静かな約束
深まる春の森を歩きながら、カイは思っていた。
かつて「背負う」と思っていたものは、
本当は「持ち歩く」くらいでよかったのかもしれない。
渡しそびれていた想いを、ようやく“受け取った”ことで、
彼の旅は、今まででいちばん静かで澄んだものになっていた。
そんな折、彼は森のなかで、ひとつの古い家屋を見つけた。
崩れかけた石壁に、屋根は朽ち、蔦が絡んでいる。
けれど、庭だけが不思議なほど手入れされていた。
整った石畳。並べられた小さな椅子。
そして、誰もいないのに、迎え入れるような空気。
カイは扉をノックし、返事がないまま中に入った。
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室内には、数冊の本と、編みかけの布。
机の上には、封のされていない手紙が一通、置かれていた。
そこに名前はなかった。
けれど、手紙の最初の一行に、こう書かれていた。
「カイへ」
驚いた。けれど、筆跡に見覚えはなかった。
「あなたがここに来ることは、わかっていました。
私たちは一度も会っていないけれど、
あなたが旅のなかで灯してきた火は、
ちゃんとここまで届いていました。」
「だから私は、この場所を“約束の場所”として残しました。
あなたが、何かを終え、何かをはじめるための場所として。」
カイは息を呑んだ。
“私たちは一度も会っていない”――それは、たぶん本当だ。
けれど確かに、その文には自分を深く理解している者の声があった。
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彼は家の隅にあった古い椅子に腰かけ、しばらく庭を眺めた。
木漏れ日が揺れ、静かな時間が流れる。
「……ここは、“終わらせる”ための場所じゃない」
そう、心の中で思った。
「“受け取ったものを、自分の言葉に変えていく”場所だ」
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彼は手紙の最後の一文を読んだ。
「もしあなたが、この先の旅で誰かに“灯”を渡すなら、
それはもう、かつての罪や後悔の続きをなぞる行為ではなく、
あなた自身の“静かな約束”となるでしょう。」
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その夜、カイは机の上の空白の紙に、手紙を一通したためた。
宛名は書かない。ただ、誰かに届くかもしれないという気持ちだけを残して。
「あなたへ。
まだ出会っていない誰か、
もしくは、かつてすれ違ったあなたへ。
わたしは今、ようやく“はじまること”を恐れずにいられます。
何もしてあげられなかったときも、言葉を失ったときもあった。
でも、だからこそ、これからの手を空けておくことができる。
どうか、あなたの火が、あなたのままでありますように」
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翌朝、カイは小屋の扉をそっと閉じた。
振り返ると、誰もいないはずの庭に、椅子がもう一脚増えていた。
そこに誰かが座る日は来るのだろうか。
それとも、もう誰かが自分の記憶の中で座っていたのか。
いずれにせよ、その椅子は「渡すことを選んだ者」への贈り物だった。
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風が、森を吹き抜ける。
カイはもう、立ち止まることも、急ぐこともない。
ただ、自分の歩幅で、
**“これからの誰かのための旅”**を、静かに始めていく。
第二十八話へ続く。




