ことばの墓標
谷を越えたあと、カイはしばらく北を目指していた。
道はなだらかだったが、空気が薄く、冷えていた。
やがて、木々のない丘陵地に出た。
風が強く、雲が低く、空の色までもが淡く消えていくような場所。
そしてその中心に、無数の木の杭が立っていた。
杭には、ひとつひとつ短いことばが刻まれていた。
「あなたに届かなかったごめん」
「待てなかった、でも忘れてない」
「……ありがとう」
名はない。日付も、送り主も受け手もない。
ただ、誰かが残した、ことばだけがある。
ここは「ことばの墓標」と呼ばれる場所だった。
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風が鳴り、ことばたちが揺れている。
カイはその間を歩いた。
墓標の一つひとつに、時間の粒が貼りついていた。
踏みしめる土は柔らかい。
まるで“傷ついた思い出”が、そのまま地面に埋まっているようだった。
やがて、ひとりの男が現れた。
長身で痩せており、淡い青の外套を羽織っていた。
白い指で一本の杭を拭いながら、彼は言った。
「ここにあるのは、**“届けられなかった言葉”**ばかりだ」
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名はロエン。
ことばの墓標の守人。元・吟遊詩人。
「昔は言葉を贈ることで人を癒せると思っていた。
だがある時、誰かのために綴った詩が、その人を壊した。
……それ以来、わたしは“語られなかった言葉”を集めるようになった」
「語られなかった言葉、か……」
カイは静かに頷いた。
「俺も、“遅すぎた言葉”をいくつも持ってる。
それを言えば救えたかもしれないのに、言わなかった。……言えなかった」
ロエンは優しく言った。
「だったら、ここに刻めばいい。
届かなかったとしても、“残す”ことには意味がある。
それは、誰かが拾うかもしれないから」
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カイは杭を一本選んだ。
胸の奥にあった、まだ形になっていなかった言葉を、短く、静かに刻む。
「お前の痛みに、耳を塞いでいた。すまない」
ジル――
昔、自分が守れなかった仲間。
彼の悲しみに、怒りに、カイは向き合うのが怖かった。
そのくせ、心のどこかで赦されたいと願っていた。
だからこそ、その言葉は、自分のためでもあった。
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夜、焚き火のそばで、ロエンが言った。
「言葉は、届かなくてもいい。
ただ、“在った”ことを認めることが、誰かを救うんだよ」
カイは火を見つめながら、静かに答えた。
「俺はもう、“答えをもらえない言葉”でも、伝えたいと思えるようになった。
それだけで――少し、軽くなる」
ロエンは満足そうに笑った。
「旅を終えたら、また来るといい。
“ことばの続きを刻みに”ね」
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朝。風が変わった。
カイが丘を下ると、後ろで木の杭がいくつか揺れた。
まるで、誰かが「聞いたよ」と言ってくれたかのように。
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言えなかったこと。届かなかったこと。
それでも、“残す”ことで、誰かが歩き出せる。
カイは、自分のことばを持って、また一歩を進める。
第十六話へ続く。




