11.入厩
ニュースで聞くところによると東京では春爛漫らしい。でもこの北海道ではまだ桜のつぼみも芽吹かない頃、門別の調教コースで悠馬は高梨信義調教師の隣でグランフェリスの調教を見守っていた。
グランフェリスは栗毛の馬体を朝日にきらめかせ、他の2歳馬たちと並んでトレセンのコースに入っていく。
でも群れから少し離れ、マイペースに歩く姿が目を引く。
「高梨先生、どうですか?」
悠馬が声をかけると高梨調教師、悠馬と出会った頃は「息子の方」とか呼ばれていたけど今は「高梨兄」が定着している、は腕を組みじっとグランフェリスの動きを追っていた。やがて小さく頷く。
「いいね。佐藤さんが惚れ込むわけだ。この馬なら道営記念だって夢じゃない。」
道営記念はホッカイドウ競馬で一番長い2000mのレースのひとつ。この短い会話の中でもグランフェリスには長ければ長い程良いという共通認識が得られた。 昔は2600mのレースもあったけれど今はない。
「良かったです」
悠馬が安堵の息を漏らす。だが高梨調教師はすぐに表情を引き締める。
「でも、色々と調教しないといけないよ。この仔、雪島の仔だよね。ちゃんと馴致できてないの?」
「いや、馴致は順調でした。マイペースな性格は直らなかったですが」
「雪島の馬は大きな牧場で育つから、最初から人に対しても物怖じしないけど、逆に自分のペースを崩されるのを嫌がる仔も多いね。特にこの仔は他の馬と群れないし気性が強いし」
調教が終わったのだろう。コースの向こうから騎手がグランフェリスに跨ったったまま戻ってきた。ヘルメットの下から短い黒髪が覗いている。
「お疲れさま紗季。どうだった?」
高梨厩舎に所属する騎手、沢井紗季が馬から降りると、グランフェリスの首筋を優しく撫でながら笑う。
「この仔、併せ馬でも絶対先頭を譲らないよ。途中で他の馬が前に出ようとしたら耳を絞ってグッと加速するの。負けず嫌いっていうか、もう意地になってる感じ」
紗季さんは中性的な美人だが既婚者なので惚れてはいけない。旦那さんは公務員で中学の時の同級生だと聞いたことがある。保育園児の息子さんもいるけど、いまだに門別トレセンでは旧姓の「高梨妹」で呼ばれることが多い。そう、高梨信義調教師の妹さんだ。
門別では実は騎手よりも調教師の方が人数が多い。高梨厩舎には紗季さんが所属しているのでそれが強みのひとつ。騎手がいないと他の厩舎の騎手にレースはもちろん調教もお願いしないといけない。
妹の言葉に兄は苦笑しつつも、どこか嬉しそうに頷いた。
「やっぱりな。こういう馬はうまくハマればとんでもない大物になる。けど、気性が強すぎると自分で自分を壊すこともある。調教でどこまでコントロールできるかが勝負だな」
悠馬はグランフェリスの姿を見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
「道営記念も夢じゃないかもしれませんね」
本当は早い段階から芝のコースに遠征させたいのだけど、今の段階で調教師にそれを言ってもさすがに胡散臭いだろう。
「夢を見るのは自由だよ。佐藤さんも良く知ってると思うけど現実は厳しい。長い距離を逃げ切るにはスタミナだけじゃなくて、ペース配分や集中力、何より自分にあったリズムを守る強さが必要だからね」
信義さんはいつも慎重だ。まだ入厩して間もない馬に大きな評価を伝えて、ダメだったらぬか喜びさせたら困ると思うタイプだ。その人から「道営記念」というホッカイドウ競馬の最強古馬を決めるレースの名前が出て来る時点で喜ぶべき。
紗季さんがグランフェリスのたてがみを撫でながら、ふっと笑う。
「でもこの仔とならやれる気がするよ。私も負けず嫌いだからちょうどいいかも」
でもさ、とそこで紗季さんが口調を変える。
「佐藤さんのことだから、この仔も売っちゃうんじゃないよね?」
それを言われると悠馬としては辛いところがある。なにせこれまでの所有馬は全部売り払ってる。
「この馬を手元に置いて置くために他の仔を売ったんですよ。これまでの馬とは違うと信じてるんです。どう見ても長距離向けなので6月の1700の新馬戦に出せればと思います」
ホッカイドウ競馬の新馬戦は1700mが最長。これで勝てなければ先に進めない。牝馬限定戦だと1000か1100しかないので短すぎてお話にならない。
三人の視線の先で、グランフェリスは朝の光を浴びながら、静かに鼻を鳴らした。早く馬房に戻りたいのかもしれないけれど調教はまだ続くよ?




