月の階段
北の空に、はっきりと月が昇っていた。
それは満月でも三日月でもない、歪な輪郭をした“割れかけの月”だった。
けれどその光は、どこか落ち着いていて、冷たいはずなのに温かくもあった。
カイは山を登っていた。
村もなく、道標もない、ただ静かな石の道。
だが、足元には淡い光が差していた。
――それは月が創る「階段」だった。
小さな石の段差が、まるで光を受けて浮かび上がっているように、山の尾根に沿って続いていた。
その途中、カイはひとりの女に出会った。
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彼女は白い衣をまとい、素足で石段を歩いていた。
年は若くも老いても見える。
どこかこの世界に属していないような、揺れる存在感。
「旅の人、あなたは“上”を目指してるの?」
「……たぶん、そうだと思う」
「なら、選ばなきゃいけない。“忘れて登る”か、“思い出して留まる”か」
名はシルナ。
“月の番人”を自称する彼女は、静かに語った。
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「この階段を登る者は、
これまでの人生で“手放せなかったもの”を試される。
登りきれば、それらを忘れて、新しくなれる。
でも、登らない者は――“誰かの記憶”に残ることができる」
「……つまり、登れば何もかも捨てて、“軽くなれる”と?」
「そう。“楽”になれる。でも、“誰かにとってのあなた”は、この世から消える」
カイは黙った。
これまで、いくつもの罪、後悔、痛みを見つめ、歩いてきた。
それらが“消える”なら、それは確かに救いに思える。
でも――
「俺は、忘れたくない。
たとえ痛みでも、それがあったから今の俺がいる。
俺を覚えてくれる誰かがいたなら、俺も、その人を忘れたくない」
シルナは目を細め、どこか嬉しそうに笑った。
「それが“留まる”者の選択。……そしてそれは、“強い者”の選択でもある」
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カイはふと、懐から銀糸の布を取り出した。
アーニャにもらったその布は、旅の記憶と共に、少しずつ模様が増えていた。
そこには、小さな火、石の塔、風車、羽根――
出会ってきた人々の象徴が、ひと針ずつ刻まれていた。
それを見て、彼ははっきりと思った。
「これがある限り、俺は“思い出す”側でいたい。
消えるんじゃなくて、誰かの中に残れる旅をしたい」
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そのとき、月の光が濃くなり、階段の先にもうひとつの姿が現れた。
それは――かつての自分。
迷い、怯え、立ち止まり、言葉を飲み込んでいた“若き日のカイ”。
その影が、カイに問いかける。
「それでも歩くの? これ以上、何かを失うかもしれないのに?」
カイは静かに頷いた。
「そうだ。
だけどもう、“逃げるため”じゃなく、“渡すため”に歩いてる」
影は消え、階段の先が途切れ、静かな台地に出た。
そこには何もなかった。だが、満ちるような静けさがあった。
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夜明け前。
カイは山を降りはじめる。
月は沈み、空はうっすらと明るみはじめていた。
下りの道には、誰かの足跡がいくつも刻まれている。
“忘れなかった者たち”の足跡だ。
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選ぶとは、“何かを持っていく”ということ。
そして、“何かを残していく”ということ。
カイはそうして、またひとつの夜を超えた。
第十七話へ続く。




