旅路のはじまり
春の終わり、丘陵地帯に囲まれた辺境の町――リュサ。
乾いた風が石畳を撫で、軒先の風鈴が、もうすぐ来る暑さを予告していた。
この町に住む男、カイ・ロメルは三十歳。かつて都の魔導師団に籍を置いたが、今は鍛冶屋の手伝いをしながら静かに暮らしていた。鋼を打つ音の向こうに、遠い過去の記憶が薄れていくのを感じながら。
「おいカイ、そろそろ昼飯にしろや。手止めていいぞ」
店主のロク爺がぼやきながら手ぬぐいで額をぬぐう。
カイは槌を置き、黒く煤けた手を見つめた。
「……ロクさん。旅に出ようと思います」
「……ほぉ?」
「このままだと、自分が錆びていく気がして」
沈黙のあと、ロクは鼻で笑った。
「錆びるのが怖いなら、火を絶やさなきゃいい。だがまあ……お前みたいなやつは、風の方が合ってるかもしれんな」
それから三日後、カイは町を出た。荷は少なく、杖と革の鞄ひとつだけ。かつて使っていた魔導士のローブは、洗って小さくたたまれ、鞄の底に沈んでいた。
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最初の目的地は、ミルザの森。
そこに古の癒し手が住んでいると、旅人の間では噂があった。理由はなかった。だがカイは、その誰とも知らぬ“癒し手”に会いたかった。
森の入口にたどり着いた頃、日はもう傾いていた。
薄暗い緑のトンネルに踏み込んだ瞬間、空気が変わる。
――魔力が漂っている。
「……結界か。手の込んだものだな」
森の中は異様なほど静かだった。鳥のさえずりも、虫の羽音もない。ただ、自分の足音だけが響いていた。
そして、森の奥で、カイはひとりの少女と出会う。
木の根元に膝をつき、花を摘んでいるその姿は、まるで絵本の一節のようだった。
「……誰?」
少女は振り向き、無表情なままに言った。
「あなた、魔術を使えるの?」
「昔はな。今は……火打ち石の代わりにする程度だ」
少女は少し首をかしげ、立ち上がった。
年の頃は十七、十八。だがその瞳は年齢以上に静かで、深かった。
「癒し手に会いに来たの?」
「会えるなら、な」
少女は頷き、森の奥を指さした。
「じゃあ、ついてきて。けど、途中で逃げないでね。
あの人に会うには……“自分の痛み”を隠さずに通らないといけないから」
森が息を呑んだように静まりかえる。
カイは短く息を吐き、頷いた。
「逃げないよ。もう、とっくに、逃げ疲れてる」
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――これは、一人の男が歩き出す物語。
誰かに会い、自分に出会いなおす物語。
第二話へ続く。