橋のない川
カイが火守の山小屋を後にして数日。
山道を抜けると、開けた谷にたどり着いた。
そこには、大きな川が流れていた。名はルイン川。
雪解けの水を集めたその川は、深く、速く、冷たい。
けれど奇妙なことに、橋がなかった。
東と西をつなぐはずの幹道にもかかわらず、
その川を越える手段は、見当たらなかった。
対岸には、人の気配があった。
だが声は届かず、船もない。
カイはしばらく岸辺に佇み、川の音に耳を傾けた。
⸻
そのとき、背後から声がした。
「渡りたいのか? でも、お前は“まだ早い”かもしれんぞ」
振り返ると、そこには老人が立っていた。
くしゃくしゃの帽子をかぶり、釣竿を肩に背負っている。
名はフオス。
この川辺に長年暮らす、いわば“渡らない人”。
「昔はな、立派な橋があったよ。
でもある日、川が怒った。
それ以来、人は勝手に“この川は越えられない”と思い込むようになった」
「川が……怒った?」
「正確には、“忘れられた”。
名も、意味も、役目も、誰も思い出さなくなって、
この川は“ただ流れるだけの存在”になった」
⸻
カイは、火守の山小屋でもらった火打石と魔石を手にした。
そしてそっと川面にかざす。
すると、水面にうっすらと魔力の筋が浮かびあがった。
それは、古い記憶の名残――かつてここに魔法の橋がかかっていた痕跡だった。
「……この川は、“記憶の川”だな」
「察しがいい」
フオスは静かにうなずいた。
「ここは、“忘れたままにされた想い”が流れつく場所。
渡るには、自分が何を忘れ、何を忘れたくないか、
それを、川に投げねばならん」
⸻
カイは、ゆっくりと地に膝をつき、鞄から布を取り出した。
アーニャの銀糸の布、風の塔の風車の符、
港町で渡された詩の原稿――
それらをそばに並べて、ひとつずつ、自分に問いかけていった。
「俺が、忘れたくないものは……」
・誰かがくれたことば。
・誰かの傷に触れた手。
・自分がかつて逃げたこと。
・それでも、歩きつづけた道。
そして最後に、カイはひとつの石を拾い、それを川に投げた。
その石には、たったひとつの文字が刻まれていた。
「在」
⸻
その瞬間、風が吹いた。
魔石がかすかに輝き、川面にひとすじの光の道が浮かび上がった。
水の上に、短く、そして確かに、橋ができていた。
フオスがうなずいた。
「お前は、“思い出して渡った”やつだ。
……そういう人間の足跡は、残らなくても届く」
⸻
川を渡った先には、小さな祠があった。
そしてその祠の中には、手のひらほどの石板が安置されていた。
そこには、こう刻まれていた。
「忘れることは、生きるため。
だが、思い出すことは、“誰かのため”」
カイは、深く頭を下げた。
⸻
旅の半ばを越え、彼は今、
“忘れられた橋”を、自分の意志で渡った。
それは「自分と過去」とをつなぐ橋であり、
そして、「自分と誰か」をつなぐ橋でもあった。
⸻
風が穏やかに吹いている。
遠くで誰かが、声をかけたような気がした。
第二十一話へ続く。




