ジェイの雨傘
三日三晩降り続いている雨は、一向に止む気配もなく、ぬかるむ塹壕の壁をゆっくりと削っていた。
足元に溜まるミルクコーヒーの様な泥水は俺たちの体温を容赦なく奪って行く。
レドリル小隊と呼ばれた俺たちの隊は圧倒的に不利で、この十日程で四マイルは後退している。
もう街はすぐ傍で、俺たちが抜かれると街は敵の手に渡る事になるのは誰が見ても明らかだった。
俺は塹壕の中で真っ赤な傘を差して、その下で小さくなりながら、ポケットから一枚の写真を出した。
幼い妹を抱きかかえ、こんな戦場に来る事など想像もしなかった笑顔で写った写真だった。
今の俺にはこんな写真を見るくらいしか心の拠り所が無かった。
いや、俺だけじゃない。
このレドリル小隊、もしかすると我軍全体がそうなのかもしれない。
「何だ……若いのに娘がいるのか……」
アクセントの少しおかしい言葉を発しながら、ジェイと呼ばれる男が俺の傘の下に無理矢理潜り込む様に入って来た。
「何だ、ジェイか……」
俺は写真をポケットにしまった。
「何も隠さなくても良いじゃないか……」
ジェイは手に持ったブリキのカップを俺に差し出した。
「コーヒーだ……。少し冷めてしまったけど……」
俺はジェイに礼を言い、その拉げたブリキのカップを受け取る。
「娘じゃない……。妹だ」
ジェイは微笑んで雨の粒の落ちてくる曇った空を見上げた。
「妹か……」
ジェイはそう呟くと俺の顔を見た。
「そんな小さな妹がいるのなら、こんなところで死ぬ訳にはいかないな……」
俺は温いコーヒーを口に含んで頷く。
「ああ、こんなところで死ぬつもりは毛頭ないさ」
ジェイは黒い髪の東洋人で、本当の名前も知らない。
ジェイ自身が「ジェイと呼べ」とだけ言い、このレドリル小隊に参加してきた。
「ジェイにはいないのか。家族は」
ジェイは歯を見せて笑うと、
「どうだったかな……。もう忘れてしまったよ」
そう言った。
家族の事を忘れる事など無い。
ジェイが話したくないのならば俺も訊かない。
俺は黙って頷いた。
「こう雨が続いちゃ敵も動けないだろう。今日くらいは渇いたシーツの上で眠りたいんだけどな……」
ジェイは濡れた髪を掻き上げながら言う。
そんな事は夢のまた夢で、俺たちはこの雨の中で機関銃を抱えたまま浅い眠りにつく事しか出来ないのだ。
俺は苦笑しながらジェイを見ていた。
「名前は何て言うんだ」
「おいおい、ジェイ……。今更、それは無いだろう……」
そう言う俺の言葉をジェイは遮る。
「馬鹿、お前の名前じゃないよ……。妹さんの名前だよ」
ジェイはそう言いながら笑っていた。
俺もそれにつられて笑う。
「ああ、そういう事か。すまんすまん。マリーだ」
ジェイは黙って頷く。
「マリーか……。良い名前だ」
その声は小さく、雨音に消し去られてしまいそうな声だった。
ジェイは俺の傘の下から出て、塹壕の縁から一マイル彼方の敵の様子を見た。
そしてまた俺の傘に潜り込む。
「この真っ赤な傘は何だ……。敵の的になるぞ」
ジェイは笑いながら言った。
「妹のマリーの傘なんだ。妹は赤が好きでね。傘もハンカチも、靴下も赤だ」
俺は飲み干したカップをぬかるむ土の上に置いた。
すぐにカップに雨水が溜まって行く。
「赤は良い。パワーが出る。俺の国では六十歳になると赤いベストを着る風習があるんだ」
ジェイはそう言うと笑った。
「赤いベストだって……。そんな趣味の悪い格好じゃパーティには行けないな」
「赤いベストを着てパーティをやるんだよ。あんたが主役だってね……」
ジェイは俯いて水溜りを見ていた。
何かを思い出している様にも見えた。
「そりゃ誰も主役を見間違わないな」
俺は気の利いた事を言おうとしたが、俯いたジェイを見ていると、そんな事も言えなかった。
「ジェイはチャイニーズか……」
俺の言葉にジェイは俯いたまま首を横に振った。
「もっと平和呆けした国だ」
そう言うと顔を上げた。
俺はジェイが日本人だという事を初めて知った。
「ジャパニーズか」
今度は俺が意味もなく、曇った空を見上げた。
傘を叩く雨粒はさっきよりも大きくなり、その音は下手糞なドラマーの叩くスネアの様にも聞こえた。
ジェイは頷きながら俺を見ていた。
俺はその視線を感じて、ジェイを覗き込む。
「何でそんな平和な国に生まれたのに、此処に来たんだ……。ジャパニーズの来る様な所じゃないだろう」
ジェイは俺の言葉に微笑むと、頭を掻いた。
「平和な国で生きていると、命の有難味が麻痺してくる。毎日温かい食事を食べて、熱いシャワーも浴びれる。そして渇いたシーツで眠る事も出来る。そんな生活をしている同じ時間に、冷たい塹壕の中で雨に打たれながら、死と隣り合わせの男たちもいる。渇いたシーツが当たり前の国では命の大切さなんて解りはしないんだ……」
ジェイはそう言うと唇の端を歪めた。
「だから俺は……。それを見に来た」
俺は苦笑した。
「変わった奴だと思っていたけど……。そうじゃなかった……。ジェイ……。お前は馬鹿だな」
俺はそう言うとジェイの濡れた肩を強く掴んだ。
「戦争なんてモンは、馬鹿が始めて、馬鹿が終わらせるんだよ」
ジェイは歯を見せて微笑んだ。
そして胸のポケットからクシャクシャのタバコの包みを出して咥えた。
「吸うか……」
ジェイは俺の前にタバコを差し出す。
「いや……長生きしたいんでね……」
俺はそう答え、ポケットからガムを出して噛んだ。
ジェイはそれを見て笑っていた。
レドリル小隊は元々六十人程の隊だった。
しかし、ここまで後退する中でその数は減り、今は二十を切る程しか残っていなかった。
対する敵は百人を超える中隊で、二台の戦車も擁している。
こんな死に損ないの小隊を殲滅させる事など赤子の手を捻るようなモノだった。
しかしこの大雨に助けられたのか、一向に動く気配も無かった。
不気味な影のように見える二台の戦車が一マイル程先に佇む。
「動く気配はないな……。奴らは何が目的なんだ……」
俺は塹壕の中に身を隠すと、赤い傘を差したジェイの横にしゃがみ込んだ。
「俺たちなんていつでも殲滅出来る。あちらの隊長も、血を流さずに降伏させた方が後々お株が上がるんだろう……」
ジェイは俯いたままそう言った。
「俺たちが白旗を挙げたら、この街は蹂躙されるだろう……。それだけは絶対に阻止しないと……」
俺は傘の下に潜り込みながら言う。
ジェイは疲れたのか、ぬかるむ土の上に腰を下ろした。
もう下着までずぶ濡れで、今更どうという事は無かった。
俺もそれを見て冷たく濡れた黄土色の土の上に腰を下ろした。
「お前は何のために戦ってるんだ……」
ジェイは眠いのか、小さく掠れる声で訊いて来た。
俺は俯くジェイに微笑む。
「何のため……。それは主義の事か……」
「主義……。主義のために戦うのか……」
ジェイは俯いたまま言う。
「ああ、そう教えられてきた。そして俺はそれが正しいと思っている」
俺は囁く様に答えた。
「この国の人間でもないお前は何のために戦う……。命の大切さを知るためだけなら、あちらさんに付いても良かっただろうに……」
俺は親指で敵の方を差した。
ジェイはクスクスと笑う。
そして顔を上げた。
「あちらさんは主義なんて持っていないさ。言うなれば仕事で戦争している奴らだ」
ジェイは親指と人差し指で幅を作った。
「こんな分厚いステーキを食いながら機関銃を撃っている。その上給料も貰えるし、渇いたシーツで寝る事も出来るんだ……。俺たちに無いモノをすべて持っている。そんな奴らに勝てると思うか……」
俺は黙ってジェイの言葉を聞いていた。
悔しいがジェイの言った事は紛れもない事実だ。
「主義を抱いて戦う奴よりも職業軍人の方が強いのさ……」
ジェイは俺を睨む様に見てそう言った。
俺はそのジェイが酷く癇に障り、ジェイの胸倉を掴んで、泥水の中に押し倒した。
投げ出された傘が風で塹壕の中を転がった。
「殴れよ……」
ジェイは静かに言う。
俺はジェイの胸倉から手を離して立ち上がり、転がったマリーの赤い傘を拾った。
ジェイは水溜りの中に沈んだまま、体を起こさなかった。
俺はそのジェイの傍にしゃがみ込み、傘を広げた。
「ジェイ……。多分、お前の言ったことは、この隊の皆が考えている事だ」
俺は水溜りの中に膝を突いて、ジェイの体を起こした。
「だけどな、皆、守るモノがある。だから命をかけて戦っているんだと、俺は思う。それが家族だったり、主義だったり……。たとえ主義ってモンが分厚いステーキよりも弱くても、俺たちはその主義を信じて戦っているんだ……」
水溜りの中に座るジェイは俯いたままだった。
「ジェイ……。お前が守るモノは此処には無い。ここでお前が死んでも無駄死にって事になる」
俺は立ち上がり、彼方の敵の影を見た。
「戦闘が始まる前に此処を出ろ……。そして日本に帰れ……」
ジェイは膝を立てて座り、水溜りの中に銃を突いて立ち上がった。
そして俺の肩を叩くとゆっくりと歩いて行った。
俺はそのジェイの背中を見つめていた。
「何処へ行くの」
子供たちがジープを叩きながら口々に言う。
俺たちはリュックに詰め込んだチョコレートやガムをその子供たちに渡し、「道を開けろ」と声を張った。
俺の横に座るジェイは黙ったまま目を閉じていた。
ジープは舗装されていない道で、車体を大きく揺らしながら進んで行く。
オイルと軽油の燃える臭いで完全に鼻をやられ、それでも俺たちは道なき道を進んだ。
「ジェイ……」
俺はジェイにガムを差し出した。
大きく揺れるジープで車酔いしそうだった。
ジェイはガムを突き返して周囲に視線をやった。
ジェイの膝に大きな蛾が止まった。
俺はその蛾に少したじろいだが、ジェイはその蛾をじっと見つめていた。
いずれその蛾は大きな羽を広げて飛び立って行った。
「命拾いしたな、あの蛾」
俺はジェイに言う。
ジェイは口元を歪めて、
「アイツに罪はないからな……」
と、静かに言う。
俺はこんな虫も殺せない奴が戦場で敵を殺せるのかと心配になった。
それを察したのか、ジェイは俺に身を寄せ、
「何だ、虫も殺せないのかって思ったか」
そう言った。
「あ、いや……」
ジェイはタバコを出して火を点けた。
「虫だって生きている。どんな命でも一つの命だ。俺はそう思っている」
たどたどしい英語でジェイはそう言うと微笑んだ。
俺はジェイの方に体を向けた。
「そんなんで敵を撃てるのか……。俺たちはこれから何千、何万の命を奪う事になるかもしれないんだぞ」
俺の言葉にジェイは不器用に笑う。
「だからだよ……」
「……」
俺は眉を寄せた。
「だから虫は殺さないんだ。ただでさえ戦線で敵を殺すんだ。だったら、その分、無駄な殺生はしたくない……」
ジェイはバカンスにでも行くかの様な笑顔で歯を見せた。
「優しいんだな」
俺はジェイにそれだけ言った。
ジェイは黙って俺に微笑んだままだった。
俺は迷路のように掘られた塹壕の中を歩き、ジェイを探した。
へたり込んで座る仲間を横目にぬかるむ塹壕を進む。
ジェイに俺は酷い事を言った。
共に今まで戦い、この小隊では一番仲の良い戦友だった。
その戦友に俺は酷い事を言った。
気が付くと涙が流れていた。
俺は袖でその涙を拭いながらジェイを探した。
もしかしたら本当に隊を去ってしまったのだろうか……。
俺は息を荒くしながらジェイを探す。
前髪から滴る雨は自然と俺の目を細くした。
そして、壕の中に幽閉された俺たちは更に気力を奪われて行く。
もう何日も温かい飯も食っていないし、泥の中でしか眠っていない。
そんな俺たちに明日などあるのだろうか。
そこまで無残な負け戦をしていて主義など守れるのだろうか。
俺の中でジェイの言った言葉がリフレインする。
俺は塹壕の中に立ち尽くし、目を閉じた。
水溜りを叩く雨音の向こうに微かにハーモニカの音が聴こえた。
ジェイだ……。
俺はそのハーモニカの音のする方へと走った。
走る気力など既に無い。
走ったつもりだったが、俺は重い足を引き摺りながらジェイのハーモニカの音のする方へと歩いた。
塹壕の壁に鉄杭を打ちビニールシートを張った雨避けの下でジェイはハーモニカを吹いていた。
俺はゆっくりとジェイの傍に近付く。
ジェイは俺を見つけるといつもと変わらない笑顔を見せた。
「入れよ。ここなら濡れずに済む。もっとも、既に濡れ鼠だけどな……」
ジェイは俺の場所をあけて座り直した。
俺はジェイの横に座り膝を抱えた。
「もっと聴かせてくれよ……ハーモニカ」
俺はジェイにそう言う。
「ハーモニカじゃない。ブルースハープだ」
ジェイはそう言って笑った。
そしてまたハーモニカを吹いた。
少し悲しいメロディだった。
俺は目を閉じてその曲を聴いた。
「良い曲だな……何て曲なんだ」
俺は曲が終わるとジェイに訊いた。
ジェイは少し照れながら微笑み、
「五番街のマリーへって曲だ。日本の古い曲だよ」
「マリー……」
俺はその名前に反応した。
「ああ、お前の妹と同じ名前だ……。そして……」
ジェイはポケットから一枚の写真を出して掌でその写真の皺を伸ばし、俺に差し出す。
「俺の妹だ……マリって言うんだ」
「マリ……」
ジェイは無言で頷く。
「彼女も友達にはマリーって呼ばれてた」
俺が写真をジェイに返すと、それをまたポケットにしまった。
ジェイに家族の話を聞いたのは初めてだった。
「この曲はマリが好きでな……。良くこうやって聴かせたよ」
ジェイは微笑んで俺の肩に手を置いた。
「さっきレドリルに聞いた。東の戦線は降伏したそうだ……」
俺はジェイの言葉にピクリと反応した。
「東の隊は俺たちよりも残存していたんじゃないのか……」
ジェイは頷く。
「降伏した時点で六十名程いたらしい」
「それならもっと戦える……」
俺の肩を掴むジェイの手に力が入るのを感じた。
「数じゃない……。数じゃないんだ……。心が折れたら、そこで戦争は負けなんだよ……」
俺は無意識に濡れた頭を掻き毟った。
ジェイは苛立つ俺の肩から手を放す。
「この隊にも降伏勧告が届いたらしい。レドリルは明日の朝九時に降伏すると言っていた」
「馬鹿な……。俺たちはまだ戦える……」
「ここで死んでも何の意味も無い……」
俺は拳を握った。
掌に爪が食い込むのを感じた。
「街はどうなる。この国はどうなる……。家族は……、マリーはどうなるんだ……」
ジェイは何度も俺の名前を呼び、落ち着かせようとしていた。
「大丈夫だ。すべて保障される……。東の街も安全を約束されたらしい」
「そんな事信じられるかよ……」
俺は思わず立ち上がった。
張られたビニールシートの上に溜まった雨水が音を立てて壕の水溜りに落ちた。
俺はジェイに宥められ、またその場に座った。
もう力も入らない。
二度と立つ事など出来ないと思った。
「今日は眠ろう……。もう戦闘も無い……」
ジェイはリュックから真っ赤な林檎を取り出し、俺に渡す。
俺はそれを受取り、両手で握り締めた。
翌朝、数日降り続いた雨も上がり、強い日差しが塹壕の中にも差し込んでいた。
俺もいつの間にか眠っていた様だった。
ジェイからもらった林檎を俺はまだ握り締めていた。
「起きたか……」
ジェイはブリキのカップを持って戻って来た。
「コーヒー、飲むか」
俺はジェイからそのカップを受け取った。
ジェイは壕に張ったビニールシートを勢いよく剥がした。
それと同時に朝の強い光が俺の目にも飛び込んできた。
「ジェイ……」
俺は背伸びをするジェイの背中に言う。
ジェイは振り返り、微笑んだ。
「そんな顔するな……。もうすぐマリーに会えるんだ」
俺は力なく微笑む。
そして壕の上に人影を見つけた。
幼い少女だった。
ジェイもその少女を見上げていた。
「おじちゃんたち何してるの……」
少女はしゃがみ込んで俺たちに訊いた。
「危ないから、街に帰りなさい」
ジェイが少女にそう言った瞬間だった。
敵の砲撃が始まった。
こちらに近付く機関銃の着弾音に、ジェイはその少女を壕の中に引っ張り込んだ。
そして少女を抱いたまま塹壕の中に転がった。
「何だ、どうなってるんだ」
俺は慌てて機関銃のロックを外した。
そして腕時計を見た。
降伏の時間まで後五分程だった。
「とち狂いやがって……」
ジェイは俺の機関銃を奪い取り、少女を俺に押し付けた。
そして壕から頭を出すと敵に向けて機関銃を放つ。
「ジェイ」
俺は少女を胸に抱いたままジェイの名を呼んだ。
戦車が近付く音が聞こえる。
そして敵の放つ機関銃の音も激しくなっていた。
「クソが……」
ジェイは体を壕に引っ込めると、弾を撃ち尽くした機関銃を捨てた。
「降伏させないつもりか」
ジェイは自分の機関銃のロックを外すとまた壕から頭を出した。
俺たちの近くに敵の弾が着弾した。
俺は少女を守る様にしっかりと抱き、壕の中に蹲る。
ジェイも壕の中に落ちるように転がる。
「戦争なんて馬鹿のやる事だ。子供たちにそんな未来を見せちゃいけない」
ジェイは飛び交う砲弾の音の中で、大声でそう言った。
そして周囲を見渡した。
壕の中に投げ出された俺のリュックに挿した赤い傘を手に取った。
「ジェイ……」
ジェイは俺に微笑むとその赤い傘を広げた。
「生きてマリーのところに帰れよ……」
ジェイは赤い傘を広げたまま、塹壕を飛び出し走り出す。
「ジェイ……」
俺は少女を傍に座らせて、走るジェイの姿を目で追った。
「ジェイ」
何度そう彼の名を呼んだか判らないが、喉が千切れる程、その名前を繰り返し叫んだ。
マリーの赤い傘を広げたままジェイは走っていた。
そのジェイの足元で敵の機関銃の弾が跳ねる。
敵の砲撃はジェイへと一斉に向いていた。
ジェイの放つ機関銃の弾が敵の戦車に当たり跳ね返されていた。
「ジェイ」
俺は身を乗り出し、ジェイの姿を見ていた。
ジェイはダンスでも踊るかの様に走っていた。
そしてその顔は笑っていた気がした。
俺は「五番街のマリー」と書かれた看板を見付け、そのドアを開けた。
「あら、外人さん……。いらっしゃい……」
カウンターの中に立つその女性は咥えたタバコを慌てて消していた。
俺はカウンターの端に座り、隣の椅子に鞄を置いた。
女性は俺の前に来て、頭を下げた。
「何にしますか……」
俺はカウンターの中に並ぶ酒の中から見慣れたラベルを見付けて指差した。
女性は無言で頷き、その酒を俺の前に置いた。
そしてグラスに氷を入れると酒を注ぐ。
トクトクと心地良い音が店に響く。
俺はその女性に礼を言って、グラスを口に運んだ。
そしてコースターにグラスを戻すと、両手を組んだ。
「マリーサンデスカ」
俺はその女性に訊ねた。
女性は微笑んで頷いた。
「本当は真理って言うんだけどね。皆がマリーって呼ぶモンだから……」
女性は流暢な英語でそう答えた。
俺はジェイのぎこちない英語を思い出した。
女性は俺の前に肘を突いて、身を乗り出す。
「兄が居てね……。これからは世界に通用する名前にした方が良いって言うモンだからさ、調子に乗ってマリーって自分でも名乗ってるのよ。マリーって名前も嫌いじゃないしね……」
真理はそう言うと声を上げて笑った。
俺は俯き、頷いた。
自然と涙が零れて来るのを感じた。
「あら、どうしたの……」
真理は私の涙に気付き、熱いタオルを差し出した。
「ありがとう……」
俺は真理に深く頭を下げた。
「大丈夫……。変な人ね……」
真理は俺の顔を覗き込む様にして言う。
俺は上着の内ポケットから拉げて汚れたブルースハープを取り出しカウンターの上に置いた。
そのブルースハープの真ん中には機関銃の銃弾が刺さっている。
そしてそのブルースハープと一緒にジェイが持っていた真理の写真を置いた。
「ジェイは俺の友達です……」
真理はカウンターの上に置いた写真とブルースハープを手に取った。
「友達……」
真理は口を手で覆った。
「マイフレンド」
真理の両目から涙が溢れ出た。
「ジェイに言えなかった言葉があって、それを代わりにマリーに伝えに来たんだ」
真理は涙を拭う事も忘れて顔を伏せて泣いていた。
そして顔を上げると俺をじっと見つめた。
「俺は生きてマリーに会う事が出来た。それも全部ジェイのおかげだ。ありがとう……」
俺も泣いていた。
その涙はあの雨の日を思い出させた。
「ありがとう……。マイフレンド」
真理は声を上げて泣いていた。
もう音の出なくなったCのブルースハープを握り締めて……。
「ありがとう。マイフレンド……」




