渡さなかったもの
谷の町を後にしたカイは、しばらく人のいない山道を歩いていた。
火を渡し、声を届け、旅を続けてきた足取りは、確かにどこか“軽く”なっていた。
けれど、その軽さの中に――ふと、抜け落ちた何かの感触があった。
それは疲れではなかった。痛みでもない。
むしろ、**「渡すべきだったのに渡さなかった何か」**が、心の隅で冷たく膨らんでいる。
カイは立ち止まり、背負っていた鞄を下ろした。
⸻
道の端に、大きな切り株があった。
彼はそこに腰を下ろし、静かに鞄を開いた。
中には、いくつもの“誰か”からもらった物たち。
銀糸の布、詩の原稿、火守の石、返事のない手紙、
そして――一枚の、折れたままの紙片。
それはずっと奥底にあった。自分でも気づかないふりをしていた。
開いてみると、そこにはたった一言だけ、手書きでこう記されていた。
「まだ、お前に言ってないことがある」
それは――ジルの文字だった。
⸻
かつて命を落とした仲間。
彼のために歩いてきたはずの旅。
けれど、カイは気づいてしまった。
自分は、ジルの“声”を一度も聞こうとしなかった。
あの日の謝罪も、後悔も、許しも、
すべて“自分から伝えること”ばかりで、
“彼の言葉を受け取ること”はしていなかった。
⸻
静かな風の中で、カイは目を閉じた。
そして、自分の中にある“ジルの記憶”を、深く深く探った。
仲間だった日々。
彼の笑い声。怒鳴る声。
背を預けて戦った夜。
そして――最後の瞬間。
そのとき、耳元で風が変わった。
確かに、誰かの“声にならない声”が、そこにあった。
「……お前が、自分を責めて歩いているなら、
それは、俺の死を“理由”にしてるだけだ。
でももし、お前が“それでも歩きたい”と思ってるなら――
もう、俺のことは“誰かに渡してくれ”。」
⸻
カイは深く息を吐いた。
それは、ずっと抱えていた重さが、別のかたちになって流れていく瞬間だった。
「……ありがとう。
俺は、ずっとお前の死にすがってた。
でももう、“それを渡す番”なんだな」
⸻
カイは紙片を火打ち石で灯した小さな火にくべた。
炎は音もなく立ち昇り、空へと溶けていく。
それは儀式でも供養でもなかった。
ただ、「受け取っていなかったものを、ちゃんと受け取った」という確認だった。
⸻
その夜、カイは焚き火の前でひとつの言葉を日記に記した。
「俺はジルを忘れない。
けれど、もう“ジルの影”ではなく、“俺の意思”で誰かに出会っていく。
それが、お前を受け取ったということなんだろう」
⸻
旅は、渡すことで続いてきた。
けれど、本当に誰かに“灯”を渡すためには、
自分がまず受け取らなければならない。
カイはそのことを、ようやく理解した。
⸻
静かな夜明け。
切り株のそばには、灰になった紙片のかけらが一枚だけ残っていた。
その裏には、かすかに文字が浮かんでいた。
「……行けよ」
それはたぶん、ジルの最後の一言。
⸻
カイはまた歩き出す。
今度こそ、自分の足で、自分の灯を携えて。
第二十七話へ続く。




