見えない花の庭
名のない手紙の郵便小屋を出てから、カイは西へと進んでいた。
季節は少しずつ春へ向かい、風がやわらかくなっていた。
その先にあると聞いたのは、「花の庭」。
だがその庭は、どんな地図にも記されていない。
しかも人によって、見えるものが違うという――
「ある者には花畑に見え、ある者にはただの野原。
だが、そのどちらでもない人間には、“何も見えない”」
そんな話を聞いて、カイは心を静かにした。
“何が見えるのか”は、たぶん今の自分が“何を持っているのか”と、関わっている。
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森を抜けると、丘の上に開けた一画があった。
そこには――何もなかった。
風に揺れる草も、花の色も、香りさえも感じない。
だが、足を踏み入れた瞬間、カイはふと立ち止まった。
足元の感触が違う。
土の下に、何かが確かに“植わっている”。
それは目に見えない。けれど、生きている気配があった。
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「見えてるの?」
声がした。
振り向くと、ひとりの少女がいた。
年齢は十を少し越えたくらい。
だがその目は、はるかに遠くを見てきた人のようだった。
名をルゥナという。
「ここは、“植えられた想い”が咲く場所。
でもね、咲くのは“目じゃなくて、記憶”なんだよ」
カイは少女に問うた。
「記憶で見る花……?」
「うん。誰かのことを、ちゃんと“思ってる”人にだけ見える。
それが祈りでも後悔でも、愛でも憎しみでもいい。
ただ、ちゃんと“残してきたもの”がある人だけが、ここで花を見るの」
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カイはそっと目を閉じた。
思い出す。
癒し手のリュエル。詩人の声。沈黙の灯台。
誰にも届かなかった言葉。積まれた石。
名のない手紙。
そして、歩き続けてきた自分自身。
すると、香りが流れた。
目を開けると、そこには淡い光を放つ花々が広がっていた。
形はさまざま、色も不揃い。だが、それぞれが“想い”のかたちをしている。
カイは、ある花の前にひざをついた。
それは、小さな青い花。
初めて旅に出た日、鍛冶屋のロクがくれた布の色に似ていた。
「……やっぱり、咲いてたんだな。俺の中にも」
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ルゥナは言った。
「この庭はね、“終わった想い”を咲かせる場所じゃないの。
“これから咲く想い”を見つける場所なんだよ」
「……つまり、“これからどうしたいか”を、見せる場所」
ルゥナは微笑んでうなずいた。
「花は、咲いてしまったら枯れるだけ。
でも、“咲く前の気配”は、ずっと生きてる。
それを、誰かが見つけてくれるだけで、歩ける人もいる」
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帰り際、カイは振り返った。
見えないと思っていた庭は、今もそこにあった。
見えないまま、確かに咲き続けていた。
まだ咲いていない想いのために、人は進める。
カイは風に背中を押されるようにして、また一歩を踏み出す。
想いはまだ咲いていない。
けれど――咲かせる旅は、これからも続いていく。
第二十三話へ続く。




