鏡のない部屋
灯台の村を後にしたカイは、山沿いの静かな道を進んでいた。
風は落ち着き、森の緑が濃くなっていく。
やがて現れたのは、一面に霧がたちこめる、深い森の中の屋敷だった。
それはまるで誰かの記憶そのもののような建物――古く、息をひそめ、時間だけを抱いていた。
門の前に立つと、鍵はかかっていなかった。
だが入るには、なぜか**「決意」**が必要な気がした。
カイはゆっくり扉を開ける。
その屋敷には、鏡が一枚もなかった。
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床は埃をかぶり、窓には布がかかっていた。
だが家具はきちんと並び、誰かがつい昨日まで暮らしていたような温もりがあった。
そしてカイは、屋敷の奥のサロンで、一人の男に出会う。
黒衣の壮年――名をグラズという。
沈んだ声と、深いまなざしを持つその男は、来客を咎めるでもなく、淡々と言った。
「ここは、“自分の顔を見たくない者”が最後にたどり着く場所だ」
「……なぜ、鏡をなくした?」
「見れば、自分が“何をしてきたか”が映るからだ」
カイはしばらく黙って、部屋の空気を味わうように言った。
「それを受け止めるのが怖くて、ずっと目を逸らしてきた……そういう日々を、俺も知ってる」
グラズは小さく目を細めた。
「お前も、“何かを壊した”のか?」
「……ああ。仲間の命も、自分の魔法も、自分への信頼も。全部」
静寂が、部屋を満たした。
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夜。屋敷の奥にある書斎で、グラズはひとつの物語を語った。
彼はかつて、王家付きの魔導建築士だった。
魔法で動く都市を設計し、多くの人に感謝されていた。
だが、ある崩落事故で人命が失われた。
その原因が、自身の設計にあったと知った彼は、表舞台を去り、この屋敷にこもった。
「責められはしなかった。ただ……許されることも、なかった。
いちばん許せなかったのは、自分自身だった」
それ以来、彼はすべての鏡を取り払い、姿のない自分とだけ、向き合ってきた。
「だが今日……お前を見て、少しだけ思った。
“姿を失っても、人は前に進めるのかもしれない”と」
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翌朝。カイは鞄から、布に包まれたひとつの“手鏡”を取り出した。
それは旅のはじまりに、鍛冶屋のロクからもらったものだった。
「これを、あんたに渡したい。
もし“今の顔”が、誰かに見せられると思えた時に、開いてくれ」
グラズはしばらくそれを見つめ、そっと受け取った。
「お前は、今の自分を見られるのか?」
カイは、少しだけ笑った。
「毎日、揺れながら……でも、前よりは目をそらしてない。
それで十分だと、最近は思えるようになってきた」
グラズは頷いた。静かに、深く。
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旅立ちの際、玄関先に立ったカイを、グラズは見送った。
「……次に会う時は、この屋敷にも、鏡を戻せているといい」
「きっと、戻る。
だって、誰かに“顔を見せたい”って思う瞬間は、どんな人にも来るから」
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森を抜けると、霧は少し晴れていた。
足元に差し込む光が、どこかあたたかい。
自分の顔を見つめること。
それは過去を赦すことではなく、ただ**“今を受け入れる”**という行為だった。
カイの足は、また一歩前へ。
鏡のない部屋に、小さな“まなざし”を残して。
第十四話へ続く。




