02.ピンフッカー
悠馬の牧場巡りは毎年決まっているが今年は休みが長めに取れたので初めてのところも顔を出してみる予定にしている。悠馬は余裕をみた計画を立てた。売買できなくても良い馬を見ているだけで悠馬は有意義な時間を過ごすことができる。
馬主資格を持っていて良いことのひとつは一般の見学客よりも歓迎されるところ。中には一般の見学を禁止している牧場もあるが馬主なら大丈夫。
とは言っても事前のアポ取りは当然必要。この一手間を省くと現地に着いた後の時間が無駄に必要になる。悠馬のような無名馬主ならなおさら。
1軒目は早速初めての牧場。今日に限らず基本札幌からの日帰り。朝早く出て夕方になる前に牧場を出るのを繰り返す。
牧場に着くとまずは馬主証を見せて自己紹介する。
「おひとりなんですか?」
「はい、私ひとりです」
もちろん事前に電話で伝えていたが、この確認で悠馬が零細馬主だとわかる。中央の有力馬主だと調教師が既に自分がツバを着けた幼駒を推薦することが多い。
「わかりました、気になった子がいたら近くのスタッフに声掛けしてください」
「2歳でまだ買える仔はいますか?」
「1頭いますね。その仔から案内しましょう」
悠馬はまだ1歳馬しか買ったことがない。でも2歳馬の売れ残りでも利益が出るなら欲しい。
2歳なら門別(ホッカイドウ競馬の競馬場)でもう新馬戦が始まっているこの時期に残っている。つまり競売でも売れなかったということ。いわゆる「主取り」だ。当然安いはずだし、すぐにレースに出れる。掘り出し物がいれば美味しい。
でもやっぱり2歳は売れ残る理由がすぐにわかった。これは体格もずんぐりしていて走らなさそう。せめて体が丈夫なら地方でとにかく走らせて地味に賞金を稼ぐこともできるかもしれないが、足元を確認するかぎり無理そう。
まあそうそう上手い話はないよね。
悠馬は2歳馬を諦めて立ち上がると大きく深呼吸した。
牧場の土の匂い、青草の苦い臭い。馬房からは仔馬のいななきが微かに聞こえ、スタッフたちの声が風に乗って届く。
「やっぱり、ここに来ると気持ちが切り替わるな……」
牧場を歩くたび、悠馬の心は日常の疲れや悩みから解き放たれていく。馬たちの大きな瞳、柔らかな鼻面、草を食む音。その一つ一つが、彼の心を静かに満たしていった。
でも1歳と当歳には悠馬が欲しい馬もいたけど買えなかった。既に売却済か、値段の折り合いが合わなすぎて交渉の余地がない。悠馬は礼をしてから2軒目の牧場へと向かった。
2軒目は雪島ファーム、日本最大級の牧場で悠馬の持ち馬もいるので話が早い。
「ようこそ佐藤様。まずは『アマカケルホシ』の様子、その後は幼駒の確認ですよね。今年は当歳も見たいとのご要望を承っております」
悠馬と馴染みのスタッフは互いに頭を下げる。
「和田さんこんにちは。色々とご面倒おかけしてすいません」
この牧場は中央競馬の馬主がメインターゲット。悠馬は既存客とはいえ零細地方馬主。悠馬の会社では小売販売はしてないけど、そこに個人客が来て部品を全部現物で見せて欲しいと言い出したようなものだと思う。
「まずは『アマカケルホシ』 もいますし2歳馬から見られますか?」
「はいお願いします」
「アマカケルホシ」は悠馬の持ち馬のエースになるはずの馬。昨年1歳の時にこの雪島ファームで280万円で購入し順調に成長中。これならいい値段で転売できそう。
普通の馬主は、自分の馬が勝ってくれたらそれだけで嬉しいものだ。賞金を稼いでくれたら、なおさら嬉しい。大きなレースで優勝すれば、それはもう名誉だし、人生の誇りになるだろう。
でも、実際のところ、賞金をあてにして馬を買う馬主はほとんどいない。なぜなら、馬主業は儲からないからだ。日本の競走馬の平均回収率はせいぜい35%。100万円かけて、65万円は赤字になる計算だ。
だから、馬主の多くは「夢を買う」つもりで馬を持つ。馬が走る姿を見て、勝ったら祝杯をあげ、負けても「次のレースは頑張ってほしい」と笑っていられる余裕のある人たちだ。
だけど悠馬はそうじゃない。自分の目で馬を選び、安く買って、育つのを待って、勝たせてから、タイミングを見て売る。馬主の中でも異端な存在で「ピンフッカー」と称されることもある。
馬が勝つのはもちろん嬉しい。でも、その先に「この馬を欲しがる人がいるか」「どれだけ高く売れるか」を考えてしまう。勝てる馬が欲しいという金持ちの馬主は多い。そういう人たちに、実績のある馬を売るのが悠馬の役割だ。
もちろん現実は甘くない。だって平均回収率が35%の業界だ。ピンフッカーで儲けている人間なんてほとんどいない。特に悠馬みたいな自転車操業でやっている人間はすぐに倒れてしまう。だって買った馬が走らなかったらその時点で資金はもう回らないし、まともな銀行が金を貸してくれるとは思えない。悠馬がこうやって、損失も最小限で抑えて倒れずに前に進むことができていること自体が奇跡みたいなものだ。
そして売買で上手く儲かった場合は税務署に申告する必要がある。なんて悲しい副業。
それでも、馬を見て、選んで、どこか誰かの金持ちに夢のバトンを渡す。それはそれで良いことだと思っている。そしていつか重賞に出られるような馬を一時所有できればと思う。そりゃあ引退まで持ち続けることができればいいけれど。
重賞馬の馬主蘭に悠馬の名前が載るのは、多分何十年も先の話になるだろう。その夢をかなえるために悠馬は次の牧場へと向かう。