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記憶の旅人  作者: 昼の月
23/30

音のない音楽堂

見えない花の庭を後にしたカイは、風の向くまま南東へと向かった。

やがて彼は、森の奥に埋もれるように建てられた、古びた建物にたどり着いた。


それは小さな石造りの音楽堂だった。

入口には、苔むした看板がかすかに読めた。


「音を失った音楽堂。ここに響くのは、沈黙のみ」


扉を押すと、ぎぃ、と低い音がした。

中は静まり返っていた。

床にホコリはなく、椅子は整えられ、舞台の上には古いグランドピアノがぽつんと置かれている。


だが――どんなに耳を澄ませても、音がなかった。



「音を、聞きにきたの?」


カイが舞台を見上げていると、

客席の奥に、ひとりの青年が座っていた。


彼は目が見えなかった。だが、まっすぐこちらを向いていた。


名はセルノ。

この音楽堂の“最後の演奏者”だった。


「昔は、ここでたくさんの音が鳴っていた。

でもある時、“とても大事な音”を失ってしまってね。

それから、どれだけ楽器を鳴らしても、音が出なくなった」



カイは、舞台にあがり、ピアノの前に座った。


指を置く。押す。

音は出ない。鍵盤は沈むのに、音はどこにも響かない。


「この音楽堂にかけられたのは、“魔法”じゃない。

“誓い”だったんだよ」


セルノの言葉に、カイは振り向いた。


「音は、“誰かに聴かれることで完成する”。

でもその“誰か”を失ったとき、

自分の音を“もう鳴らしちゃいけない”って、

そう誓った人がいる。

……だから、ここは沈黙になった」



カイは静かに目を閉じた。

そして、両手で、鍵盤を“押さなかった”。


ただ、そこに手を置いただけ。


すると、不意に――

かすかに、ひとつの音が、胸の奥に鳴った。


聞こえたのではない。

“思い出された”音だった。


それは、誰かが自分のために奏でてくれた、遠い昔の旋律。

旅の中で誰かがくれた言葉、灯り、沈黙の中の温もり。


それらが混じり合って、音になった。



カイはそのまま、指をそっと動かした。

実際には音は鳴らない。だが、セルノの表情が変わった。


「……今、聞こえた」


「聞こえた?」


「音じゃなく、“お前の想い”が。

誰かに向けられた、名のない手紙のような旋律。

それなら、音がなくても届く」


カイはピアノの上に、そっと手を置いた。


「音っていうのは、空気を震わせるだけじゃない。

記憶も、心も、震わせられる。

沈黙の中にあっても、それは“響いてる”んだな」



その夜、カイは楽譜に、ひとつの旋律を書き記した。

音符には名をつけなかった。

代わりに、たったひとことだけ添えた。


「君が聞いたなら、それが音になる」


セルノは、それを両手で受け取った。



翌朝、カイが音楽堂を去るとき、

風が舞台のカーテンを揺らした。


ほんの一瞬、鍵盤がかすかに震えたような気がした。


それは音ではなく、記憶の鳴る音だった。



音とは、誰かの中に生まれるもの。

沈黙の奥にこそ、いちばん深い音がある。


カイの旅は、またその音を探すように続いていく。


第二十四話へ続く。

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