず」式にそういうふうに言う人間を殴りたいが、まあ大体、平凡に属すること……要するに、突如として異世界に行くとか、殺人事件が起こるとか、そういう「小説映え」する出来事では「ない」、どこまでも平凡なShape of Things Humanを僕は描く。


それによって、なんか参考になればいいな、と僕は思っている。


僕があのロリ博士から得た、学問の真髄とか。

大雪から学んだ、人間としての綺麗さとか。

テレジアが看破した、僕としーちゃんの異常さとか。

そして……生まれてはじめて作った「手造りの」同人誌を通じて学んだ、いろいろのこととか。


恐らく僕は一生、批評とはなんぞや、学問とはなんぞや、本とは、表現とは、芸術とは、人間とは、みたいなことを考えていくだろう。


そんな人間は、数少ないとは思うが、僕だけではないはずだ。それはいつの世も、決して絶えることなく居るはずだ。芸術が、人間が、まだそこにあるならば、我々はそれに対して議論するのだろう。


恩師――はかせ、と呼ばれる少女は言った。

「議論をしたところで解決されるわけではないよ」

と、いつものロリ声で、しかし冷酷に。


「議論は最適解に漸近すれば恩の字。場合によっては、さらに解離が進む場合があることは、哲学史を紐解けばわかること。しないよりは……というよりは、『何らかの事情によって出来ないよりは』した方がいいけど、結論が必ずしも導き出されるとは考えない方が、まだ安全側」


それは僕があの少女から、大学生活を通して叩きこまれたことだ。


同時に、議論は、他者に対するものだけではない。己に対する――人はそれを自己分析と呼ぶ。

それをしたところで、問題が解決されると決まったわけではない。残酷だが。


僕は分析の有効性を嫌が応にでも信じようとしていた。けれど、最終的に、今辿りついたのは、やはりはかせと同じところだった。


分析を重ねに重ねたところで、一応の道しるべは出来るが、「救われ」はしない、ということ。では救われるには? サルトル風に言えば「投企」……つまりは自己存在を、この確率世界に「賭けろ」と言うしかない。


ああ、話が先に進みすぎてしまった。


ときに、八十年代の思想界を席巻した書物として浅田彰の『構造と力』というのがあるが、あれは本に書いてあることを信じれば、「処々の哲学的テーマをチャート式にして体系化し、現代社会を生きぬく術としてほしい」そうだ。


そういえば、僕がゼロ年代最後で最も力のある同時代的評論集だと思った福嶋亮大の『神話が考える』も、その手法を使っていると、なんとなく思った。


いや、現代オタクカルチャーを通して現代文化/人間像を語った名著である、東浩紀の『動物化するポストモダン』も、書き方としてはチャート式だ。

何が言いたいか、っつーと。


「生き抜く術」をある程度有効に語るには、「ハハッ参考書じゃあるまいし」みたいに言われるチャート式も、それなりに役に立つのではないか、ということだ。


結局のところ我々の最終命題は、いかに自己を解析するかではない。「それは手段にすぎない」。むしろウィトゲンシュタインが言ったように、「幸福に生きよ!」と、それのみを順守することこそが、人生の目的なのだろう。


解決が目的ではない。それは手段だ。分析も、議論も、否、辿りつこうとすることさえも、すべて手段だ。幸福になるための。


そんな単純な目的でいいのかと問うならば、それ以上の目的は何だと問いたい。


人生における哲学的意味? ではそれを得て幸せに死ねる確率何パーセント?


自然現象の究極原理? 結局それは個人が楽しむものにすぎない。酔えればそれでよし。自己満足という酒。少なくとも、それで安らかに死ねるだろう。


死ぬ死ぬうるさいよ、というかもしれんが、結局人間の最後はそれなのだからして。


その冷酷な事実に、ささやかながらでも対抗するべくは、わずかながらでも、まあいいじゃん的に、「幸福に生きよ」、これしかない。


だったら……そのためには「何でも使ってしまえ」。


無様だろうが何だろうが、結局人は死ぬのだから、それまでに自分の人生を幸福に……とまではいかずとも「とんとん」くらいにまでもっていければ充分だろう。それすら出来ない人間がこの世の半分だ。


僕は難しく考えるのが好きだ。カオスのような人間模様や事象を、他のカオスと比較するのが性に合っている。


それは僕が、この物語をチャート式に語ろうとするのと、さして矛盾はしていない。


僕は様々なShape of Things Humanを並列する。ある種のチャートとして。それは人生を冷笑するためではない。人生を、懸命に生きぬこうとした証として、今ここにこうして語る。


この物語は、さまざまなShape of Things Humanのサンプル集であり、それらをまとめたチャート式の「カオス描写」である。


今になって思えば、僕はそのような青春を過ごしていた。幸せの意味を探そうとしていた。だが、意味なんてどうでもいいのだと、やっとあれらのことを通して僕は悟った。


この小説は幸せの定義を得るものではない。幸せを得た瞬間を写真に収めたまでのものである。

さあ、再び「僕」は大学時代の僕へと戻る――


ようやく、このお話がなにを語るか、主人公がつまびらかにします。これは作中時間から、数年以上くらいたったときのことでしょうか

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