14.新馬戦(2)
そうこうしているうちに第3レースが終わった。まだ早いけど他にすることもないので、パドックに行くことにする。パドックでしばらく待っているうちに第4レースの馬が出て来た。出走馬を見比べてもやはりグランフェリスが頭一つ抜けているように見えるのは、馬主の欲目かもしれない。静かにパドックを見守った後、悠馬は返し馬を見るために馬主席に向かった。
実は門別競馬場にある「本物の」馬主席はごく普通のスタンドの一角でしかない。だから誰もそこを使わない。悠馬が向かうのは「実質的な」馬主席、つまりスタンドに隣接する北海道馬主会の来賓室のことだ。ホッカイドウ競馬の馬主でなくても、当日出走する馬の馬主であれば入ることができる。門別競馬場の馬主席で調べるとそちらが表示されることもあるぐらいだ。これまでに悠馬も何度か来た事がある。
その実質的な馬主席こと来賓室が近くなると、いつもより多くの人が集まっていることがわかる。なんだろ? 今日のメインはノースクイーンカップ(牝馬限定重賞(H2)1800m)で、これは地方全国交流レースだから他地区から遠征してくる馬がいる。
実際のところ重賞レースの開催日でも、こんな早い時間から馬主席が賑わうことはあまりない。金持ちの馬主や牧場関係者ならもっと遅い時間に来る。門別の場合メインレースは最終の第12レースになるので、20:35出走予定。まだ5時間もある。大金持ちで道外の馬主だとメインでも来ないのが当たり前。
だからこんな時間帯から賑わっている理由として考えられるのは一口馬主だ。一口馬主クラブは中央競馬だと1980年代からあるけど、地方競馬の場合はここ10年ぐらい。一口馬主の場合、馬主席で観戦したりウィナーズサークルに行くのは抽選。当選したから早い時間帯から楽しもうとする人がいる。こうやって競馬文化が広がるのは良いことだと思う。
でも貴賓室に入って、悠馬は自分の予想が外れたことを知った。そこには去年会った異国の美女が君臨していた。
「あら、久しぶりですね。サトウさん」
ソフィアさん。昨年あった時からその名前を忘れたことはなかったが、苗字は長くて忘れてしまった。だからと言って名前を忘れていると思われるのも嫌だ。多少ぶしつけと思われるかもしれないが、ファーストネームで呼ばせてもらおう。
「ご無沙汰してます。ソフィアさん。あれからずっと日本に?」
悠馬の問い掛けに彼女はクスっと笑った。それだけで雰囲気が変わる。
「去年私は12月、イギリスに、err...キコクしました。そして今年の春、またニホンに来ました」
悠馬は遅ればせながら気が付いた。去年より彼女の日本語がものすごく上手になっている。少なくとも悠馬の英語よりは絶対に上だ。
「今日はなぜこちらに?」
悠馬は彼女の周囲にいる人々を見渡した。この一団の中でひとりだけすくっと立っている大柄の中年女性は去年もソフィアさんと一緒に喫茶店に来たマリコさん。こちらも苗字が思い出せない。たしか母方の日本の苗字を名乗っていたはず。
それ以外の座った男性たちは中年かそれ以上の日本人男性たち。彼らと悠馬は初対面のはず。悠馬より明らかに身なりが良い。つまり金持ちだ。
「ああ、皆さんにごショウカイしましょう。こちらの方はサトウユウマさん。昨年知り合った、ホッカイドウケイバのウマヌシの方です」
「はい、佐藤悠馬です。よろしくお願いします。今日は自分の持ち馬の応援に来ました」
ソフィアさんがそう言った途端、これまで悠馬を胡乱な目で見ていた彼らの視線が変った。
「ああ、馬主の方でしたか。3歳馬ですか?」
今日の第5レースから第7レースまで、3歳C4クラスのレースが続く。C4は獲得賞金額が100万円未満の馬が出るレースだ。このやりとりで彼らが競馬関係者だということは確定。おそらく牧場の関係者だと思われる。悠馬が潜在顧客のひとりだとわかったので態度が柔らかくなったのだろう。
悠馬が馬主だというのはこの貴賓室にいる時点でわかりそうなものだけれど、悠馬だって今日は一口馬主の方々が来ているのかと思っていたのでお互い様だろう。
「いえ、もうすぐ始まる第4レースです。あっ、もう返し馬は終わりました?」
せっかくわざわざ応援しに来たのに見過ごしてどうする。
「何番ですか?」
「4番、グランフェリスです」
「ああ、雪島さんのとこの」
「なるほど、あの佐藤さんでしたか。今日は楽しめそうですね」
佐藤悠馬は知らなくても、グランフェリスのオーナーのことが知られている。これは名誉なことだと思わないといけない。
「みなさんグランフェリスのことはゴゾンジなんですね。実は私も去年から目を付けていたんです。私も今日はカノジョがウィナーになると思います」
全頭そうだけどこれがデビュー戦。そしてグランフェリスのはダートが苦手。1700mは短いし、掛かり気味で鞍上の紗季さんも折り合いをつけるのに苦労している。不安要素が多すぎる。
「そうなればいいんですけどね」
これから走る馬のオーナーの前でその馬をおだてる。それは当たり前のマナーだから本気で受け取らない方が良いのはわかっている。でも悠馬はグランフェリスが勝つ前提でここに来た。
とは言え、この世界は上手くいかないのが当たり前。
頼むよ。
悠馬は心の中でグランフェリスに祈った。




