見送りの塔
静かな約束の小屋を後にしたカイは、なだらかな丘を越え、ひとつの塔を見つけた。
それは町でも城でもない。
森の縁にぽつりと立ち、まるで誰かを見送るためだけに建てられたような、見送りの塔だった。
塔の石は風に削られ、苔が這っていたが、どこか美しく保たれていた。
そして塔のふもとには、ひとりの老人がいた。
白い衣に身を包み、手に一本の杖。
目は穏やかで、どこかすべてを見通しているようだった。
名はサエル。
「ようこそ、“終わりの手前”まで」
そう言って、彼はカイに微笑んだ。
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「この塔は、“誰かが旅立つのを見送るため”に建てられた場所。
だが、誰が旅立つのかは、来た者にしかわからない」
サエルの言葉に、カイは塔を見上げた。
その天辺には、小さな鐘が吊るされていた。
「……自分自身、ということもあるのか?」
「もちろん。
旅を続ける者ほど、“いくつもの自分”を見送ってきた。
それは、誇るべき別れだ」
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塔の中は静かだった。
狭い螺旋階段を登るたびに、カイの記憶がゆるやかに浮かんでくる。
リュエルの冷静な眼差し。
火守のヤナの無言の優しさ。
ガラスの街で笑えなかった人々。
言葉を封じた者、火を失った者、そして――過去の自分。
誰もが、カイの旅の中で何かを渡し、何かを残していった。
そしてその一つひとつが、
今のカイの輪郭になっていた。
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塔の最上部に立ったとき、風が吹いた。
眼下には、彼が歩いてきた大地が、遥かに広がっていた。
どこかに町があり、森があり、声があり、沈黙があり、そして火がある。
サエルがそっと言った。
「鐘を鳴らすかどうかは、君が決めること。
鳴らせば、“いまの君”とは別れることになる。
鳴らさなければ、“まだ何かを持ち続けていたい”という証になる」
カイはしばらく沈黙し、
そして、風に向かって言った。
「……俺は、鳴らすよ」
「それは、何への別れだ?」
「“証明したい自分”への別れ。
過去を赦されたくて、歩きつづけていた自分。
もう、その理由に頼らなくても、誰かと向き合えると思えるから」
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鐘の音が、塔に響いた。
それは高くもなく、低くもない、
けれど静かに地の底まで染みていくような音だった。
カイは目を閉じて、その音を全身で受け止めた。
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「……見送ったな」
サエルの言葉に、カイは小さく笑った。
「でも、また旅は続く」
「それでいい。
旅は“証明”ではなく、“交換”であるべきだ。
お前が誰かに渡してきたものが、
いつか必ず、お前の中にまた帰ってくる」
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塔を降りると、道は再び森へとつながっていた。
けれど今、カイの歩みにあるのは、もう“痛み”ではなかった。
それは、深く静かな信頼。
自分の中に、まだ“灯せる火”があるという確信だった。
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夕暮れ、塔の鐘の余韻が、どこまでも遠く響いていく。
それはきっと、今どこかで立ち止まっている誰かの背中に、
そっと届く音だった。
「君は、もう次の誰かに会いに行ける」
そう告げるための、最後の見送りだった。
第二十九話へ続く。




