23.サンライズカップ(2)
結局のところ悠馬は、4歳児を背負ったまま競馬場内で手早く用事を済ませた。まずはいつものように応援馬券を買う。1着と3着が1回ずつで4位以下は無い、1-0-1-0の成績 で12頭立ての6番人気はちょっと低すぎない? 単勝14.5倍は美味しすぎる。
悠馬の持ち馬でなくてもこの倍率だったら10万張っても後悔しない。少し迷った末に、ここはもっと厚く20万突っ込んだ。もちろん換金しない100円馬券も買っておく。
当たり前だけど、悠馬が資金を寄せた(一点賭けすること)程度でオッズはピクリとも動かない。H1だから当たり前。いや未勝利戦でも動かないだろうけれど。
おそらく新馬戦は紗季さんが騎乗したことによる2kgの減量(通常55kgの負担重量が女性騎手の場合53kgになる)のおかげだと判断されたのだろう。当たり前だけど斤量が低い方が馬は楽に走れる。
でもその女性騎手の減量ルールは重賞は適用外。だからブリーダーズゴールドジュニアカップ(BGJC)では負けた。わかりやすい。
でも実は新馬戦でも、BGJCでも適用されなかった減量が12頭のうちただ1頭、グランフェリスにだけ与えられる。グランフェリスは同じレースを走る男の子たちの中に囲まれて、たった1頭だけ女の子だからだ。サンライズカップではそれがたった1kgだけど、最後にはその1kgがものを言うかもしれない。
俗に1kgで1馬身有利になるという説がある。実際には斤量差はスタートにも、道中の距離にも、そしてゴール前のスパートにも影響する。だから単純に計算することはできないのだけれど、ちょうどこのサンライズカップだと、その1kg1馬身理論がおよそ当てはまるはず。
そんな事を考えながら、悠馬は20kg近くあるほぼ5歳児を背負い、老婦人を連れて馬主協会の建物へと移動した。
「すいませんね」
「いえ、全然問題ないですよ」
鍛えていない悠馬には結構な負担重量だ。早く貴賓室に着きたいのが本音だけれど、高梨兄妹の母親の歩調に合わせる。観客席から聞こえて来る声から察するに、もう返し馬が始まっている気がする。
貴賓室までそんなに離れていないはずなのに、その入り口を見て悠馬はほっとした。スタート時間ギリギリかもしれない。
悠馬がなんとか貴賓室に到着すると混雑していた。そんなに広くはないけれど、これもH1効果だろう。子どもを担いでいるからだろうか、気を利かせてくれた人が場所を空けてくれたので、礼を言ってそのスペースに入れてもらう。
ホッカイドウ競馬、2歳の中距離チャンピオンを決めるレースがこれから始まる。
「うーん」
悠馬の背中の少年が起きたのは祖母に背を軽く叩かれたからだろう。 悠馬の背中にも伝わって来た。
「もうお母さんのレースが始まるよ」
そう言って悠馬は少年を貴賓室の床に降ろした。正確には今日の第2レースから紗季さんは騎乗しているはずだけど。
見ると既にスターターが赤い旗を振っている。ギリギリ間に合ったな。
まだ競馬に興味が無かった頃、スターターが旗を振るのは大きなレースだけだと悠馬は思っていた。だって大きなレースでしかテレビに映らないんだもの。実際にスターターはすべてのレースで旗を振って合図をしている。
悠馬たちがバタバタして落ち着く間もないままゲートが開きレースが始まった。先頭は2番のゼッケン。作戦通りグランフェリスがハナを切った。
「紗季が先頭だねえ」
「ママが一番?」
このまま何事もなく終わればね。
グランフェリスを先頭に、貴賓室のすぐ下のホームストレッチを馬の群れが駆け抜けていく。門別の外コースは1600m、レースは1800mだから1周より200m長い。その200m分だけホームストレッチを2回駆けることになる。
どうやら先頭争いをする馬もいない。そして貴賓室にはどよめきが沸いた。グランフェリスが大逃げすると他の陣営も考えていなかったのだろう。
始まったばかりだけど、今の所まったく文句が無い理想の展開。
顔見知りもいるので、悠馬がこの展開を望んでいたことはこの部屋にいる誰もが理解するだろうし、それはすぐに広まるだろう。でもそれは構わない。このレースに勝ちさえすれば他は何もいらない。
いやゴメン。絶対にケガはしないで。お願いします。
馬群との差が開いたままコーナーを駆け抜けていく。グランフェリスは内ラチギリギリの最短コースを走り、後続の馬群との差がじりじりと広がっていく。どうかこのままで、このまま最後まで気持ちよく走らせてあげて。悠馬は何かにそうお願いした。
上位だとマークされやすいから、6番人気というのも案外良かったのかもしれない。グランフェリスは単騎で気持ちよさそうに走り、そのままバックストレッチの直線に入った。ここでまた貴賓室にどよめきが起きる。
「早過ぎないか」
「ラップいくつ」
馬群とは悠馬の見た目で10馬身は確実に千切った。15馬身はないけれど、大逃げは大成功と言って良いだろう。舞台は門別1800m、H1のサンライズカップ、もちろんまだ勝利を確信することはできない。差が縮まらないのは馬群の騎手たちがグランフェリスを放置して、自分の競馬をすることに決めたからだろう。
「ママ勝った?」
「まだ全然わからないねえ」
あどけなく母の勝利を信じる孫と、競馬の厳しさを数十年見続けたであろう祖母の会話が悠馬に刺さる。そう、ここまで上手くいったからと言って本当に最後まで上手くいくかなんて誰にもわからない。大逃げ馬がラスト1ハロンでガス欠することなんてざらにある話だ。
グランフェリスが軽く10馬身以上ちぎってコーナーを最短距離で帰って来る。まだ足が鈍る様子はない。紗季さんも何の変調も感じて無さそう。ここから見る限りの話だけど。
そのまま再びホームストレッチ、最後の直線330mに入る。グランフェリスも、まだコーナーにいる後続馬たちも既にスパートをかけている。13馬身程あったリードが1馬身、また1馬身と少しずつ削られていく。
「ままっ」
悠馬だってグランフェリスを大声で応援したいところだけどぐっとこらえる。一頭大外を回っただろう馬が強烈なスピードで追い込んできた。あれだけあったリードが嘘みたいにみるみるうちに溶けて溶けてそして消えた。
「あっ」
少年の残念そうな声が聞こえた。
「いや……」
「大丈夫よ」
悠馬が声をかける前に少年の祖母が声をかけた。
「紗季が勝ったわ。追いつかれたのはゴールを過ぎてからね。こんなに早くあの子たちがH1で勝てるなんて……」
H1ならではの「サンライズカップ」の名が記された内枠を、そしてゴール板を通過した瞬間にはまだ2馬身程のリードが残っていたはず。ゴールを過ぎ紗季さんが手綱を緩めた後に追い越された。
あの2着の追い込み馬が大外を回ってこなかったら危なかったかもしれない。牝馬の1kgの斤量差が無ければ捕まっていたかもしれない。でもそんなたらればはもういい。 掲示板はまだ確定していないけれど、グランフェリスのレースには何の問題も無かったはずだ。
勝った。サンライズカップを獲った。
だが勝利に熱狂するよりも、悠馬は少し恰好をつけることにした。
「お母さん勝ったよ」
悠馬はしゃがんで少年に告げた。
「うん」
「かっこよかったね」
「うん」
悠馬は少年を抱き上げてそのまま肩車をした。担ぎ上げてから、着順が確定していることと、着差が2馬身半あったことを確認した。
「じゃあお母さんに会いに行こうか」
「天井に気をつけなさいよ」
それは祖母から孫ではなくて、実際は悠馬に対する警告だった。入口のドア枠は低いし、何よりも1階に降りないといけない。
「ゴメンやっぱり下ろすよ」
「うん」
少年の力強い声に悠馬は救われた。
「佐藤さんは勝ち逃げできませんでしたね」
周囲から少し苦笑が混じった祝福の声が聞こえた。




