ひとり語りの井戸
朝市のにぎわいを背に、カイは西の丘を越えた。
そこにあると聞いたのは、「語らなくなった井戸」――
言い伝えでは、かつて人々の願いや悔いが“声”となって湧き出ていた井戸だった。
しかし今はもう、誰もそこへ行かなくなったという。
話しかけても返事はなく、底は見えず、風の音さえ吸い込まれる。
けれどカイは、そこに話すべき声がまだ眠っている気がしていた。
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丘の窪地に、石造りの井戸があった。
苔が這い、木桶は壊れ、吊るされた滑車は風にひとつだけ回っていた。
だが確かに、それは“聞くために作られた井戸”だった。
カイはそっと縁に腰をかけ、息を吸い込む。
「……誰か、いますか」
沈黙。
「俺はカイ。
旅をしてる。忘れられたものを拾い、声にならなかったものを聞いて、
それを少しずつ、人に渡している」
何も返ってこない。
それでもカイは、続けた。
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「昔、俺は魔術師だった。
守れなかった仲間がいて、責任から逃げて、
それでも、誰かと出会って、何かを受け取って、
今も、歩いてる」
「――そして今日は、誰かに話したいことがあって、ここに来た」
カイは、懐から小さな布の切れ端を取り出した。
かつてリュエルと歩いた森、癒し手エルマの家で見つけた古い布。
そこには、かすれた文字があった。
「私の声は、届かないのなら、それでもいい。
けれどどうか、誰かが、声を捨てないように」
「この声が、あんたのものなら――俺はそれを届ける。
届く場所まで、歩いてでも持っていく」
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その瞬間、井戸の底から、風のような音が立ち上がった。
音ではなく、声になりかけた何かだった。
聞き取れなかった。けれど、それは確かに“返事”だった。
カイは微笑んで、井戸にもう一言だけ、言葉を投げた。
「ありがとう。俺は、ちゃんと聞こえたよ」
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その日、カイは井戸のそばに、一本の杭を立てた。
ことばの墓標とは違う、未来に向けた杭だった。
そこに、短く記した。
「話すことをやめない。たとえ、返事がなくても」
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語るということは、届かなくても続けることだ。
誰も聞いていないかもしれない。
だが、その“話し続ける意志”こそが、誰かを救う日がある。
カイは背を向けずに、歩き出す。
沈黙の奥で聞こえた風を、胸にたずさえて。
第十九話へ続く。




