沈黙の港町
山道を越え、谷を渡り、カイがたどり着いたのは、港町セリオだった。
潮風が吹き、帆船が静かに揺れるその町は、美しい夕焼けで知られていた。だが、カイが足を踏み入れた瞬間、何かがおかしいと感じた。
あまりにも静かすぎたのだ。
港町には人の声がない。市場には物が並び、人々は確かに歩いている。けれど、誰も言葉を発さず、笑いも叫びも、ささやきさえもない。
「……呪いか?」
そう口にしたとき、カイの声だけが風に吸い込まれていった。
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静まりかえる町のはずれに、一軒だけ店の灯りがともっていた。
古びた小屋。扉には「言葉を売る店」と、掠れた字が書かれていた。
中に入ると、そこにいたのは黒衣の男。
整った顔立ちに冷えた瞳、だがどこか痛みを抱えているようにも見える。
名はセオ。
「ここでは、“言葉”が高価なんだ」
彼は言う。町の人々は、ある時から“言葉”を恐れるようになったのだという。
「きっかけは、一人の詩人だった。
彼の言葉があまりにも真実に触れすぎて、町の人々はそれに耐えられなかった。
そのうち誰もが、話すこと、伝えることをやめてしまった。
……今やこの町では、“声”は不吉の象徴だ」
カイは黙って聞いていた。
その話に、どこかで覚えのある苦さを感じながら。
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翌日、カイは町を歩き、沈黙の中に佇む人々を観察した。
ある老婦人は、何かを伝えたそうに両手を動かす。
少年たちは無言のまま、海に向かって石を投げる。
市場の売人は、手元の紙に値段だけを記していた。
言葉が失われても、人は“伝えよう”としている。
その姿が、痛々しくもあり、健気でもあった。
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その夜、カイは再びセオの店を訪れた。
「……もし、“言葉”を渡すことで、この町の人間がまた傷つくなら、
俺はそれを無理に戻そうとは思わない」
「だが?」
「それでも、“伝える”ことをあきらめてほしくないんだ。
たとえ言葉が届かなくても、心がそこにある限り……
人は、誰かと繋がろうとできる」
セオは静かに目を伏せた。
「……あの詩人は、僕の兄だった」
カイは言葉を止める。
「兄は、ただ人を癒したかった。
でも言葉が真実すぎた。だから……町に恐れられ、最後は海に身を投げた」
彼の手が震えていた。
「それ以来、僕は“伝えること”を閉ざしたんだ。
言葉なんて、誰も救わないって、思ったから」
カイはポケットから、アーニャに縫ってもらった銀糸の布を取り出した。
「俺も同じだった。……でも、それでも歩いて、少しずつ思い出したんだ。
誰かが、誰かのために“声をかけたこと”が、どれほど深く残るかを」
「……それでも、言葉が刃になることはある」
「だからこそ、扱うべきだ。研ぎ澄まされたまま放置せずに、
“刃じゃない使い方”を考え続けるのが、言葉と向き合うってことだろ」
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沈黙が続いたあと、セオは一冊の本を差し出した。
それは、かつて彼の兄が綴った詩の原稿だった。
美しいが、哀しい言葉が並んでいた。
「……この本を、誰かに読んでほしい。
“伝える”ということを、兄が生きた証として」
カイは本を受け取り、深く頷いた。
「必ず、誰かに読ませる。
“沈黙の中にあった願い”として」
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港町を去る日、波打ち際に立つ少年が、指で空に文字を書いていた。
「さようなら」
言葉がない町に、確かに言葉があった。
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それは、消された声の奥に残る、誰かの祈りだった。
言葉は、刃にも、灯にもなれる。
それを忘れない者が、まだ歩いている。
第九話へ続く。