クイツキ 狐憑きの少女②
悔い付いた。
『言いたいことがあるならさっさと爆発しろ』
それは、黄色く染まった落日の差し込む放課後。
週末だからか生徒のほとんどは即刻帰っており、人はまばら。そんな中で、置き勉常習である僕が机の中を整理していた時だった。
「よっ、陰陽師サマ!」
――僕の思い通りだった日常が、崩落の一途を辿る原因となった人物の言葉が飛び込んできた。
彼は、その名を八百霊海といった。高校二年に上がって、僕と一緒のクラスになったものの、特にこれといって喋ることのなかった生徒だ。
ぱっと見、目が死んでいるのがやや不気味だけれど、誰とでも仲良くなれる性格のため、好青年になるであろうイケメンには違いない。爆破してやろうか。
「……八百か。どこでそれを聞いた?」
「おまえ、評判だぜ? 最近よく悪霊みたいなのが出てンのを、なんと我らが二年D組の真ヶ月厄也(――やくや)大先生が退治しまくってるってよォ!」
やや大袈裟に身振り手振りで振る舞う。ここまで持ち上げられると、かえって魂胆が見え見えで沸々と笑いが込み上げてくる。
「"退治"しまくってるってのは誇張かな。……それで? わざわざ僕に『陰陽師としての評判がある』ってことを伝えるためにきたわけじゃないんだろ?」
これまで喋ることのなかった僕に、そうして声をかけたということは――つまり、『依頼したいことがある』ということ。それに加え、友人ぶって安く済まそうという魂胆があるからだろう。
「察しがいいねェ! さすが陰陽師サマだぜ」
八百は何やら虚無的にニヤつくと、懐から写真を取り出した。
学生服を着ているところを見ると、女生徒のようだが……。
「これは?」
「俺の妹だ」
「ほほう」
真顔だと悪どい顔にしか見えない八百霊海の妹にしては、純朴そうで可愛らしい顔をしている。
墨を垂らしたように美しく黒い長髪が印象的な大和撫子……といったところか。現代においては絶滅が確認された種だ。
「可愛いだろ? 言っとくけど、やんねェからな!?」
「八百の妹なんぞいらん」
八百の妹というのならば、どうせお調子者なのだろう。こんな可愛らしい顔をしていても、それは個人的にいただけない。かといって、姉ほど厳格な人間だと息が詰まってしまうのだけれど。
「それはそれでムカつくんだが……まあいい。あ、あと俺のことは霊海でいいぞ」
「そうか、じゃあ霊海、とっとと本題に入れ。鬱陶しいから。僕はそんなに暇じゃないんだ」
「ンだよォっ! フレンドリーにやろうっていう俺の気持ちがわかんねェのかよっ!」
「帰る」
話を遮断して席を立ち、すばやく霊海に背を向ける。
「分かった、分かったから! ちょっと待ってくださいいっ!」
と、背後からがっしりと肩を掴まれた。姉に格闘技を習っていた僕にとって、一般的な高校生の手を振りほどくことなど容易。
だが、さすがに懇願するような哀愁に満ちた声で言われたのでは可哀相なので振り向いておく。
「……実はな、妹が最近……っつか、取り憑かれてるみたいなんだよ。憑依っての? よそさまに見せられない状態だから、今も家に監禁してるんだ」
声を沈め、ヒソヒソと語る霊海。既に生徒は僕と霊海しかいなかったのだが、内緒話は形から入るのも大事なのかもしれない。
「ほう、監禁か……。兄妹でよくもまあハードなプレイをやるもんだな。で、憑依レベルはどんなもんだ?」
聞いたところ、憑依されて時間が経ちすぎているようだが。
「…………憑依レベルってのはよく分かンねェけど、狐の耳と尻尾が生えててさ、頬にヘンな文字みたいなのも浮かび上がってるし、自分のこと『我』とか言っちゃうんだよ。時々出てくる妹の声が悲痛でしかたねェ……」
なるほど、狐憑きか――狐の憑き物、つまり妖狐と言えば、やはり有名なのは九尾の狐か。
別名として玉藻前だとか、白面と呼ぶこともあるが、九尾の狐が呼び慣れたものだろう。
もっとも強大な力を持つ妖狐として頂点に君臨する化け狐だが――さすがの僕でも、九尾の狐を除霊出来るとは思えない。
「狐憑きね……まさかとは思うが、九尾の狐じゃないよな?」
「えっ」
「えっ」
何を驚く必要があるのか。まさか、どんな妖狐だったかを覚えていないのだろうか。
「もし九尾の狐だったら、高位すぎて手に負えないから断りたい。……尻尾はいくつあった?」
「……あ、三尾の狐だわ」
「えっ」
「えっ」
再度、ぽかんとして顔を合わせる。三尾の狐とはまた中途半端な妖狐だ。妖狐には尾裂狐という総称もあるので、決して三尾の狐でも間違いはないが。
「何かまずかったか?」
「……いや。それじゃあ、とりあえず霊海の家に向かおう。長らく憑依されたままだと手遅れになる可能性があるし、さっさと"浄霊"してしまった方がいい」
「おうよッ!」
話を聞いていたのかそうでもないのか、霊海は肝心の僕を置いて教室から飛び出した。コイツ、絶対に説明書等を読まずに自滅して文句を垂れるタイプだ。
――まあいい。
勇み足気味な霊海の駆けっぷりに少々たじろいだが、僕は勉強用と個人的なバッグの二つを肩に下げて、霊海の後を追った。
◇◆◇
霊海の家は高校の近くだった。霊海とは普段から接することがないだけに、おんぼろな貧乏屋敷か、洋式のマンションなどかと予想していたのだが――、そこには『和』が広がっていた。
簡単に言えば屋敷だ。それも、高校のグラウンドほどもあろうかという敷地に数件も並んだ家々。聞くところによれば、それらはすべて八百家のものらしい。
ところが、家には誰もいないらしく、霊海は次々と襖を開けて突き進んでいく。そして、立ち止まった霊海に案内された座敷に――ソイツは"在"った。
「どうだ、厄也。ぱっと見でもヤバそうだろ?」
確かに――これはヤバい。何がヤバいって、僕の了承も得ずにいつの間にか名前を呼び捨てにしていることがヤバい。どれだけフレンドリーなのか。
「……確かにまずい状態だな」
妹さんは椅子に座っていた。和室なのに椅子か、というツッコミはいれてあげない。
妹さんは、頑丈そうな太めの縄で椅子ごと体と両腕を縛り付けられ、足だって両方とも椅子の脚にくくりつけられている。
その頭には――黄昏れた色に焦がれたふさふさとした狐耳。足元にパタパタとうごめく尻尾らしきものが、三尾だけ確認出来た。
黒い布で目を覆われて目隠しをされているが、墨汁に濡れそぼったような黒髪からすると、妹さん本人で間違いなさそうだ。
「しかし本当だな……」
片方の頬には文字が刻まれている。遠目では何が書かれているのか見当もつかないけれど、恐らくは『神を罵倒する言葉』か?
妖狐は悪魔の類いではないはずだが、このように文字が浮き出るのは、悪魔の憑依としてはとてもポピュラーなことだ。
「で……どうすんだ? 俺、除霊ってやつを間近で見たことないんだよな、ヘヘッ」
「霊海はちょっとここから離れ……いや、外に出ててくれないか? 危ないからな」
「おお? わ、わかった。でも、妹に何かしたら許さねェからなっ?」
低めの声に理解を示してくれたのか、霊海はそれだけ言ってピシャリと襖を閉めた。
除霊と浄霊の違いを知らない者が相手である場合、嘘を吐く必要がなくて少しは楽なのだが、興味本位で覗かれると困る。
これは決して僕だからというわけではなくて。
万に一つの確率でも、除霊に失敗した場合、または逃げられた場合、今度は依頼者に憑依する可能性があるからだ。
二次災害は出来るだけない方がいい。もっとも、誤って僕自身に憑依した場合は――霊自身の『自殺』を意味するのだけれど。
「……さて。どうしてくれようか。なあ、おまえさん」
さっそく近づいて、数メートルの距離を空けつつ問い掛ける。
『…………誰だ、貴様は』
気配で分かるのか、目隠しのままこちらを向いた。高めでキツそうな声が二重になって聞こえる。恐らくは、妹さんの声に合わせて発言しているのだろう。
例え宿主の声を借りてでも、まともに会話が出来るということは、低級霊とは一線を画するくらいレベルの高い霊ということか。
「僕はしがない陰陽師……名乗るほどの者ではない、ってね」
『……ふざけておるのか? まあ誰でもよい、我を離せ』
縛り付けられた椅子とともにガタガタと揺り動き、目隠しの下から必死に僕のシルエットを捉えようとする。
「ろっと、そうはいかない。僕はあんたを除霊しに来たんだ。三尾の狐さん」
『…………我を、除霊だと? 何を馬鹿げたことを申すのだ?』
ピタリと動きを止めた妹さんの姿をした狐は、尻尾だけを器用に動かして地に何度も擦りつける。苛立ちを隠せない様子。
「もちろん冗談じゃない。妹さんの体を返してもらわないと、妹さんが可哀相だろ? 勝手に人に憑依して害を為す三尾の狐ごときに『居場所』はないんだよ」
『クッ……矮小な陰陽師ごときが。我の妖術で娘の体を八つ裂きにしてくれてもよいのだぞ?』
「そんなことをすれば、霊体のあんたは行き場を亡くして力が弱まるだけだ。そうだろ? それとも――今度は僕に移ってみるか?」
『……………………貴様からは何やら不気味な"異臭"がしおるわ。とても入り込める気がせん』
僕の『血』が分かるのか。コイツは僕が思う以上に、高位にある霊なのかもしれない。それに加え、低級霊にありがちな俗物的な物言いではない。
もし本当に高位な霊だとすれば、何かしらの目的があって、妹さんの体に憑依したのだろう。
「あんたの目的は? よかったら聞かせてくれないか?」
『嫌だ、と言ったら?』
目隠しの上からでも分かる、挑戦的な眼差し。僕は持ってきていたバッグの中に手を突っ込んで、『あるモノ』を掴んだ。
「即刻『爆破』する。言いたいことがあるなら今のうちだぞ」
『……ククッ、面白い。やれるものならやってみよ。この縄をほどかずとも、貴様を始末することくらい我の力でどうとでもなるのだぞ……っ!』
不穏なる空気の流れ。けたたましい霊気の流れを感じた。
すぐさま霊を見るための『霊眼』に切り替えると、妹さんの全身からはどす黒い障気が滲み出し、空気をわななかせ――、漆黒の闇にも溶け合いそうなはずの髪が、星のごとく燦然と仄めく黄金色の髪に変貌していた。
「完全憑依……か?」
完全憑依はその人の姿が変わることではなく、媒体となった者の完全なる精神の支配だ。このような変貌は、そこそこ除霊経験の多い僕でも初めてである。
『我を除霊しようとしたこと……後悔するがいいッッ!』
言うと、妹さんの体に焔をまといはじめる。金色に輝く毛髪が針のように逆立ち、目隠しの布が燃え上がった――直後のこと。
「鉄拳制裁ィィィッッ!」僕は霊気を高める隙を与えず、有無を言わさず椅子を足払いして。
『――ごっふぅッ!』すってんころりと椅子ごとひっくり返った妹さんは、頭を激しく打ち付けて。目を見開いて僕を見据える。
『きっ、貴様! 卑怯だぞ!? 我の見せ場が――ッ!』
「知らん。成仏しろよ」
現れた不透明で不鮮明な『霊』の首根っこを引っつかみ、妹さんの体から引きずり出して、僕はもう片方の手でバッグに入れておいた『サーメート』を取り出す。
サーメートとは、簡単に言えば爆弾である。効果は一点集中型の極狭い局地的な範囲ながら、威力は並の爆弾を遥かに凌駕する。
爆弾といえど爆発的な力が強いわけではなく、コイツの恐ろしさは温度の高さ。華氏温度で最大『五千度』にも及ぶのだ。
しかも、コイツは燃焼に酸素を必要としない異端児なので、例え水中だろうと使用が可能だ。それに加え、普通の爆弾と違って範囲が半径2メートル程度と非常に狭い上に、燃焼時間も3秒間程度と短く、辺りを巻き込まずに済む利点が大きい。
まさしく最強の爆弾。『物理的除霊』をする僕にはうってつけの『武器』の『一つ』である。
「すまん、霊海。燃やすぞ」
と言っても、霊海は外なのだけれど。完全憑依した霊に手加減したら、別の誰かに移ってしまう可能性があるから仕方ない。
じたばたと暴れる霊を足で畳に押さえ付けながらも、僕は手に持ったサーメートのピンを抜き、即座に霊の方へとぶん投げる。
『がぼォっ!』
僕の霊力が込められたサーメートは、ぽかんと開かれた霊の口にすっぽりと入り込んでくれた。
その瞬間、「悪霊吹っ飛ばされた――――――ッッッ!!」
僕は、広縁から見える中庭に向かって霊を蹴り飛ばした。
いくら範囲が狭くとも、華氏五千度もの高温を間近にしてはいろいろとよろしくない。巻き込まれて自分が成仏なんて勘弁だ。
幸い、自作のサーメートなので爆破までの遅延時間は長くしてある。そうして霊は『ひゅーん』と中庭の空に浮いて――
DGOOOOOOォォォッ!!
辺りに閃光のごとき底抜けの光がほとばしった。やはりサーメートの効果は甚大かつ素晴らしい挟範囲。被害は微塵もない。
どうやら、熱はもう問題なさそうだ。
「……よし、除霊完了」
隣で椅子に縛り付けられたままの妹さんを見る――と。
「…………貴様、惚れ惚れするほど恐ろしい男よのう……」
「えっ」
心の底から感心するような、いや、呆れ果てたような顔をした金髪の狐耳少女が、そこにいた。
「えっ」
「えっ、いや、何で?」
「……むう。まさかあのような妖術を扱うとは、と思うてな」
「えっ」
「えっ」
「まず僕のは妖術でも何でもないし、あんたはさっき引きずり出して燃やしたはずだし」
僕が言うと、妹さんの体をした化け狐は小さめに嘆息した。
「あれはサキであろう」
横向きに倒れ込んだまま、化け狐は悠然としてそう言った。視線が向かう先は、刹那にして熔け落ちたサーメートの残骸であり、霊の気配もないのだけれど。
「サキ……?」
妹さんの名前か。そういえば、霊海のやつに名前を聞いていなかったのを思い出した。
「なんだ貴様、娘の名も知らんかったのか? だから我は話を聞けと申したであろう」
聞いていない。
「そんなことはどうでもいいんだ。なぜ入れ替わった?」
「……………………貴様、やけに冷静な陰陽師かと思えば……ただの阿呆だったのか? 思いっきり我が表に出ておるのだから、引きずり出されるのはサキの方に決まっておろうが」
化け狐がもっともらしいことを言っているようだが、僕のやり方に間違いはないはずだった。
化け狐は、言うなればサキさんの後に入り込んだ霊魂なのだから、体にとっての異物、そして邪魔者なのは化け狐の方であって。
サキさんの本体に深く根付いた魂があっさりと抜けるはずがない。それほどサキさんの魂が衰弱していたということかもしれないが、それにしても不自然な……。
「…………うん、まあ、大丈夫だ、あくまでも除霊にすぎないし、サキさんはどこかに漂ってるだろうから捜し出せる。問題ない」
完全に言い訳である。頭の中は霊海にどんな言い訳をするかでいっぱいである。
除霊した霊魂なんてどこに飛ぶか分からないし、捜すにしても目処が立たない。世界中を当てもなく歩き回るのと同じ。砂漠において、砂の中に隠した砂を探し当てるくらいに途方もないことだ。
「…………おい、貴様。サキを捜すのか」
僕のつぶやきを聞いてか、化け狐がじっとりとした目をこちらに向けながら問いかけた。
「まあ、そうだな」
「そうか、ならば我と『契約』せぬか? 我も衰退した力を取り戻したいという気持ちがある」
「……何言ってるんだよ」
サキ本体という媒体がいなくなったことで、力を失ったのだろう。コイツの言う契約というものがどういう意味なのかは不明だが、みすみす妖狐としての力を取り戻させる意義は感じられない。
「……ふむ。サキ自身の体である我を連れておけば、どこぞへ散ってしまったサキの霊魂を体へ誘導することも可能だろう。もともと、この体はサキの体なのだから、サキ自身が元に戻りたいと願う限り、我に引き寄せられることは明白だ。それに、我は宿主であるサキを好いておるのだ。サキをこのままにしてはおけん」
僕を見上げた瞳は、真剣そのもの。そう思えたけれど。言っていることだってそれらしいが――騙すつもりなのかもしれない。
しかし、確かにコイツの言う通り。サキさんの器を持った妖狐ならば、いずれ引き寄せられて戻ってくるかもしれない。反して、僕には口寄せなどをおこなう『イタコ』の力はない。
「…………あんたは、現世にいちゃいけない霊なんだよ。解放するわけがないだろ」
けれど踏みとどまって、不敵に僕を見上げる妖狐の誘いを一蹴する。
何せ、僕には『あの姉』がいるのだ。史上最強の陰陽師である姉ならば、死霊の魂を自分のもとへ呼び寄せることも容易だろう。
だがしかし、リアルな世界にいる生きた人間を除霊し、さらにそれを呼び寄せたことなどない。ゆえに、上手くいくかどうかは賭けになるだろう。
……待てよ、姉の存在があるゆえに妖狐の誘いは断ったものの、このような不祥事があったことを姉に知らせて、僕はただで済むのだろうか。いや、済まない。
これを姉に知らせることは、ハイリスク&ハイリターンどころか、ハイリスク&ハイリスクだ。断言出来る。
それに依頼者や周りの人のことを何よりも大切にする姉のことだから、『やらかした』僕を『斬ろうとする』かもしれない。
Brrrrr……。
考えただけでもぞくりとした。体が小刻みに震えてしまう。
「いいのか、我の体はサキそのものだぞ。宿主であるサキの魂が戻った時、あられもない姿だったら――サキは絶望するだろうな」
「…………」
そうか、その問題もあった。
サキさんの魂がどこかへと飛んでしまった以上、サキさんの体を管理するのはコイツ――か。
サキさんが戻るまで、サキさんの健康を維持してもらわなければならない。先程まで僕に刃向かおうとしていたコイツが大人しくしているとは思えないが……。
この際、どうしようもない。僕だって姉に惨殺されるのは勘弁だ。妖狐を放って、力ずくでもサキさん捜しを手伝わせよう。
霊海には、正直に事情を話して許してもらうしかない。
文句を言われても仕方がないけれど、お詫びにどこにあるとも分からない魂を捜そうというのだ。魂の器となるサキさんの体はあるのだから、きっと納得してくれるだろう。
「…………解放しても逃げ出したりしないか?」
「何を言うのだ。我はもともとそのようなことをするつもりはない。だいたい貴様や『あの男』さえいなければ、我はサキに危害を加えるつもりなどなかったのだ」
妖狐は忌々しげに嘆息を絡ませながら、事の原因を吐き出す。
あの男――というと、恐らく未だ外で待機しているであろう霊海のことに違いない。
霊海の話では、サキさんがこの妖狐に憑依されてわりとすぐ縛り付けたようだから、それで少しばかり根に持っているのだろう。
「分かった、あんたを解放してやる。だけど――、何かしでかそうとしたら……いいな?」
凄んでみせたが、単なるブラフだった。妖狐を引きはがせない今、僕に出来ることはない。サキさん本体を傷つけることなど、許されることではないからだ。
「分かっておる。第一、そのような無駄な抵抗をする以前に、我には『目的』があるのだ。それに加え、我と『契約』した貴様と、離れることなどできん」
「どういう意味だ?」
「気にするな」
……と、言われましても。契約内容が分からないままセールスマンの話術にかかったようだ。
「…………契約といっても『まだ』何かするわけではないぞ。貴様は普通にしておればよい。我は『契りの約束』をしただけだ」
「契り……?」
「契りでは分からんのか? 別の言葉に変えれば……『肉体関係を持つ』ということだ」
「えっ」
「えっ」
「なにかんがえてるの」
コイツはサキさんの体で何をする気だ。そんなことをすれば、それこそ霊海に木っ端微塵にされても文句を言えない。
「うむ、貴様の『力』が強大なのは見て取れる。貴様と契れば、より強い力が身につくだろうからな。そうすると、我の目的も達しやすくなるというものだ」
「だから目的を言えと」
「目的は目的だ。貴様に教える義理はない。なに、我の目的は絶対に人間へ危害を加えるようなことではないぞ。約束しよう」
ニヤリと微笑んで、やすやすと『約束』などと口走る妖狐。
妖狐の言う約束など信用するに値しないのだけれど。
「……しょうがないか」
どうせ、僕にサキさんを捜す手はない。本来ならほかのイタコにでも依頼すればいいのだが、僕が失敗したことが知れ渡ると今後の活動に多大な影響が出てくる。そこから姉の耳に届いたら……。
やはり、ここは妖狐の言うことを聞いておくしかない。一陰陽師としては、不本意だけれど。
「まあ、とりあえずだな、はようこれをほどいてくれんか。締め付けられて痛いのだ」
耳を少し垂れ下げ、尻尾を上下にパタパタとさせる妖狐。悩ましげにクネクネと体を揺り動かすさまに頷いて、僕はようやく縄をほどいてやった。
固く結ばれた縄をほどいてみて、初めてこれが注連縄であることが分かった。
しかも、手触りからいって上等な代物のようだ。だから動けず、妖狐としての力を封じられて、さらに奪われていたのだろう。
「……ふう。抜かったな、阿呆陰陽師! 自由になればこっちのもの! 今こそ我の力を思い知るがいい――――ッ!」
ほどかれた途端、猛り狂う妖狐。ただし、先程まで縛り続けられていたために、足元はふらついている。所詮、今はサキさんの体に頼ることしか出来ないというわけだ。
あまりにも想定内すぎてキョトンとしてしまったが、霊眼で見ると、空気中の僅かな『霊力』が妖狐の体に吸い込まれていくのが分かった。本調子ではないのか、強い霊力は集まらないけれど。
「はいはい」
僕は、妖狐が動くよりも速く、腰元に忍ばせておいたアーミーナイフを取り出し、妖狐の首に刃の腹をピタリとつけた。
「なっ……! さっ、サキの体だぞ、これはっ! いいのか、こんな外道な真似をして!?」
裏切り、不意打ちと、行為自体は読みやすくてありふれてはいるけれど、至極卑怯な真似をしたヤツが何を言うのかと。
その間に、妖狐の頸動脈に当てがったナイフの刃先が皮膚をじわりと裂き、血がぽたりと垂れて畳の上に赤い斑点を作った。
「ろっ、血が出てるよ、三尾の狐さん。どうせサキさんは、僕とは『何の関係もない』んだよ。それにあんた、言うこと聞かないなら、ただの危険な霊だろ。そんなやつを現世に放っておくくらいなら、僕が始末する。理解出来たところで、首撥ねよっか?」
握ったナイフの柄に力を込める。実は、喋っている間に刃を裏返しているので、斬れることはない。だが、その様子を見ることが出来ない妖狐からすれば『刃が首元に強く食い込んでいる』と錯覚を起こすことだろう。
「……わ、分かった。降参する。貴様に協力すればよいのだろう? サキを捜すことに関しては我も賛成だからな……」
両手を上げ、ふさふさの尻尾も三尾とも持ち上げて、揺らめく黄金色の髪だけは覇気もなくぺたりと垂れ下げて。僕に助けを請うような目でそう訴え、お手上げ状態であることを示す。
「じゃあなぜ逆らったし」
「………………えと、本能」
『エヘ』なんて舌をちろっと出してごまかしたところで、呆れ果てた僕の胸には届かないのだが。
いくら高位な霊であろうと、霊としての他者を支配したがる本能はあるということか。初めて知った。それとも、単純にコイツのプライドが高いだけか。恐らくは後者なのだろうけれど。
「まあいい。さっきみたいに、意味なく人を殺そうとする『ばか』だってことも含めて霊海に事情を話して、それからあんたの処遇をどうするか決めるとしよう」
ナイフを腰元に戻して、妖狐を指差す。すると、妖狐の腰ほどまでに垂れた黄金の錦糸にたがわぬ髪と、毛束感のある三つの尻尾が同時にビクリと動いた。
「わ、我がばかだと? 貴様、調子に――っ!」
いきり立つ妖狐だったが、僕はすばやく背後に回って妖狐の首を両腕でそっと固める。無言で。
「う、うむ、そうだな! 我はばかだなっ! ハハ……っ」
渇いた笑みを浮かべて、妖狐はようやく大人しくなった。僕に逆らったところで、何の意味もないと理解出来たらしい。
――こうして僕は、『サキさん本体の霊魂捜し』のために、数多の依頼と幾多の化け物と出遭うこととなる――それが妖狐という存在に引き寄せられたものであることは容易に分かるのだけれど、サキさんが戻るまではどうにも出来ない――という、わけのわからない日々に陥るのであった。