03.衝動買い
「ありがとうございます。そろそろ入厩できそうですね」
「ですね。入厩先は決まってますか?」
「高梨先生にお願いしようと思っています。数日後にお邪魔する予定なのでその時に話しておきます」
高梨信義調教師、通称「高梨兄」は悠馬が最初に馬を買って、コネもない頃からお世話になっている恩人。高梨兄も父親から厩舎を継いだ時のトラブルで持ち馬に困っていたから、悠馬にとってはよいタイミングだったと思う。
2歳の売れ残りの中には目ぼしい馬がいなかった。悠馬は去年も一昨年も見てるから、そこから上手く成長した馬はいない。
1歳も不発、うまく伸びれば来年買おう、そう思っていた馬は既に売れているかやっばりだめそうかのどちらか。よくあることなので気にしない。
次は当歳馬だ。まだ産まれて数カ月だから馴致はまだ始まっておらず母馬たちと芝草の上で寝たり、駆け回ったりと思い思いに過ごしている。平和で悠馬も心癒される空間だ。
「柵の外からなら自由に見てください」
この雪島ファームのような大きな牧場の場合、当歳馬だけでも3桁の数がいる。産まれた時期によって成長具合が違い放牧地が別れている。
そして良い産駒が多いので悠馬は次々に和田さんに尋ねる。だって初めて見る馬しかいないから。
あれは既に売却済です。オーナーが手元に置くそうです。うちのクラブに行くことが決まっています。あいにく母親は預託でして。協会の種牡馬なので競売にかけることになっています。
悠馬が目をつけた馬は金額を確認するところまでいかない場合が多い。やっとまだ手の付けられていない仔馬を見つけても予算が合わない。それでも来年買えるかもしれない馬を何頭かリストアップする。
そして悠馬は最近産まれた仔馬たちの放牧地に来た。まだ母馬のそばにいるか互いに遊んでいる仔が多い中、放牧地の隅に一頭だけぽつんと立つ仔馬が目に入った。近くには母馬もおらず、ただ一頭だけでじっと遠くを見つめている。近づくと仔馬は一瞬だけ悠馬をまっすぐに見返した。他の仔馬より大きな瞳が悠馬に向けられる。こんな幼い仔馬に見返された経験は悠馬にはない。芯の強さが感じられる。
体はまだ小柄で華奢だが、背中のラインが美しい。脚はすらりと長く、筋肉はしなやかで、陽の光を浴びた淡い栗毛が金色にきらめく。
風が吹くと、たてがみがふわりと揺れ、青草の香りとともに、仔馬の体温がほんのりと漂ってくる。悠馬は思わず息を呑んだ。
(これまで馬を見て感じたことの無い感覚。今まで見てきたどの馬ともどこか違う)
近くで見ると、脚元も丈夫そうだ。蹄の形も良い。何より、悠馬がそっと手を伸ばすと、仔馬は逃げもせず、静かにその手を受け入れた。手が触れたその瞬間、悠馬の心臓が跳ねた。まるで神様かなにか途方もない存在に出会ったような衝撃だった。そして悠馬に興味を無くしたかのように小走りで駆けて行ってしまった。歩様も月齢から考えるととても良い。
悠馬はおそるおそるスタッフに近づいて話しかけた。この馬は売約済か高いか、そのどちらかに決まっている。
「和田さん、あっちの隅の幼駒がいるじゃないですか。栗毛の」
「ご覧になっていた仔ですね。あれは『フェリスブランシュ』の娘です。父親は『ステイファブル』ですね」
話が続いたということはまだ悠馬が買う余地があるということ。でも血統を確認する必要がある。ステイファブルは天皇賞(春)を連覇したはずだけと産駒の成績は知らない。母親は名前も聞いたことがない。でもスマートフォンを使えば現役時代の成績はもちろん産駒の成績もすぐにわかる。
父親は天皇賞(春)以外は勝鞍がないんだ。重賞で2着が2回あるけど他の重賞は3着以下。4歳の春天では大穴を開けている。
血統を見ても良血馬とはとても言えない。
で肝心の産駒だけど勝ち上がり率が低い。だからここ2年は種付け数自体が減っているのもさりありなん。
一方母親の方は……。競馬場での戦績がない。良血牝馬の場合いきなり繁殖(牝馬)に上げられることもあるけれどそういうわけでもない。競走馬になるはずだったけど何らかの問題でデビューできなかった。
そして兄姉が6頭いるがまだデビューしていない2歳馬もいるが中央でも地方でも勝ち上がりゼロはヤバい。去年は不受胎だったのか1歳馬はいない。
これは安く買えそうだけど、逆に自分の判断を疑わないといけないレベル。買うにしてもあと1年様子を見るべき? でも来年には売却済かもしれない。でも本当に走る馬かどうかは血統じゃない。
「佐藤さんから見て見どころはありますか?」
ここで取り繕っても仕方がないので悠馬は素直に返す。ただ事実はちゃんと告げておく。
「そう思ったんですけど、血統も産駒成績も散々ですね。脚がやや外向ですし」
「脚はこれからなんとかなると思います。そしてステゴ系はこれまで着けたことがなかったので、上手く行けばいいなと思ってます」
うーん。聞いた感じでは悠馬の資金でも買えそう。悠馬の手が届かないような金額なら和田さんは最初にその話をするだろう。
「ちなみにおいくらになりますか?」
「そうですね。280万円ってところですね」
この血統でもこのお値段。これが日本最大級、雪島ファームのブランド力。
「うーん。当歳ですよね」
「ですね、このままうちに預けてもらえるなら200万円でいいですよ」
買ってしまえばその後の維持費はすべて馬主の負担になる。これから払う毎月の預託料、馴致の費用を考えると牧場側のリスクヘッジとして80万円割り引いても売却するメリットは十分にある。そして逆のことが馬主に言える。
(本当にいいか? この馬を買って。当歳馬だからデビューまで時間がかかる。その間は単純に維持費がかかる。他の馬との都合もある。でもこれがこの馬を買う最初で最後のチャンスかもしれない)
とても良血とは言えない血統、実績皆無の兄姉。でも悠馬は自分の目と感覚を信じることにした。
「じゃあお願いします」
「お買い上げありがとうございます。では契約の準備をしますので少々お待ちください」
ここでも悠馬の立場の弱さがわかる。もし大口顧客であれば書面は後日の取り交わしになったはず。あっ、生後半月だから高リスクになるか。実印を押す前に引き渡し時期は確認しておかないといけない。人間ならまだ新生児(生後28日以内)。馬だって生後ひと月で病気にかかるなどのケースもあり得る。
実際日本で産まれた競走馬のうち、無事に競馬場にデビューできるのは6~7割。残りは健康上の理由、気性難、骨や筋肉の発達不十分、運動能力の欠如などが上げられる。生後間もなくの場合は健康上の理由が大きい。先天疾患が購入後に発見される場合だってある。
だが、この場合やはり引き渡し日も今日なんだろうなあ。大口馬主なら交渉できることもあるらしいけど、これも零細馬主の悲しいところ。
そして当然ながら今後の資金繰り計画を立て直さないといけない。当歳馬はうまく育っても走り始めるまでに時間がかかる。本当にこれは衝動買いだな。この馬で元を取るのは難しいだろう。でも後悔はしていない。
この馬となら、きっと何かが変わる気がする……
そんな予感がまだ冷たい風に負けず、悠馬の胸を熱くしてくれる。