01.副業申請
「ただいま」
玄関の扉を開けて小さな声で挨拶をする。佐藤悠馬は疲れ果てて会社から帰って来た。時間的に両親はもう寝ているはず。そう考えたからの配慮だがそれで正解だったようだ。音を立てないようゆっくり鍵を閉め、足音を忍ばせて自室へと向かう。
いやー。ここまで長引くとは思わなかった。
悠馬が所属していた会社は工作機械や産業用ロボットの部品を作成している中小メーカーだった。分類するなら一般機械器具製造業になる。「だった」と過去形なのはこの3月末に大手の同業者である「東邦光和機工」に買収されたからだ。買収されたことによる残務処理が今日まで長引いた。経営陣でもなく総務担当でもなく、一営業マンの悠馬までもが残務整理に駆り出された。でもこれで明日からは楽になるはず。
そしておかげ様で、再来週からゴールデンウィークを絡めた長期休みが取れそうなのは良かった。毎年趣味と実益を兼ねた牧場巡りをするつもりだけど、今年はじっくりと時間を使えそうだ。そして門別での2歳馬のレースも始まっているから高梨調教師の所にも顔を出したい。まだ入厩していないけれど、今年はこれまで以上の期待馬がいるからだ。
期待馬というのはその競走馬のファンだからというだけではない。悠馬はこう見えてもホッカイドウ競馬の馬主で競走馬を保有している?
なぜ最後に?が付いたのかというと、現状レースに出ている現役の競走馬はいない。悠馬が保有しているのはデビュー前の馬しかいないからだ。またかつて保有していた馬であれば、現役の競走馬が4頭もいる。
4頭すべてが今も競走馬を続けることができているのは奇跡的なことだ。競走馬が現役を続けるためにはまずは新馬戦か未勝利戦で勝ち上がる、つまり1勝する必要がある。ホッカイドウ競馬の場合、2歳のうちに勝ち上がることができる馬は30%ぐらい。3歳も合わせれば40%ぐらい。
3歳の未勝利戦が終わるまでにレースで1着に入ることが出来なければ、その馬はもう競走馬として生きていくことができない。つまり毎年6割もの馬が競馬場を去らなければならない。牝馬であれば繁殖(牝馬)に上がることも牧場との交渉次第でできる。だが牡馬の場合、よほどの幸運に恵まれない限り……いやこれ以上考えるのは辞めよう。
早く寝て明日に備えよう。食事は同僚と済ませているので、悠馬はそろそろと起きて風呂に入ることにした。そして風呂に入っている時にふと気が付いた。
「東邦光和」って副業大丈夫なんだろうか?
いや「馬主」ってそもそも副業になるのか? とにかく明日会社で調べようそう思って風呂から上がりまた自室に戻った。
でも結局その週は元からの顧客への挨拶周りで終わってしまい新会社の就業規約を確認できたのは翌週になってからだ。
えっと「副業申請書」、これか。電子申請なんだな。このフォームに入力すれば課長に飛んで、承認されれば総務部に飛んで審査してもらえるらしい。
マニュアルを読むと副業はする前に総務部長の承認が必要なのだという。ハードルが高すぎるような気がする。
承認されなければ今の3頭を手放さないといけないの? 元々2頭は売却するつもりだったけれど、絶対足元見られて買いたたかれるに決まっている。悠馬のような零細馬主にとってこれは死活問題……というか生活が成り立たなくなる。
3頭の購入価格の合計は、悠馬の年間の給与収入よりも多い。一番安い馬でも購入金額は190万円。1番高い馬だと280万円した。
世の中には1億どころか5億円を超える金額で競り落とされる馬だっているけど、あちらが例外。200万から400万円程度で取引される馬のほうが遥かに多い。それでも悠馬のような一介のサラリーマンには過ぎた道楽だ。
一介のサラリーマンの悠馬がなぜそんなに高い馬を持っているのか。そもそも馬主になること自体無理だろうという疑問は当然のことだ。
一般によく知られている競馬、例えば日本ダービーなどはJRA、つまり中央競馬のレース。中央競馬の馬主になるには年収はじめ厳しい基準をクリアする必要がある。悠馬の収入では全然足りない。でも地方競馬、札幌在住の悠馬の場合ホッカイドウ競馬だと年収のハードルも下がる。
それでもドーピングしてようやくギリギリだけど、とにかくサラリーマン馬主という存在が許される。
副業申請は新規に副業を始める場合しか記載されていないようだ、悠馬のように会社ごと買収されたパターンも考えておいて欲しいけど、珍しいのだろう。
ともかく悠馬は申請書のフォームに記載してから、システムで送信する前に上司に相談し了解を得た。
佐藤君は本当に馬が好きだねえ。でも総務部長がどう判断するかは私にはわからないよ。
とにかく口頭で了解はもらったのでシステムでも課長に飛ばしておく。承認にせよ否定にせよゴールデンウィークには間に合わないと思っていたけど2日後には承認通知が来た。
何やら悠馬の申請内容よりも長い承認理由が記載されている。
「競馬は歴史ある文化的なスポーツです。当社の社長も馬主であり、馬主の活動は地域経済や畜産産業の発展にも寄与し、社会的にも一定の評価があり問題ないと判断しました。本業に問題がなく会社の品格を失わない範囲であれば、馬主の活動を副業として認めます。」
長ったらしい文面から、社長が馬主だから仕方がないね。という雰囲気を感じるのは気のせい?
大会社の社長なそういうこともあるかな? でも中央なんだろうな。いずれにせよ承認されたのはありがたいことだ。これて明日からの牧場巡りにも大手を振って出かけることができる。悠馬は課長に承認されたことの報告とお礼を伝えに行った。