音のない音楽堂
見えない花の庭を後にしたカイは、風の向くまま南東へと向かった。
やがて彼は、森の奥に埋もれるように建てられた、古びた建物にたどり着いた。
それは小さな石造りの音楽堂だった。
入口には、苔むした看板がかすかに読めた。
「音を失った音楽堂。ここに響くのは、沈黙のみ」
扉を押すと、ぎぃ、と低い音がした。
中は静まり返っていた。
床にホコリはなく、椅子は整えられ、舞台の上には古いグランドピアノがぽつんと置かれている。
だが――どんなに耳を澄ませても、音がなかった。
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「音を、聞きにきたの?」
カイが舞台を見上げていると、
客席の奥に、ひとりの青年が座っていた。
彼は目が見えなかった。だが、まっすぐこちらを向いていた。
名はセルノ。
この音楽堂の“最後の演奏者”だった。
「昔は、ここでたくさんの音が鳴っていた。
でもある時、“とても大事な音”を失ってしまってね。
それから、どれだけ楽器を鳴らしても、音が出なくなった」
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カイは、舞台にあがり、ピアノの前に座った。
指を置く。押す。
音は出ない。鍵盤は沈むのに、音はどこにも響かない。
「この音楽堂にかけられたのは、“魔法”じゃない。
“誓い”だったんだよ」
セルノの言葉に、カイは振り向いた。
「音は、“誰かに聴かれることで完成する”。
でもその“誰か”を失ったとき、
自分の音を“もう鳴らしちゃいけない”って、
そう誓った人がいる。
……だから、ここは沈黙になった」
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カイは静かに目を閉じた。
そして、両手で、鍵盤を“押さなかった”。
ただ、そこに手を置いただけ。
すると、不意に――
かすかに、ひとつの音が、胸の奥に鳴った。
聞こえたのではない。
“思い出された”音だった。
それは、誰かが自分のために奏でてくれた、遠い昔の旋律。
旅の中で誰かがくれた言葉、灯り、沈黙の中の温もり。
それらが混じり合って、音になった。
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カイはそのまま、指をそっと動かした。
実際には音は鳴らない。だが、セルノの表情が変わった。
「……今、聞こえた」
「聞こえた?」
「音じゃなく、“お前の想い”が。
誰かに向けられた、名のない手紙のような旋律。
それなら、音がなくても届く」
カイはピアノの上に、そっと手を置いた。
「音っていうのは、空気を震わせるだけじゃない。
記憶も、心も、震わせられる。
沈黙の中にあっても、それは“響いてる”んだな」
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その夜、カイは楽譜に、ひとつの旋律を書き記した。
音符には名をつけなかった。
代わりに、たったひとことだけ添えた。
「君が聞いたなら、それが音になる」
セルノは、それを両手で受け取った。
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翌朝、カイが音楽堂を去るとき、
風が舞台のカーテンを揺らした。
ほんの一瞬、鍵盤がかすかに震えたような気がした。
それは音ではなく、記憶の鳴る音だった。
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音とは、誰かの中に生まれるもの。
沈黙の奥にこそ、いちばん深い音がある。
カイの旅は、またその音を探すように続いていく。
第二十四話へ続く。




