ライの朝市にて
夜明けの道を下りた先に、ひとつの町が広がっていた。
その町の名はライ。谷と川に挟まれた穏やかな土地で、旅人と商人の交差点だった。
そして今日は、町にとって特別な日。
月に一度開かれる**朝市**の日だった。
露店が並び、香辛料の匂いが風に乗る。
果物の色、焼きたてのパンの湯気、人々の声――
それらすべてが、“生きている”という気配で町を満たしていた。
カイはその喧騒に、久しぶりに肩を預けた。
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朝市の中央には、仮設の舞台が組まれていた。
そこで語られていたのは、物語――
ひとりの語り部が、民話を語っていた。
「昔むかし、心を失った旅人が、
見知らぬ人の小さなやさしさに、言葉を取り戻した。
その言葉は、やがて火になり、風になり――
遠くの誰かを、そっと照らしたという」
カイは足を止めた。
それは、どこか自分の旅と重なるようでいて、
“自分では語れなかった話”でもあった。
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語り部の隣に、ひとりの若い男がいた。
筆と小さな板を持ち、物語を“記録”していた。
名をエミルという。
「ぼくは、“言葉を集める旅”をしているんです。
この国のあちこちにある、語られずに消えていく物語を、
ひとつでも多く、残したくて」
「物語を“残す”か……」
「そう。語る人がいなくなっても、
“誰かが生きていた証”として、残したい」
カイは自分の鞄を開き、あの詩人の原稿を取り出した。
――かつて沈黙の港町で受け取った、セオの兄が遺した詩。
「これを、読んでもらえないか」
エミルは受け取り、数行目を通すと、目を見開いた。
「……言葉が、生きてる」
「この詩は、“届かなかったまま”だった。
でも、こうして誰かが読むことで、息をし直せると思った」
エミルは深く頷き、舞台の語り部に渡した。
やがて詩は、朝の市場の空に、音として流れ出した。
「光を見たか 風を知っているか
名を呼ばれなかった声が ここにいたと告げている
あなたが忘れても わたしは覚えている」
市場が静かになり、誰かが涙をぬぐった。
誰も知らない詩人の、誰も届かなかったはずの言葉が、
今、生きていた。
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「伝わったんだな……」
カイの言葉に、エミルは静かに笑った。
「言葉は火になる。けれどそれは、“燃やす”ためじゃない。
“温める”ためにあるんだ」
カイは、もう一度だけ詩の一節を思い出した。
「名前を知らなくても、
誰かを照らすことはできる」
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朝市が終わる頃、カイは果物をひとつ買った。
名もない、酸味のある赤い実。
それを口に含むと、旅の味がした。
“苦さ”も“甘さ”も、全部飲みこんで、
それでも――残るものが、確かにある。
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言葉を渡すということは、誰かの時間に、火を灯すこと。
カイは再び歩き出す。
声を持たぬ誰かのために、
まだ語られていない物語の続きを、探しながら。
第十八話へ続く。




