雨と灯と、縫う人
忘れられた丘を後にして数日。
雨の季節が来た。
空は分厚い灰色に覆われ、
小さな村も、道行く人も、ただ静かに降りしきる雨の中に沈んでいた。
その雨の中、カイがたどり着いたのは、山あいにあるシェリル村だった。
湿った木の香りがただよう静かな村。
屋根は低く、どの家も古くて、でも丁寧に手入れされていた。
村の中央にある広場には、ひとつだけ明かりが灯っていた。
まるで雨の中でも消えないように、大切に守られているかのように。
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明かりのもとにあったのは、ひとつの小さな工房。
そこにいたのは――**縫い人**の女だった。
名をアーニャという。
目は伏せがちで、声は小さく、誰かに語りかけるよりも糸に語るような話しぶりだった。
「旅の人。濡れた心の綻び(ほころび)も……縫い直せたらいいのにね」
「それが、できるのか?」
カイの問いに、アーニャは小さく笑った。
「人の心は布みたいなもの。破れても、繕っても、跡は残る。でもね、
その“跡”を、模様に変えることはできるよ」
カイは、ふいにその言葉に胸を打たれた。
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アーニャは、旅人のために“心を縫う魔法”を使う者だった。
彼女が織るのは、魔力を編み込んだ布や糸。
それを手にすると、人はひとつ、自分の中の“綻び”を見つめ直すことができるという。
「あなたのために、ひと針、縫ってみる?」
カイは頷いた。
アーニャは目を閉じ、糸を指先に巻きつけるようにして言った。
「……あなたの綻びは、“役に立たなかった”という悔いね。
誰かの期待に応えられなかった、あの夜の記憶が、いまだにほつれてる」
カイの胸が締めつけられた。
「俺は……仲間を守れなかった」
「でも、あなたはその綻びのままで、誰かのために歩いてきた」
「それが……繕いになるのか?」
アーニャは優しく頷いた。
「傷の上に糸を渡すたび、人は“自分を許す”方向へ、少しずつ近づくのよ。
それが縫うということ。癒すというより……寄り添うこと」
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夜。雨はまだ止まなかった。
カイは工房の奥で、手渡された小さな布を見つめていた。
そこには、自分の名も顔もない。ただ、一本の細い銀糸が、斜めにひとすじ走っていた。
それはまるで、断絶の上に“繋がろう”とする意志のようだった。
「……これは、俺の記憶だな」
カイはポケットから、忘れられた丘で拾った白い羽根を取り出し、布の上にそっと置いた。
雨の音の中で、心の底に、かすかな火が灯る。
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翌朝、雨は少し弱まっていた。
カイが旅立ちの支度をしていると、アーニャが最後に、ひとつの袋を手渡してきた。
「旅の途中で、心が破れそうになったら、これを見て。
私の魔法は弱いけど……“思い出す”力だけは、強いの」
袋の中には、あの銀糸の布がもう一枚入っていた。
少しだけ、模様が増えていた。
それは――誰かと並んで歩いている小さな影だった。
「……ありがとう、アーニャ」
カイは深く頭を下げて、雨の道へ歩き出した。
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心を縫い、記憶を織り、言葉のかわりに布を残す人。
その静かな魔法に包まれ、カイの旅はまた、少し柔らかくなっていく。
第八話へ続く。