この灯を、君へ
旅をはじめて、どれほどの時が経ったのだろうか。
カイは丘の上にいた。
眼下には、小さな村が見える。
陽が落ちかけ、灯がひとつ、またひとつと灯っていく。
彼の鞄は軽く、背中はまっすぐだった。
そこにあるのは、かつての痛みではなく――誰かと過ごした時間の重み。
彼の手には、灯がある。
火でも、魔法でもない。
それは“名のない誰か”から託され、
“誰かの沈黙”のなかで拾ったもの。
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村のはずれに、小さな家があった。
木の扉には彫りかけの文字があり、
それを見たとき、カイは立ち止まった。
「ここに、旅人が訪れる」
そう刻まれていた。
誰の言葉かはわからない。
けれどそれは、まるで“待っていた”という意志のようだった。
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扉を叩くと、中から声が返った。
「どうぞ。あなたが来ること、夢で見ました」
扉を開けたのは、まだ年若い女だった。
だがその目は、遠くの記憶を宿していた。
名はミリア。
“人の話を聞くためだけに生きる”と、自らに誓った者だった。
カイは問う。
「なぜ、俺が来ると?」
ミリアは微笑んだ。
「あなたが“灯を渡す人”だと知っていたから。
でも、あなたはもう“渡しに来た”わけじゃない。
“ただ、その灯を持ってここに立ってくれた”――
それだけで、十分なんです」
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二人は焚き火の前に座った。
ミリアは何も尋ねなかった。
カイも、自分から語らなかった。
それでも、火の揺らぎの中で、互いに多くを知っていった。
言葉ではなく、“在り方”が、伝えてくれる。
これまでカイが旅で得てきたものは、
何も語らなくても――確かに、誰かを安心させる何かになっていた。
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やがてミリアが口を開いた。
「あなたが、いてくれるだけで、
この火は、ちゃんと“灯”になります。
私は、これからの誰かの声を、
あなたがいたという時間の上に、聞いていきます」
それは、次の継ぎ手の言葉だった。
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カイは、小さな火打ち石を取り出した。
もう何年も使ってきたもの。
それは旅の始まりに近い日に手に入れ、
何度も火を起こし、時には握りしめただけの石。
今、彼はそれを――火を灯す道具としてではなく、
“火を持っていたという証”として、そっとミリアに渡した。
「これが火である必要は、もうない。
ただ、“誰かを照らそうとした人が、ここにいた”という記憶が残れば、それでいい」
ミリアは石を受け取り、何も言わず、両手で包んだ。
その静けさに、カイは初めて、自分の旅が終わったことを理解した。
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夜が更け、星が現れる。
この世界にはまだ、無数の出会っていない声がある。
けれどカイはもう、そのすべてに応えようとはしない。
なぜなら――次の誰かが、もう歩き始めているから。
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その晩、彼は短い詩を書き残した。
それは初めて、“自分のため”に書いた言葉だった。
「灯は、消えるものじゃなかった
灯は、誰かに届くまで、胸のなかに残っている
そしていつか
君が立ち止まったとき
その灯が、君の手のなかにあることを願っている」
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翌朝、カイは旅人ではなかった。
ただ、“火を渡してきた人”だった。
もう、歩き続けなくてもよかった。
けれど――歩いてもよかった。
それが、旅を終えた者にだけ許される自由だった。
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誰かが、君に火をくれた。
君が、その火を渡した。
そして、また誰かが――
君のあとを、灯していく。
完。




