忘れられた丘
「誰もいない。だが、かつて誰かが、ずっと誰かを待っていた場所」
風の読書家・フランの言葉を頼りに、カイは北西へ向かって歩いていた。
道中、風景は徐々に色を失いはじめる。草はまばらになり、土は乾き、声のように聞こえる風が吹きつけてくる。
そして、ついにカイはそこへ辿り着いた。
“忘れられた丘”――名前のない場所。
丘の上には、古びた木製のベンチがひとつ。
傍には、風化しかけた石碑。
草木は控えめに揺れているが、虫も鳥も見当たらない。
どこかで誰かが深呼吸をしたような、そんな静けさだった。
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カイはベンチに腰を下ろし、空を見上げた。
広く、何もないその空に、ふと胸が締めつけられる。
「……ここに、“待っていた誰か”がいたのか」
風が、耳元でささやくように通りすぎた。
すると、その瞬間、
カイの右手がふと温かくなった。
見れば、小さな光の粒がそこに浮かんでいる。
それはだんだんと人の形になり、やがて一人の老婆の姿となった。
輪郭はぼやけ、声は風の中にまぎれるほど弱かったが、たしかに、彼女はそこに“いた”。
「……あの子は、帰ってこなかったの」
老婆はそう言った。
語られるのは、長い時を超えた一つの記憶――
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かつてこの丘のふもとに、小さな村があった。
その村の少年は、若くして戦場へと駆り出され、戻ることはなかった。
その少年を、母親である老婆は、ずっとこの丘で待ち続けたという。
毎日、空を見上げ、風の向きに耳を澄ませ、帰りの足音を夢に見ながら。
人々が村を去り、時間が丘を埋め尽くしても、
彼女はここを離れなかった。
「……その人は、なぜそれでも待ち続けたんだ?」
カイが問うと、老婆は優しく目を細めた。
「たとえ二度と戻らなくても、“待つ”ということが、生きることだったのよ」
その言葉が、カイの胸に深く沈んだ。
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やがて老婆の姿は、再び光となって風に消えていった。
石碑にふと目をやると、風で落ちた蔦の隙間に、刻まれた名があった。
「母よ、貴女の風になれたことを、誇りに思う」
カイは静かに目を閉じ、額に手を当てた。
――この場所は、誰かを“忘れた”のではなく、
誰かを“思い続けた”場所だったのだ。
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その日、丘を離れるとき、風は少し柔らかくなっていた。
そして足元に、ひとつの白い羽根が落ちていた。
カイはそれを拾い、ローブの内ポケットにしまった。
「誰かを待つこと。忘れずにいること。
……それもまた、“魔法”なんだな」
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彼の歩みは、ゆっくりと次の地へ向かう。
その先に誰がいるかも、どんな出会いがあるかもわからない。
だが――
過去を知り、誰かの記憶に触れ、
“待つ”ことの意味を受け取った今、
カイの旅は、またひとつ深くなった。
第七話へ続く。