砂の庭と眠る獅子
港町セリオを出て数日後、カイは東へと進んだ。
風は乾き、空気は次第に熱を帯びていく。
やがて彼の前に、広大な赤い砂漠が現れた。
旅人に「眠る獅子の庭」と呼ばれるこの地は、魔力に満ちた特異な地形をしていた。
まるで誰かの夢の中に迷い込んだような――そんな奇妙な静けさがあった。
砂の丘、石のアーチ、風に鳴る岩笛。
そこには、確かに「生き物の眠り」が漂っていた。
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砂漠を歩き続け、太陽が傾く頃。
カイはとある遺跡の前に立った。
砂に埋もれかけた獅子像。その表情は穏やかで、まるで今にも目を覚ましそうだった。
その傍らに、ひとりの少女がいた。
年は十にも満たぬほど。
だがその目は、夜のように深かった。
名はサミア。
「おじさん、ここに来たの? ひとりで?」
「そうだ。ここが“眠る獅子の庭”か?」
サミアは頷いた。
「この庭には、“夢を見すぎた人”が眠るんだよ。
心の奥でずっと叫んでて、でも起きるのが怖くて、ずっと、ずっと……」
少女の言葉に、カイの胸がざわついた。
「誰かが、ここで夢から覚めるのを待ってるのか?」
「ううん。誰も待ってない。……だから、来てくれてよかった」
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遺跡の中はひんやりとした空気に満ちていた。
壁に刻まれた文字は古く、だが魔力の痕跡がかすかに残っている。
サミアは壁を指さして言った。
「この奥に、“獅子”がいる。
でもそれは、獣じゃない。“心の獅子”だよ。
大きくて、強くて、でも――ひとりで泣いてる」
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カイは進んだ。
魔力の気配が濃くなる。
やがてたどり着いた広間の中心に、それはいた。
――大きな獅子。だがそれは石ではなく、
砂と魔力でかたちづくられた、“心の象徴”そのものだった。
目は閉じ、牙を隠し、静かに眠っている。
「……これは、誰の心だ?」
サミアが、いつの間にか隣にいた。
「おじさんのかも。わたしのかも。
あるいは、ずっとここに来た誰かたち、全部の心かもね」
カイはゆっくりと獅子に手を伸ばした。
その瞬間――
獅子が目を開いた。
そして語らぬまま、心に直接、声が響いた。
「おまえは、“傷つくのが怖い”のではない。
“もう二度と怒れなくなること”が、怖いのだろう?」
カイの胸を突く言葉だった。
確かに、怒りは力だった。誰かを守るための、揺るがぬ意思だった。
だが、失敗してからというもの、彼は怒ることさえも、自分に禁じていた。
「俺は……弱さを怒ることさえ、もう、してはいけないと思ってた」
「怒れ。悲しみを燃やせ。それを灯にして歩け。
それが“生きる”ということだ」
その瞬間、砂の獅子が静かに崩れた。
それは破壊ではなかった。
ひとつの眠りが、静かに終わったのだ。
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外に出ると、夕陽が砂の上で燃えていた。
サミアは静かに言った。
「怒っても、泣いても、生きててくれたらいい。
……それだけで、わたし、うれしいよ」
カイは小さく微笑んで、彼女の頭に手を置いた。
「俺も……そう思えるようになった。ありがとう」
サミアは、陽炎のようにふっと姿を消した。
彼女が誰だったのか、もう確かめようもない。
けれどその言葉は、確かにそこに残っていた。
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怒りも、痛みも、眠らせてはいけない。
心の奥の獅子に火を灯し、また歩き出す。
第十話へ続く。