2話
――家計。
それは、宇宙の平和よりも維持が困難なシステムである。
タケルは、磨き上げられたコンテナハウスの床で、頭を抱えていた。
目の前には、ミーナが空中に投影したホログラムのグラフ。
赤字を示す棒線が、天井を突き破らんばかりに垂直上昇している。
「……なぁ、ミーナ。俺の貯金、どこ行った?」
「旦那様。昨日の『害虫駆除』に使用した魔導エネルギー、並びに銀河規格外の殺菌洗浄費用により、すべて熱エネルギーとして宇宙に霧散いたしました」
ミーナは、新品同様に真っ白なエプロンを整えながら、淡々と告げた。
琥珀色の瞳には、一ミリの申し訳なさも浮かんでいない。
「……このままじゃ、明日から飯が食えないんだけど」
「ご安心ください。私はメイドです。旦那様に飢餓という名のバグは許容いたしません」
ミーナがパッと指を鳴らす。
空中に、一枚の電子チラシが投影された。
『本日限定:駅前スーパー・激安パラダイス。豆腐一丁十円セール。限定百丁。お一人様一点限り。夕方十七時より』
「……豆腐?」
「はい。植物性タンパク質を極めて低コストで摂取できる、家計の救世主です。
これより、本ミッションを開始いたします。旦那様、出撃の準備を」
「お、おう。……って、これただの買い物だろ!」
***
二人が街へと降り立つと、そこは地獄絵図だった。
空には、昨日とは別の――もっと薄汚れてトゲトゲした宇宙戦艦が数十隻、低空で滞空している。
街のいたる所で黒煙が上がり、人々が叫びながら逃げ惑っていた。
「ひえぇぇ! 宇宙海賊キャプテン・ゴリだ! 略奪が始まるぞ!」
そんな叫び声が響く中、ミーナは優雅な足取りで歩を進める。
右手には、買い物袋。
その前方に、モヒカン頭で重火器を担いだ海賊の男たちが立ち塞がった。
「ヒャッハー! 運のねぇ野郎どもだ。命と金を出……」
「失礼します。道をお開けください」
ミーナが、無機質な声で遮った。
「あぁん? なんだこのメイド、頭沸いてんのか?」
「現在、時刻は十六時四十五分。スーパーのタイムセール開始まで、残り十五分です。
物理的な衝突によるタイムロスは、家計上の損失に当たります。速やかに退避を」
「何言ってやが……死ね!」
海賊が、至近距離からショットガンをぶっ放した。
タケルが「危ない!」と叫ぶ暇もなかった。
ミーナは持っていた買い物袋を、ふわりと一回転させた。
次の瞬間、放たれた散弾はすべて買い物袋の中に吸い込まれ――
ガガガガガッ!
という金属音と共に、ミーナが袋を振り抜く。
逆噴射された弾丸が、海賊たちの足元を正確に撃ち抜いた。
モヒカンたちが、ダンスを踊るような無様な格好でひっくり返る。
「……弾丸の運動エネルギーを回収し、袋の慣性力で増幅、返却いたしました。
ゴミの分別(弾丸の回収)は基本です」
「ミーナ! 凄いけど、あいつら海賊の幹部だぞ!? 艦隊が黙ってないぞ!」
タケルの言葉を証明するように、上空の戦艦から巨大な砲塔がこちらを向いた。
ズドォォォォォォン!!
放たれたのは、街を一つ消し飛ばす規模のプラズマ熱線だ。
ミーナは、静かに溜息をついた。
「……食材に埃がかかります。実に、不快です」
彼女は片手を空にかざした。
バシュッ!!
放たれた熱線が、ミーナの手のひら数センチ前で、まるで目に見えない壁にぶつかったかのように霧散した。
「……衝撃波、並びに熱源を熱力学第二法則に従い強制冷却。
これを『食材の鮮度保持モード』に転用します」
「……鮮度保持?」
「旦那様、ここで待機していてください。
豆腐を冷やすための『保冷剤』が、少々足りないようですので」
直後、ミーナの足元の大地が爆発したような音を立てて陥没した。
彼女の姿が消える。
コンマ数秒後、上空に浮かんでいた海賊の旗艦が、くの字に折れ曲がった。
ミーナが垂直跳び一閃。
音速を超えた彼女の蹴りが、戦艦の装甲を紙のようにぶち抜いたのだ。
***
旗艦のコックピットでは、キャプテン・ゴリが目玉を飛び出させていた。
「な、なんだぁ!? メイドが……メイドが突っ込んできただとぉ!?」
警報が鳴り響く中、自動ドアを蹴破ってミーナが入室する。
その手には、まだ買い物袋が握られたままだ。
「警告します、羽虫の親玉様。……あなたの艦隊から放出される魔導廃熱が、
地上にあるスーパーの冷房効率を低下させています」
「知るか! 殺せ! 全員でこいつを殺せ!」
海賊たちが一斉に抜刀し、ミーナに襲いかかる。
ミーナは無造作に歩きながら、右手に持った『埃取り(はたき)』を振るった。
シュバッ、バシッ、ボゴォッ!!
はたきが空気を切り裂くたびに、屈強な海賊たちが天井や壁にめり込んでいく。
それは戦闘というより、不快な汚れを払う掃除の動作に等しかった。
「……不衛生な。この艦内、掃除が行き届いていませんね。
動力炉の熱効率も最悪です。……よし、これを『冷媒』としてリサイクルしましょう」
ミーナが旗艦の動力炉に手を突っ込んだ。
本来なら数十万度を維持する核融合炉が、一瞬で凍りついた。
ミーナが動力炉の全エネルギーを「逆転」させ、
絶対零度に近い冷却エネルギーへと変換したのだ。
凄まじい冷気が、旗艦から周囲の艦隊へと伝播していく。
空に浮かんでいた海賊船が、次々と氷の塊となって地上へ落下し始めた。
まるで、巨大なカキ氷の雨だ。
「……確保いたしました。高級保冷剤(戦艦の動力コア)です」
ミーナは凍りついたコアを買い物袋に放り込むと、
パニックで失禁しているキャプテン・ゴリの鼻先に指を突きつけた。
「……十七時まで残り五分。豆腐のタイムセールを邪魔する者は、
宇宙の塵(可燃ゴミ)として処分いたします。以後、お見知りおきを」
***
十七時五分。
駅前スーパーの出口から、タケルとミーナが歩いてきた。
タケルの手には、一丁十円で勝ち取った、キンキンに冷えた豆腐。
周囲を見渡せば、街を襲っていた海賊艦隊はすべて「氷漬けのオブジェ」として道端に転がっている。
海賊たちは寒さに震えながら、ミーナの指示で「街のボランティア清掃」を強制されていた。
「……すげぇよ。豆腐一丁のために、銀河手配犯を全滅させるなんて」
「当然です。家計の防衛は、メイドの最優先事項ですので」
ミーナは満足げに豆腐を見つめ、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「……ですが旦那様。今回の『保冷剤の調達』に伴う、私の関節駆動系の摩耗率、
並びに戦闘服(メイド服)のクリーニング代を計算したところ……」
ミーナが再びホログラムの請求書を出す。
そこには、豆腐十万丁は買えるであろう額の数字が並んでいた。
「……おい! 十円の豆腐買うために、何十万も使ってんじゃねーか!」
「……不備ですね。……明日からは、より高効率な内職を開始いたします」
「内職って、俺がやるのかよ!?」
「はい。旦那様が箱貼りをしている横で、私が惑星一つ分のジャンクを分解いたします」
タケルは、手の中の冷たい豆腐を握りしめ、天を仰いだ。
空は晴れ渡っていたが、彼の将来は、昨日よりもずっと暗く、
そして事務的な冷気に満ちていた。




