表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

「通訳は不要だ」と言われたので、五年分の暗号解読書ごとお暇することにしました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/21

「エルナ。お前には、もう用がない」


 王太子エドモンドの言葉は、予想していたより、ずっと静かだった。


 エルナ・フォン・ハウプトマンは立ったまま、玉座の間の石床を見つめた。大理石の模様が、春の昼の光の中でぼんやりと白く光っている。


(——ああ、やはり今日か)


 五年間。毎朝この廊下を歩きながら、いつかこの日が来ると思っていた。


「ご用命の件、承りました」


 頭を下げると、隣に立つヴィオラ嬢が小さく笑う音がした。侯爵家の次女で、エドモンドの最近のお気に入りだ。「四カ国語が話せる」と自称している。先週、東方語の翻訳を頼まれた彼女が提出した文書の中に、三箇所の致命的な誤訳があったことを、エルナは知っている。黙っていたが。


「解読書や翻訳記録は、後任に引き継げ」


 エドモンドはすでにヴィオラの方を向いていた。


「——かしこまりました」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 執務室に戻ったエルナは、棚を眺めた。


 革表紙の本が三十七冊。全て、自分が一から作成した暗号解読書だ。


 古代ガルベン語、消滅した東方文字、近隣六カ国の外交暗号、王宮独自の機密文書体系——。五年間、ときに徹夜をしながら積み上げてきた記録が、この棚に収まっている。


「引き継ぐように、とのことでしたね」


 エルナは棚の前に立ち、本の背表紙を一冊ずつ指で触れた。


 一冊目。入宮した年の秋、最初に解読に成功したガルベン語の暗号体系。あの頃のエルナは二十歳で、王宮の石畳が冷たくて、毎晩机の上で丸くなって眠っていた。


 十一冊目。三年前の冬、隣国ベルナートからの軍事通信を解読して、国境での紛争を未然に防いだときの記録。あの夜も徹夜だった。解読が終わった時、窓の外に朝日が差していた。誰かに報告する前に、エルナは一瞬だけ、その朝焼けを眺めた。


 三十七冊目。先月完成させたばかりの、南方連合国の新暗号体系。


「——これは」


 エルナは静かに言った。


「私が自費で購入した紙に書いた記録です」


 棚の本を全て、手持ちの布袋に入れ始めた。


「勤務時間外に作成した私的な研究資料ですので、持ち帰っても問題ないはずですね」


 就業規則を、エルナは昨日の夜に確認していた。王宮支給の備品でなければ、持ち出しを制限する規定はない。


 机の引き出しを開ける。五年分の翻訳メモ、外交電文の草稿、暗号対照表。全て自前のノートだ。


 布袋が三つになった。


「お世話になりました」


 誰もいない執務室に向かって、エルナは小さく頭を下げた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 王都から三時間の実家に帰り着いたのは、日が沈みかけた頃だった。


「エルナ! 突然どうしたの」


 母親が玄関で目を丸くした。


「少しの間、世話になってもいいですか」


「もちろんよ。でも顔色が……大丈夫?」


「大丈夫です」


 エルナは布袋を三つ、自室の棚に並べた。


(本当に大丈夫かどうかは、今はまだわからないけれど)


 窓の外に夜の星が出始めていた。


 あの窓から見える星に、三年前、一度だけ書いたことがある。翻訳文書の余白に、ほんの一行。『今夜の星が綺麗です』と。公式文書への私的な書き込みは規則違反だった。翌朝、反省して余白ごと切り取ったが——なぜあんなことをしたのか、今でも自分でもよくわからない。あの夜は特別に長い徹夜で、解読が終わった後に窓の外を見たら、ちょうど大きな星が一つ、瞬いていたのだ。


 五年間。誰かに「よく頑張りましたね」と言われたことは、一度もなかった。


 エルナは窓の外を見ながら、目を閉じた。


 涙は出なかった。なぜだろう、と思った。悲しいのか、悲しくないのか、よくわからない。ただ少し、体が軽かった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 翌日から、王宮の外交部門が止まった。


 という情報は、実家に引きこもっていたエルナの耳にも入ってきた。


 まず、南方連合国との国境条約の再交渉文書が解読できなかった。次に、ベルナート王国からの緊急通信が「判読不能」と報告された。三日目には、東方諸国からの使者が謁見の場で苦笑したという——「訳文に誤りがある」と。四日目には外交部長官が王太子への上申書を提出した、という噂が届いた。


 母親が心配そうに新聞を広げる。


「王宮で外交上の混乱が……と書いてあるわね」


「そうですね」


「あなた、何か知っている?」


「さあ」


 エルナはお茶を飲んだ。


(引き継ぎは「不要」とおっしゃいましたから)


 ヴィオラ嬢の気持ちを、エルナは特に憎んではいなかった。あの人は、ただ自分の実力を過信していただけだ。「四カ国語話せる」は、おそらく旅行程度の会話力のことだったのだろう。それを指摘せず黙って退職したエルナにも、多少の責任はあるかもしれない。


 ただ、指摘する機会を、誰もくれなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 退職して五日目の朝、見知らぬ馬車が実家の前に止まった。


 馬車の紋章を見た瞬間、エルナの心臓が一瞬止まった。


「——ベルナートの、外務卿紋章」


 隣国の最高外交責任者。三年間、公式ルートで文書をやりとりしていた相手。会ったことは一度もない。


 馬車から降りてきた男は、想像より若かった。三十代前半くらいだろうか。長身で、黒い外套を着ている。暗い色の目が、エルナをまっすぐに見た。


「エルナ・フォン・ハウプトマン嬢ですか」


「……はい」


「ルートヴィヒ・フォン・ブレンターノと申します。ベルナート王国外務卿です」


「存じております」


「単刀直入に申し上げます」


 ルートヴィヒは一歩近づいた。


「我が国の外務省に来ていただけますか」


 エルナは目を瞬かせた。


「……採用の打診、ということですか」


「そうです。待遇は今より良くします。住居も用意します」


「なぜ急に」


「急ではありません」


 ルートヴィヒは言った。


「三年間、あなたの翻訳文書を読んでいました。我が国が送った暗号文書が翻訳されて戻ってくるたびに、思っていました。この人は、ただ意味を訳すのではない。外交的文脈、行間の意図、書き手の心理まで読んでいる、と」


 エルナは黙って聞いた。


「だから」とルートヴィヒは続ける。「あなたがあの王宮を出たという報せを聞いた時、すぐにここへ来ました」


「それは……かなり決断が早いですね」


「ええ」


「外務卿自らが来なくても、使者を出せばよかったでしょうに」


「使者では伝わらないことがあります」


 ルートヴィヒは、かすかに表情を動かした——微笑みとも、困惑ともとれる、小さな変化。


「あなたの翻訳文書に、一度だけ、余白に走り書きがありました」


 エルナの胸が、きゅっと縮んだ。


「——三年前の、あの」


「ええ。翌朝に切り取られていたので、本来は見てはならなかったものかもしれない」


 ルートヴィヒはわずかに目を細めた。その表情に、初めて、外交官の仮面とは別の何かが滲んだ。


「正直に申し上げます。あの一行を見た時、私はすぐに切り取るつもりでした。公式文書への私的書き込みは、外交規則上、記録抹消が妥当です」


「……それでも」


「読んでしまいました」


 ルートヴィヒはまっすぐにエルナを見た。


「『今夜の星が綺麗です』と」


 エルナは言葉を失った。


「私がその文書を受け取ったのは、明け方の四時でした」ルートヴィヒはゆっくりと言った。「東方との国境紛争が一触即発だった夜で、私も徹夜でした。あなたからの緊急解読が届いて、書類を開いたら——その一行があった」


 声が、わずかに低くなった。


「外交文書で、私が夜通し待っていた暗号解読の末尾に。誰に送るでもない、ただの、星の話が」


 エルナは動けなかった。


「その瞬間、思ったのです。この人も、今夜、同じ窓の外を見ていたのかと」ルートヴィヒは言った。「同じ夜に、私は戦争の心配をしていて、あなたは暗号を解いていて、どちらも徹夜で——それでもあなたは、星が綺麗だと思う人間だったのかと」


(——どうして)


 エルナの目の奥が、じわりと熱くなった。


(どうして、この人だけが)


 五年間。誰も見ていてくれなかった。解読書が完成しても、条約交渉が成功しても、「よくやった」と言われたことは一度もなかった。


 ただの走り書きを——規則違反の、翌朝に自分で切り取った一行を——明け方の四時に、隣国の外交官が読んでいた。


「だから、いつか会いに来たかった。それが三年かかりました」


 ルートヴィヒが、初めて、かすかに苦笑した。


「外交官として、適切なタイミングを見極めていたわけではありません。ただ——あなたがまだあの王宮にいる間は、私が動けば、あなたの立場を危うくすると思っていました」


 エルナは息を呑んだ。


(この人は、三年間、私のことを心配していた)


(名前も、顔も、知らないまま)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 エルナがベルナート王国への転職を受諾したのは、翌日のことだった。


 それから一週間後、ハウプトマン王国宮廷から使者が来た。


「エルナ嬢に、王宮外交部門への復帰をお願いしたい」


 使者は汗をかいていた。


「南方との条約交渉が停止しております。東方使節が滞在を延長しています。我が国の外交が——」


「復帰は難しいです」


 エルナは静かに答えた。


「私はすでに別の職に就くことが決まっておりますので」


「しかし——」


「また、暗号解読書についてですが」


 使者を遮ってエルナは言った。


「あれは私の私的財産ですので、返却はいたしかねます」


「そ、そんな。三十七冊もの——」


「五年間、自費で購入した紙に、自分の時間で作成したものです。所有権は私にあります」


 使者は絶句した。


「では、複写だけでも——」


「有償になります」


 エルナはにっこりと微笑んだ。穏やかに、しかし一切の隙もなく。


「暗号解読書一冊につき、金貨五十枚でいかがでしょう。三十七冊で千八百五十枚です。一括払い、前払いで承ります」


「き、金貨千八百五十枚……」


「五年分の労働の対価としては、適正価格かと存じます。ご検討ください」


 使者が青ざめて帰っていった後、エルナは一人静かに息を吐いた。


(怒ってはいない。これは、ただの正当な取引だ)


 ただ、五年分の徹夜を、五年分の「不要だ」を、値段にしたら、これくらいにはなるだろうと思っただけだ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ベルナート王国の外務省に赴任してひと月が経った頃、エルナの机には毎朝花が飾られていた。


 ルートヴィヒが、小さな花瓶に一輪ずつ入れて置いていく。


「わざわざ外務卿自らが」と同僚たちはこっそり笑う。「あの方が毎朝一番早く来られるのは、ハウプトマン先生の机の花を替えるためですよ」


 エルナは少し困惑しながら、今日の白い小花を見た。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 赴任から三週間目の夜、エルナは初めて行き詰まった。


 南方連合の新暗号。書き方は知っている体系に近い。しかし、どこかが微妙にずれている。規則性が見えそうで見えない。こういう感覚は久しぶりだった。


(どうしよう)


 夜の九時を回っていた。同僚たちはとっくに帰宅している。


(……駄目だ。今日は解けない)


 エルナはペンを置いた。前の王宮なら、解けなかったことを翌朝のうちに黙って処理していた。誰かに「わかりません」と言う習慣が、五年間で完全に消えていた。


 ドアをノックする音がした。


「……どうぞ」


 入ってきたのはルートヴィヒだった。手に、二人分の茶器を持っている。


「まだいらっしゃいましたか」


「あ……すみません、遅くまで」


「謝ることはありません」ルートヴィヒは机の端に茶を置いた。「行き詰まっていますか」


「……お分かりになりますか」


「ペンを置く音が変わると、廊下に聞こえます」


 エルナは少し目を見開いた。


「南方の新暗号です」エルナは書類を示した。「基本体系はガルベン式に近いのですが、どこかに変則規則が混在していて」


「ああ」ルートヴィヒは書類をちらりと見た。「南方は昨年、暗号顧問を更迭しています。新顧問が旧体系に癖を加えた可能性があります」


「——癖」


「顧問の名前から、私的な数字を差し込む習慣があると聞いています。生年月日か、子どもの数か」


 エルナは書類を見直した。もし個人的な数字が変換規則に混入しているなら——


(探す方向が変わる)


「試してみます」


「急がなくて構いません」ルートヴィヒは言った。「これは明後日の交渉までに解読できれば十分です。今夜は帰ってください」


 エルナは顔を上げた。


「……前の職場では、解読できるまで帰れませんでした」


「ここは違います」ルートヴィヒはまっすぐにエルナを見た。「あなたに無理をさせるために来ていただいたわけではありません」


 エルナは少し黙った。


(この人は)


(本当に、そう思っている)


「……わかりました」


 書類を片付けながら、エルナはふと気づいた。明後日まで時間があるなら、落ち着いて考えれば解けるかもしれない。焦っていたのは、五年間染み付いた「今夜中に終わらせなければ」という癖だったのかもしれない。


 翌朝、エルナは出勤して三十分で解読を完了した。


 南方の新暗号顧問の名前から逆算した変換数列。子どもが三人いる男だった。規則は単純だった——焦っていたから見えなかっただけで。


 報告書を書きながら、エルナは少し笑った。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 机の上には昨日届いた資料が積んである。ハウプトマン王国からの正式な交渉申し入れ——暗号解読書の購入について。金額は、エルナの提示した半額での打診だった。


(半額か)


 エルナはペンを取った。「誠に残念ながら、当初提示価格より下回るご提案は承りかねます」と書く。そして少し考えて、一行追加した。「なお、新規の解読書をご希望の場合は、別途ご相談ください」。


 ドアをノックする音がした。


「入ってください」


 ルートヴィヒが書類を持って入ってきた。


「南方連合との新条約案です。翻訳を確認していただけますか」


「はい」


 エルナは書類を受け取った。ルートヴィヒはそのまま立っている。


「……何か」


「一つ、聞いてもいいですか」


 珍しく、ルートヴィヒの声がわずかに低くなった。


「ハウプトマンから、復帰の要請が来ていましたね」


「はい」


「——迷いませんでしたか」


 エルナは少し考えた。


「迷う理由がありません」


「故郷の国、ですよ」


「故郷は大切です」エルナは窓の外を見た。「でも、五年間働いた場所が、自分の家だったかどうかは別の話です」


 沈黙。


「ここは、どうですか」


「——はい」


 エルナはルートヴィヒを見上げた。


「ここでは、私の仕事を見ていてくれる人がいます。それが」


 言葉が詰まった。


(泣くことはない。ここで泣いたらインクが滲む。書類が読めなくなる)


 思わず自分の昔の癖が出て、エルナは小さく笑った。


「——とても、ありがたいです」


 ルートヴィヒが静かに一歩近づいた。


「エルナ嬢」


「はい」


「三年分の文書のやりとりを経て、今日まで一緒に仕事をして——確信しました」


「……何をですか」


「あなたのそばにいたい、ということです」


 エルナは瞬いた。


「外務卿として、ではなく」とルートヴィヒは言った。「一人の人間として」


「それは」エルナは少し頬が熱くなるのを感じた。「プロポーズ、ですか」


「前段階として、まず交際の申し込みです」ルートヴィヒはやや真剣な顔で言った。「段階を踏みたいと思っております」


「……外交的な手順ですね」


「外交官ですので」


 エルナはふっと笑った。


 それが——解雇されてから初めての、心からの笑いだった。


「わかりました」エルナはルートヴィヒを見て言った。「受理します」


 ルートヴィヒが、かすかに表情を緩めた。普段の外交的な仮面がほんの少しだけ崩れて、その奥にある安堵の色が見えた。


(——この人も、緊張していたのか)


 エルナは少し驚いた。外務卿が、伯爵家三女に求婚を断られることを、ちゃんと恐れていた。


(それが、なんだか)


 温かかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 翌朝、エルナは新しいノートを開いた。


 表紙に書く。「ベルナート外務省暗号体系——第一巻」。


 窓から朝の光が差し込んでいる。この窓からも、夜は星が見える。昨夜、ルートヴィヒと執務室の廊下で少しだけ話をした。二人並んで外を見ていたら、大きな星が一つ瞬いていた。


「綺麗ですね」と言ったら、ルートヴィヒが「ええ」と答えた。


 ただそれだけのやり取りだったが、エルナはなぜかそれを、ノートに書き残したいと思った。


 ペンを持ったまま、少し考えた。それから、表紙の裏に小さく書き添えた。


「追記。昨夜の星が、綺麗でした」


——これは記録ではなく、今度は誰かに見せてもいい、ただの事実だ。


 窓の外から、春の風が吹き込んできた。エルナは目を細めた。


 三十七冊の暗号解読書が、実家の棚に並んでいる。いつか、自分の意志で手放す日が来るかもしれない。その時には、適正な価格で、ちゃんと交渉する。


 今日も仕事が始まる。

読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ