表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶の旅人  作者: 昼の月
18/30

ひとり語りの井戸

朝市のにぎわいを背に、カイは西の丘を越えた。

そこにあると聞いたのは、「語らなくなった井戸」――

言い伝えでは、かつて人々の願いや悔いが“声”となって湧き出ていた井戸だった。


しかし今はもう、誰もそこへ行かなくなったという。

話しかけても返事はなく、底は見えず、風の音さえ吸い込まれる。


けれどカイは、そこに話すべき声がまだ眠っている気がしていた。



丘の窪地に、石造りの井戸があった。

苔が這い、木桶は壊れ、吊るされた滑車は風にひとつだけ回っていた。

だが確かに、それは“聞くために作られた井戸”だった。


カイはそっと縁に腰をかけ、息を吸い込む。


「……誰か、いますか」


沈黙。


「俺はカイ。

旅をしてる。忘れられたものを拾い、声にならなかったものを聞いて、

それを少しずつ、人に渡している」


何も返ってこない。

それでもカイは、続けた。



「昔、俺は魔術師だった。

守れなかった仲間がいて、責任から逃げて、

それでも、誰かと出会って、何かを受け取って、

今も、歩いてる」


「――そして今日は、誰かに話したいことがあって、ここに来た」


カイは、懐から小さな布の切れ端を取り出した。

かつてリュエルと歩いた森、癒し手エルマの家で見つけた古い布。

そこには、かすれた文字があった。


「私の声は、届かないのなら、それでもいい。

けれどどうか、誰かが、声を捨てないように」


「この声が、あんたのものなら――俺はそれを届ける。

届く場所まで、歩いてでも持っていく」



その瞬間、井戸の底から、風のような音が立ち上がった。


音ではなく、声になりかけた何かだった。


聞き取れなかった。けれど、それは確かに“返事”だった。


カイは微笑んで、井戸にもう一言だけ、言葉を投げた。


「ありがとう。俺は、ちゃんと聞こえたよ」



その日、カイは井戸のそばに、一本の杭を立てた。

ことばの墓標とは違う、未来に向けた杭だった。


そこに、短く記した。


「話すことをやめない。たとえ、返事がなくても」



語るということは、届かなくても続けることだ。

誰も聞いていないかもしれない。

だが、その“話し続ける意志”こそが、誰かを救う日がある。


カイは背を向けずに、歩き出す。

沈黙の奥で聞こえた風を、胸にたずさえて。


第十九話へ続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ