08.喫茶店
10月のある土曜日、悠馬は札幌の喫茶店で待ち合わせをしていた。用件は先週の続きだ。もっとはっきりと断ればよかった。
『佐藤さんが所有されている馬を買いたい』
どこからか悠馬の事を聞きつけたのだろう。信用が上がるのはとても良いことなのだけど、現在手持ちの2歳馬はすべて売り切ったので今は1歳馬しか持っていない。本来1歳馬を買って、2歳で売るのが悠馬のやり方なのだけど、1歳でも儲けがでるなら売っても良い。
そう思って先週、のこのことこの喫茶店で待ち合わせた男との交渉は話にならないものだった。
よりにもよってグランフェリスを300万円で買いたい、などと抜かしたのだ。メチャメチャ足元を見られている。牧場への預託費を考えたら完全に赤字じゃん。あれだけの将来性がある馬、悠馬はそう固く信じている、を手放すわけないだろ? でも将来の得意客になるかもしれないので悠馬は丁寧に断った。それがいけなかったのかもしれない。
どうせ今日も400万円とか言い出すに違いない。グランフェリスは手放しませんとハッキリ言うべきだ。でも2000万円とか言われたら正直うなずいてしまうかもしれない。いやそれでも売らない。グランフェリスは悠馬にとって特別な馬だ。この先50年馬主を続けても巡り合えないのではないかと思う。
悠馬は先週と同じ喫茶店の同じ席、一番奥の席で待っていた。待ち合わせの時間までまだ少しある。スマホで今開催されているレースでも見るか。そう思った時に店内がざわつくのを感じた。
何かあった?
視線を入口に向けるとふたりの女性が店内のカウンターに並んでいる。どちらも地味めのスーツ姿。でも場違いなほど背筋がまっすぐ伸びている。
ひとりは、体格のいい女性。下半身はスラックスのスーツに身を包み、日本人離れした体格……縦にも横にも大きい。
もうひとりも同じぐらい背が高いけれどこちらは細く、明るい金色の髪を控えめにまとめた若い女性だった。膝下丈のタイトなスカート、控えめな色のジャケット。でも彼女がただ注文したコーヒーを待っているだけで、その端正な顔立ちと、類まれな雰囲気が周囲の空気にごと波紋のように広がっていく。
悠馬は思わず身を乗り出した。服装から観光客ではない。そのふたりがこちらを見てお互いにうなずき合った。真っ直ぐにこちらに歩いて来る。体格の良い女性の方が2人分のカップが載ったお盆を持っている。
先週の男が今週も来るものだと思っていたが違うようだ。
距離が近づくといやでもいろんな情報が入ってくる。金髪の女性の方がスーツが格段に上等なことがファッション音痴の悠馬にでもわかる。あの金髪はおそらく地毛。肌の色が明らかに日本人ではない。本来ならこんなところにいるのがおかしい存在なのだとわかる。
悠馬と同じように、店内の他の客たちもコーヒーカップを持つ手を止め、ふたりを見ている。先ほどまで数人でおしゃべりしていた年配客でさえ、思わず振り返っている。
たぶん誰もが「この二人は誰だろう」と思ったに違いない。海外の芸能人?
そして体格のいい女性が金髪の女性をかばうように悠馬に歩み寄ってきた。店内のどんな視線も気にしないような堂々とした足取りだ。
金髪の若い女性は、ただ立っているだけで、周囲の気温が変わるような気配がある。静かな湖面のような青い瞳まで見える。透き通るような白い肌。ふとした仕草の奥に、まるでどこかの国のお姫様のような凛とした自信が滲んでいる。
その肩にかかったブランドのバッグは彼女を彩ることができない。一流のセレブのように、バッグの方が彼女が所持することで格が上がっていると感じる。
悠馬は自分の服装を思わず見下ろす。自分はただのサラリーマン。他と違うとすると、馬主をしていることぐらい。だが目の前の女性は、まるで舞台の主役が突然現実に降り立ったかのような、圧倒的な存在感を放っている。
体格の良い女性が静かに声をかけた。金髪女性に目を奪われてしまったけれど、こちらの女性も只者ではないのがすぐにわかった。体は単に大きいのではなくて明らかに鍛えているのがわかる。
「あなたが佐藤さんですか?」
どこかアクセントがおかしい。 声に威圧感はないのがむしろ奇妙に感じる。良く見るとこの女性も顔の彫りが深く日本人ではない気がする。ハーフなのかもしれない。悠馬は、うまく言葉が出てこなかった。
「……はい。そうです」
彼女は軽く会釈し、続けて隣の金髪の女性へと視線を向けると、そちらも悠馬に向かってほとんど微笑みとも言えない微かな表情を浮かべた。それは社交辞令の笑顔でもなければ、優越感を振りかざすものでもない。
ただ、悠馬を、この日本のサラリーマン馬主をただまっすぐに見ていた。その視線には侮りのようなものは感じない。ただ静かに見定めるような強さがあった。
店内のざわめきがまだ収まらない。
まるで時間の流れさえ、ふたりの登場によっておかしくなってしまったようだ。
「こちらにどうぞお座りになってください」
悠馬は遅ればせながら立ち上がってふたりを迎えた。
「ありがとう。失礼します」
大柄な女性がお盆を机に置いた後、自然な動きで椅子を引いて、それに金髪の女性がゆっくりと腰かける。その動作も完全に自然体で、自分が世話されることが当然だと言わんばかりの気品と落ち着きをまとっている。
悠馬は、ようやく現実に引き戻された。続けて大柄な女性も席に腰かけるのに合わせて自分も再び席に着いた。
ダメだ。完全に雰囲気に呑まれてしまっている。これからグランフェリスの売買交渉が始まる。絶対にノーだと言い切らないといけない決裂必至の交渉。
悠馬は改めて自分に言い聞かせた。




