「通訳は不要だ」と言われたので、五年分の暗号解読書ごとお暇することにしました
「エルナ。お前には、もう用がない」
王太子エドモンドの言葉は、予想していたより、ずっと静かだった。
エルナ・フォン・ハウプトマンは立ったまま、玉座の間の石床を見つめた。大理石の模様が、春の昼の光の中でぼんやりと白く光っている。
(——ああ、やはり今日か)
五年間。毎朝この廊下を歩きながら、いつかこの日が来ると思っていた。
「ご用命の件、承りました」
頭を下げると、隣に立つヴィオラ嬢が小さく笑う音がした。侯爵家の次女で、エドモンドの最近のお気に入りだ。「四カ国語が話せる」と自称している。先週、東方語の翻訳を頼まれた彼女が提出した文書の中に、三箇所の致命的な誤訳があったことを、エルナは知っている。黙っていたが。
「解読書や翻訳記録は、後任に引き継げ」
エドモンドはすでにヴィオラの方を向いていた。
「——かしこまりました」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
執務室に戻ったエルナは、棚を眺めた。
革表紙の本が三十七冊。全て、自分が一から作成した暗号解読書だ。
古代ガルベン語、消滅した東方文字、近隣六カ国の外交暗号、王宮独自の機密文書体系——。五年間、ときに徹夜をしながら積み上げてきた記録が、この棚に収まっている。
「引き継ぐように、とのことでしたね」
エルナは棚の前に立ち、本の背表紙を一冊ずつ指で触れた。
一冊目。入宮した年の秋、最初に解読に成功したガルベン語の暗号体系。あの頃のエルナは二十歳で、王宮の石畳が冷たくて、毎晩机の上で丸くなって眠っていた。
十一冊目。三年前の冬、隣国ベルナートからの軍事通信を解読して、国境での紛争を未然に防いだときの記録。あの夜も徹夜だった。解読が終わった時、窓の外に朝日が差していた。誰かに報告する前に、エルナは一瞬だけ、その朝焼けを眺めた。
三十七冊目。先月完成させたばかりの、南方連合国の新暗号体系。
「——これは」
エルナは静かに言った。
「私が自費で購入した紙に書いた記録です」
棚の本を全て、手持ちの布袋に入れ始めた。
「勤務時間外に作成した私的な研究資料ですので、持ち帰っても問題ないはずですね」
就業規則を、エルナは昨日の夜に確認していた。王宮支給の備品でなければ、持ち出しを制限する規定はない。
机の引き出しを開ける。五年分の翻訳メモ、外交電文の草稿、暗号対照表。全て自前のノートだ。
布袋が三つになった。
「お世話になりました」
誰もいない執務室に向かって、エルナは小さく頭を下げた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
王都から三時間の実家に帰り着いたのは、日が沈みかけた頃だった。
「エルナ! 突然どうしたの」
母親が玄関で目を丸くした。
「少しの間、世話になってもいいですか」
「もちろんよ。でも顔色が……大丈夫?」
「大丈夫です」
エルナは布袋を三つ、自室の棚に並べた。
(本当に大丈夫かどうかは、今はまだわからないけれど)
窓の外に夜の星が出始めていた。
あの窓から見える星に、三年前、一度だけ書いたことがある。翻訳文書の余白に、ほんの一行。『今夜の星が綺麗です』と。公式文書への私的な書き込みは規則違反だった。翌朝、反省して余白ごと切り取ったが——なぜあんなことをしたのか、今でも自分でもよくわからない。あの夜は特別に長い徹夜で、解読が終わった後に窓の外を見たら、ちょうど大きな星が一つ、瞬いていたのだ。
五年間。誰かに「よく頑張りましたね」と言われたことは、一度もなかった。
エルナは窓の外を見ながら、目を閉じた。
涙は出なかった。なぜだろう、と思った。悲しいのか、悲しくないのか、よくわからない。ただ少し、体が軽かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日から、王宮の外交部門が止まった。
という情報は、実家に引きこもっていたエルナの耳にも入ってきた。
まず、南方連合国との国境条約の再交渉文書が解読できなかった。次に、ベルナート王国からの緊急通信が「判読不能」と報告された。三日目には、東方諸国からの使者が謁見の場で苦笑したという——「訳文に誤りがある」と。四日目には外交部長官が王太子への上申書を提出した、という噂が届いた。
母親が心配そうに新聞を広げる。
「王宮で外交上の混乱が……と書いてあるわね」
「そうですね」
「あなた、何か知っている?」
「さあ」
エルナはお茶を飲んだ。
(引き継ぎは「不要」とおっしゃいましたから)
ヴィオラ嬢の気持ちを、エルナは特に憎んではいなかった。あの人は、ただ自分の実力を過信していただけだ。「四カ国語話せる」は、おそらく旅行程度の会話力のことだったのだろう。それを指摘せず黙って退職したエルナにも、多少の責任はあるかもしれない。
ただ、指摘する機会を、誰もくれなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
退職して五日目の朝、見知らぬ馬車が実家の前に止まった。
馬車の紋章を見た瞬間、エルナの心臓が一瞬止まった。
「——ベルナートの、外務卿紋章」
隣国の最高外交責任者。三年間、公式ルートで文書をやりとりしていた相手。会ったことは一度もない。
馬車から降りてきた男は、想像より若かった。三十代前半くらいだろうか。長身で、黒い外套を着ている。暗い色の目が、エルナをまっすぐに見た。
「エルナ・フォン・ハウプトマン嬢ですか」
「……はい」
「ルートヴィヒ・フォン・ブレンターノと申します。ベルナート王国外務卿です」
「存じております」
「単刀直入に申し上げます」
ルートヴィヒは一歩近づいた。
「我が国の外務省に来ていただけますか」
エルナは目を瞬かせた。
「……採用の打診、ということですか」
「そうです。待遇は今より良くします。住居も用意します」
「なぜ急に」
「急ではありません」
ルートヴィヒは言った。
「三年間、あなたの翻訳文書を読んでいました。我が国が送った暗号文書が翻訳されて戻ってくるたびに、思っていました。この人は、ただ意味を訳すのではない。外交的文脈、行間の意図、書き手の心理まで読んでいる、と」
エルナは黙って聞いた。
「だから」とルートヴィヒは続ける。「あなたがあの王宮を出たという報せを聞いた時、すぐにここへ来ました」
「それは……かなり決断が早いですね」
「ええ」
「外務卿自らが来なくても、使者を出せばよかったでしょうに」
「使者では伝わらないことがあります」
ルートヴィヒは、かすかに表情を動かした——微笑みとも、困惑ともとれる、小さな変化。
「あなたの翻訳文書に、一度だけ、余白に走り書きがありました」
エルナの胸が、きゅっと縮んだ。
「——三年前の、あの」
「ええ。翌朝に切り取られていたので、本来は見てはならなかったものかもしれない」
ルートヴィヒはわずかに目を細めた。その表情に、初めて、外交官の仮面とは別の何かが滲んだ。
「正直に申し上げます。あの一行を見た時、私はすぐに切り取るつもりでした。公式文書への私的書き込みは、外交規則上、記録抹消が妥当です」
「……それでも」
「読んでしまいました」
ルートヴィヒはまっすぐにエルナを見た。
「『今夜の星が綺麗です』と」
エルナは言葉を失った。
「私がその文書を受け取ったのは、明け方の四時でした」ルートヴィヒはゆっくりと言った。「東方との国境紛争が一触即発だった夜で、私も徹夜でした。あなたからの緊急解読が届いて、書類を開いたら——その一行があった」
声が、わずかに低くなった。
「外交文書で、私が夜通し待っていた暗号解読の末尾に。誰に送るでもない、ただの、星の話が」
エルナは動けなかった。
「その瞬間、思ったのです。この人も、今夜、同じ窓の外を見ていたのかと」ルートヴィヒは言った。「同じ夜に、私は戦争の心配をしていて、あなたは暗号を解いていて、どちらも徹夜で——それでもあなたは、星が綺麗だと思う人間だったのかと」
(——どうして)
エルナの目の奥が、じわりと熱くなった。
(どうして、この人だけが)
五年間。誰も見ていてくれなかった。解読書が完成しても、条約交渉が成功しても、「よくやった」と言われたことは一度もなかった。
ただの走り書きを——規則違反の、翌朝に自分で切り取った一行を——明け方の四時に、隣国の外交官が読んでいた。
「だから、いつか会いに来たかった。それが三年かかりました」
ルートヴィヒが、初めて、かすかに苦笑した。
「外交官として、適切なタイミングを見極めていたわけではありません。ただ——あなたがまだあの王宮にいる間は、私が動けば、あなたの立場を危うくすると思っていました」
エルナは息を呑んだ。
(この人は、三年間、私のことを心配していた)
(名前も、顔も、知らないまま)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
エルナがベルナート王国への転職を受諾したのは、翌日のことだった。
それから一週間後、ハウプトマン王国宮廷から使者が来た。
「エルナ嬢に、王宮外交部門への復帰をお願いしたい」
使者は汗をかいていた。
「南方との条約交渉が停止しております。東方使節が滞在を延長しています。我が国の外交が——」
「復帰は難しいです」
エルナは静かに答えた。
「私はすでに別の職に就くことが決まっておりますので」
「しかし——」
「また、暗号解読書についてですが」
使者を遮ってエルナは言った。
「あれは私の私的財産ですので、返却はいたしかねます」
「そ、そんな。三十七冊もの——」
「五年間、自費で購入した紙に、自分の時間で作成したものです。所有権は私にあります」
使者は絶句した。
「では、複写だけでも——」
「有償になります」
エルナはにっこりと微笑んだ。穏やかに、しかし一切の隙もなく。
「暗号解読書一冊につき、金貨五十枚でいかがでしょう。三十七冊で千八百五十枚です。一括払い、前払いで承ります」
「き、金貨千八百五十枚……」
「五年分の労働の対価としては、適正価格かと存じます。ご検討ください」
使者が青ざめて帰っていった後、エルナは一人静かに息を吐いた。
(怒ってはいない。これは、ただの正当な取引だ)
ただ、五年分の徹夜を、五年分の「不要だ」を、値段にしたら、これくらいにはなるだろうと思っただけだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ベルナート王国の外務省に赴任してひと月が経った頃、エルナの机には毎朝花が飾られていた。
ルートヴィヒが、小さな花瓶に一輪ずつ入れて置いていく。
「わざわざ外務卿自らが」と同僚たちはこっそり笑う。「あの方が毎朝一番早く来られるのは、ハウプトマン先生の机の花を替えるためですよ」
エルナは少し困惑しながら、今日の白い小花を見た。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
赴任から三週間目の夜、エルナは初めて行き詰まった。
南方連合の新暗号。書き方は知っている体系に近い。しかし、どこかが微妙にずれている。規則性が見えそうで見えない。こういう感覚は久しぶりだった。
(どうしよう)
夜の九時を回っていた。同僚たちはとっくに帰宅している。
(……駄目だ。今日は解けない)
エルナはペンを置いた。前の王宮なら、解けなかったことを翌朝のうちに黙って処理していた。誰かに「わかりません」と言う習慣が、五年間で完全に消えていた。
ドアをノックする音がした。
「……どうぞ」
入ってきたのはルートヴィヒだった。手に、二人分の茶器を持っている。
「まだいらっしゃいましたか」
「あ……すみません、遅くまで」
「謝ることはありません」ルートヴィヒは机の端に茶を置いた。「行き詰まっていますか」
「……お分かりになりますか」
「ペンを置く音が変わると、廊下に聞こえます」
エルナは少し目を見開いた。
「南方の新暗号です」エルナは書類を示した。「基本体系はガルベン式に近いのですが、どこかに変則規則が混在していて」
「ああ」ルートヴィヒは書類をちらりと見た。「南方は昨年、暗号顧問を更迭しています。新顧問が旧体系に癖を加えた可能性があります」
「——癖」
「顧問の名前から、私的な数字を差し込む習慣があると聞いています。生年月日か、子どもの数か」
エルナは書類を見直した。もし個人的な数字が変換規則に混入しているなら——
(探す方向が変わる)
「試してみます」
「急がなくて構いません」ルートヴィヒは言った。「これは明後日の交渉までに解読できれば十分です。今夜は帰ってください」
エルナは顔を上げた。
「……前の職場では、解読できるまで帰れませんでした」
「ここは違います」ルートヴィヒはまっすぐにエルナを見た。「あなたに無理をさせるために来ていただいたわけではありません」
エルナは少し黙った。
(この人は)
(本当に、そう思っている)
「……わかりました」
書類を片付けながら、エルナはふと気づいた。明後日まで時間があるなら、落ち着いて考えれば解けるかもしれない。焦っていたのは、五年間染み付いた「今夜中に終わらせなければ」という癖だったのかもしれない。
翌朝、エルナは出勤して三十分で解読を完了した。
南方の新暗号顧問の名前から逆算した変換数列。子どもが三人いる男だった。規則は単純だった——焦っていたから見えなかっただけで。
報告書を書きながら、エルナは少し笑った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
机の上には昨日届いた資料が積んである。ハウプトマン王国からの正式な交渉申し入れ——暗号解読書の購入について。金額は、エルナの提示した半額での打診だった。
(半額か)
エルナはペンを取った。「誠に残念ながら、当初提示価格より下回るご提案は承りかねます」と書く。そして少し考えて、一行追加した。「なお、新規の解読書をご希望の場合は、別途ご相談ください」。
ドアをノックする音がした。
「入ってください」
ルートヴィヒが書類を持って入ってきた。
「南方連合との新条約案です。翻訳を確認していただけますか」
「はい」
エルナは書類を受け取った。ルートヴィヒはそのまま立っている。
「……何か」
「一つ、聞いてもいいですか」
珍しく、ルートヴィヒの声がわずかに低くなった。
「ハウプトマンから、復帰の要請が来ていましたね」
「はい」
「——迷いませんでしたか」
エルナは少し考えた。
「迷う理由がありません」
「故郷の国、ですよ」
「故郷は大切です」エルナは窓の外を見た。「でも、五年間働いた場所が、自分の家だったかどうかは別の話です」
沈黙。
「ここは、どうですか」
「——はい」
エルナはルートヴィヒを見上げた。
「ここでは、私の仕事を見ていてくれる人がいます。それが」
言葉が詰まった。
(泣くことはない。ここで泣いたらインクが滲む。書類が読めなくなる)
思わず自分の昔の癖が出て、エルナは小さく笑った。
「——とても、ありがたいです」
ルートヴィヒが静かに一歩近づいた。
「エルナ嬢」
「はい」
「三年分の文書のやりとりを経て、今日まで一緒に仕事をして——確信しました」
「……何をですか」
「あなたのそばにいたい、ということです」
エルナは瞬いた。
「外務卿として、ではなく」とルートヴィヒは言った。「一人の人間として」
「それは」エルナは少し頬が熱くなるのを感じた。「プロポーズ、ですか」
「前段階として、まず交際の申し込みです」ルートヴィヒはやや真剣な顔で言った。「段階を踏みたいと思っております」
「……外交的な手順ですね」
「外交官ですので」
エルナはふっと笑った。
それが——解雇されてから初めての、心からの笑いだった。
「わかりました」エルナはルートヴィヒを見て言った。「受理します」
ルートヴィヒが、かすかに表情を緩めた。普段の外交的な仮面がほんの少しだけ崩れて、その奥にある安堵の色が見えた。
(——この人も、緊張していたのか)
エルナは少し驚いた。外務卿が、伯爵家三女に求婚を断られることを、ちゃんと恐れていた。
(それが、なんだか)
温かかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、エルナは新しいノートを開いた。
表紙に書く。「ベルナート外務省暗号体系——第一巻」。
窓から朝の光が差し込んでいる。この窓からも、夜は星が見える。昨夜、ルートヴィヒと執務室の廊下で少しだけ話をした。二人並んで外を見ていたら、大きな星が一つ瞬いていた。
「綺麗ですね」と言ったら、ルートヴィヒが「ええ」と答えた。
ただそれだけのやり取りだったが、エルナはなぜかそれを、ノートに書き残したいと思った。
ペンを持ったまま、少し考えた。それから、表紙の裏に小さく書き添えた。
「追記。昨夜の星が、綺麗でした」
——これは記録ではなく、今度は誰かに見せてもいい、ただの事実だ。
窓の外から、春の風が吹き込んできた。エルナは目を細めた。
三十七冊の暗号解読書が、実家の棚に並んでいる。いつか、自分の意志で手放す日が来るかもしれない。その時には、適正な価格で、ちゃんと交渉する。
今日も仕事が始まる。
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