ただの宿場にて
塔の鐘を背に、森を抜けたカイは、
谷の合流点にある小さな宿場町へと足を運んだ。
そこには名もなく、特別な歴史もなかった。
ただ、旅人が一晩だけ休んでいく、ありふれた場所。
だがカイは、その“ありふれた”という空気に、なぜか心を和ませた。
灯を渡す旅は、静かに“灯をともす日常”へと近づいている気がした。
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宿の名は「風の止まり木」。
粗末だが清潔な部屋、飾り気のない食堂。
女将のエルダは、何も聞かずに笑顔を浮かべ、
「疲れた顔してるけど、心は軽くなった顔だね」と一言だけ言った。
カイは思わず笑って、
「……たぶん、いろんなものを置いてきたからだ」と返した。
「そういう人が泊まると、部屋がほんの少し、あったかくなるのよ。不思議とね」
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その夜、宿場には珍しく若い旅人が数人いた。
一人は詩を書くという少年。
一人は故郷へ戻る途中の商人。
もう一人は、沈黙を愛する女鍛冶。
それぞれが食卓にいて、それぞれが言葉少なに過ごしていた。
カイは、静かに彼らの話を聞いていた。
少年が、自作の詩を恥ずかしげに読み上げたとき、
商人が、家族に送ったまま返事のない手紙の話をしたとき、
鍛冶の女が、「音より先に、火花を信じるのがコツさ」と言ったとき――
カイは、胸の奥に小さく火がともるのを感じた。
どれも、これまで出会ってきた“誰か”とつながっている。
いや――つなげたいと思える自分になっていた。
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「あなたも何か、話す?」
とエルダが言ったとき、カイは初めて、
“語ることに理由を探さなくてもいい”と思えた。
「……じゃあ、ひとつだけ。
昔、ある火守に言われたんだ。
『それはもう、“守る火”じゃない。“渡す火”だ』って」
彼は語りだした。
言葉を選びながら、出会った人々の話を。
灯を持たなかった人が、手紙のないまま想いを残していた話を。
見えない庭に咲いた、まだ咲かぬ記憶の花のことを。
話し終えると、食堂は静かだった。
誰も拍手も賛同もなく、ただ“静かな共有”がそこにあった。
それが――カイにとっては、何よりも深い“理解”だった。
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夜更け、カイは外に出た。
宿の前の道に、夜風が吹いている。
旅人たちの足音が交差し、やがて静けさに溶けていく。
彼は空を見上げた。
星が散っている。
そのひとつひとつに、まだ出会っていない誰かの名前が宿っている気がした。
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“旅”という言葉が、ようやく日々の一部になってきていた。
もう、「理由」や「贖い」を背負わなくてもいい。
ただ“今日ここにいる自分”が、誰かの隣に立てるなら、それで十分だった。
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エルダが翌朝、カイに小さな紙包みを渡した。
中には、宿で出されたスープと同じ香りが染み込んだ乾いたパンと、
短い手書きのメモが添えられていた。
「火の話、よかったよ。
たぶん、あんたはもう、“誰かを照らせる人”になってる。
照らそうとしなくても、ただ隣にいるだけでね」
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“ただの宿場”で、
カイは「誰かのそばにいられる旅人」になった。
それは特別ではない。
けれど、きっと、いちばん灯を宿せるあり方だった。
彼は再び、歩き出す。
目的地も、使命もない。
ただ、“誰かの隣で灯るために”。
最終話へ続く。




