はじまりの足跡
音のない音楽堂を後にし、カイはふたたび北東へと向かっていた。
空には雲がかかり、風は冷たい。だが、何かが静かに“満ちてきている”気配があった。
地図にはない、名もない岬。
そこに、小さな石碑と古びた標があった。
「ここは、おまえが最初に立った場所。
忘れたのなら、いちど思い出してごらん」
そう書かれていた。
カイはその言葉に、思わず立ち止まった。
「……最初に、立った場所?」
⸻
風が吹く。
目を閉じると、いくつもの“声”が通り過ぎた。
リュエルの静かな目。
エルマの深い火。
ガラスの街で笑えなかった姉弟。
名もない詩人の言葉。
誰にも届かなかった手紙。
忘れかけた、誰かの祈り。
そして、自分自身の――
最初の一歩。
⸻
この岬は、記憶の深部にあった。
かつてカイがまだ若く、まだ“魔術師”と呼ばれていたころ。
何かに憧れ、何かに怯え、
だが確かに、「歩き出すこと」を選んだ場所。
そのときの理由は、もう思い出せない。
でも、その“決意のかたち”だけは、身体の奥にまだ残っている。
⸻
石碑の横に、ひとつの足跡が刻まれていた。
それは、小さくて浅い――けれど、確かに“はじまり”を示す印だった。
カイは、そっと自分の足を隣に並べてみた。
そして気づいた。
「……これは、あのときの、俺の足跡だ」
雨に削られ、風に薄れながらも、残っていた“最初の自分”。
それが、今の彼に、何も語らずただ“そこに在る”というかたちで、迎えてくれていた。
⸻
そのとき、背後から足音がした。
振り向くと、誰もいなかった。
けれど、カイにはわかっていた。
あれは、“これまで出会ってきた誰か”の足音。
彼らの声と記憶が、いま確かに、この場所まで歩いてきていた。
それはカイの中にだけ響くものだったが、だからこそ――消えなかった。
⸻
彼はひとつ膝をつき、足跡のわきに指で文字を刻んだ。
「歩きつづけた。忘れなかった。
そして、またここから、歩く」
風が吹く。
それは祝福でも、別れでもない。
ただ、“進め”という声だけが、優しく背中を押していた。
⸻
その日、カイはもう一度だけ、
岬の端に立って、遠くの地平を見つめた。
何が待っているかはわからない。
それでも、自分の歩んだ“足跡”がここにあったことが、
今の彼を支えてくれていた。
⸻
旅は終わりではない。
そして“終わり”とは、ある日次のはじまりを選ぶことなのだ。
カイは、再び歩き出す。
この足で、また誰かの声を拾いにいくために。
第二十五話へ続く。




