旦那様と魔猫アーニャ
とりあえず魔女のおかげで早々に棺から脱走することに成功したアーニャは、旦那様の家の敷地にある庭に隠れるように住みついて様子を見ることにした。
数日様子を見ていたが、旦那様はアーニャがいなくなってからすっかり気落ちして、どんどん生気を失っているように映る。
やがて元々社交が好きではなかった彼は以前のように、用事がない限り外出をすることはなくなり、時折、アーニャの過ごした部屋をドア越しに眺めてはため息をつく。
毎日がその繰り返しとなり、使用人たちだけではなく、窓からのぞいて様子を伺っているアーニャも、心を痛めていた。
そんな旦那様を見かねて誰かが提案したのだろう。
晴れた日、旦那様が突然庭に現れた。
そしてアーニャとよく過ごした庭のテーブルにつく。
しかし外の天気に反して旦那さまの顔は暗いままだ。
アーニャはうつむいている旦那様の表情が気になって、ふらふらと、気がつけば旦那様の視界に入る位置にきていた。
忘れていたが今の自分は魔猫だ。
そして彼は今は生気がないとはいえ魔物を森で狩るだけの力のある人間だ。
この姿で出たら狩られるかもしれない、だから人間に扮して彼を騙したのに、つい彼の前に出てしまったのだ。
アーニャが失敗を悟って引き返そうと身構えると、旦那様はそんなアーニャに声をかけてきた。
「ああ、怖がらなくていい。きれいな毛並みだしどこかの飼い猫かな?迷ったのか?こっちにおいで」
猫として出てきてしまったので人間の言葉を話すわけにはいかない。
とりあえず言葉を話すこともできるけれど、会話をする事がいいことかどうかはわからない。
旦那様はアーニャを猫だと思っているのだから、猫として接しておくのがいいかもしれない。
そう考えたアーニャはとりあえず猫として旦那様と接することにした。
とりあえず猫らしい鳴き声をそれらしく出して足元にすり寄っていく。
すると旦那様は迷うことなくアーニャを抱き上げて膝に乗せた。
「君に言っても分からないかもしれないが、僕は大切なものを失ってしまったんだ」
膝の上に乗せられて頭をなでながら、旦那様は急にそんな話を始めた。
アーニャが旦那様の方に顔を向けると、今度は背中を撫でながら話を続ける。
「突然お別れの日が来てしまうなんてな」
使用人たちは少し離れたところで見守るようにして彼を見ていた。
急に洗われた猫には警戒しているが、元は旦那様の気晴らしのための席なので、様子を見る。
彼らに旦那様の声は聞こえていないが、彼が何か語りかけているのは分かった。
きっと自分たちには聞かれたくないだろうと、彼らはあえて耳をそちらには向けていない。
旦那様もそれが分かって、人間の言葉が分かっていないだろう猫に自分の思いを吐露したのだ。
アーニャを失ってその悲しみからなかなか立ち直ることができない弱い部分を、いくら信用しているとはいえ使用人たちに語るわけにはいかない。
でも、誰かに話したかったのだ。
偶然とはいえその役目を目の前の猫に求めた。
すると猫は、自分の言葉が分かっているかのように、旦那様の膝の上で心配そうに顔を見上げたり、首を傾げたり、撫でている腕にすり寄ったりして励まそうとしてくれた。
「しかしなぜだろう。君を撫でているととても落ち着くな。アーニャが近くにいるかのようだ」
魔猫のアーニャに見上げられた旦那様は、魔猫を撫でながらそんなことを言う。
そして自分を見上げている魔猫の顔をじっと見下ろしてから、微笑んだ。
「ああ、君の瞳はアーニャと同じ色なんだね」
旦那様の言葉を聞いたアーニャは、驚いて思わず膝の上から飛び降りた。
アーニャと同じ、同じものなのだから当然だ。
このままこうしていたら、アーニャの正体に旦那様が気付いてしまうのではないか。
もし気付かれたらどうなるか分からない。
もしかしたら騙していたことを追求されて、きつい事を言われるかもしれないし、騙した罪で殺されるかもしれない。
そんな恐怖からの行動だったが、旦那様にそんなつもりはなかったらしい。
「もう帰ってしまうのかい。また遊びにおいで。待っているから」
飛び降りて背を向けて地面に着地していたアーニャは、その言葉を聞いて立ち止まると振り返った。
そして旦那様を見上げて、にゃーと返事のような鳴き声を出すと、旦那様の前から離れた。
アーニャはこの日から、自分が旦那様を慰められるのならと、できるだけ彼が外にいる時は側にいようと決めたのだった。
庭で白い猫に出会ってから、旦那様が晴れた日には庭に出るようになった。
一度会ってしまえばなんてことはない。
庭に出てきた旦那様が椅子に座るのを見計らって、アーニャは静かに彼の側に寄り添うようになった。
前回おいでと言われたからといって本当に受け入れられるのか、最初の言葉は気まぐれだったのではないか、正直二回目などは不安が大きかったけれど、旦那様はアーニャが来ると身をかがめてすぐに膝の上に乗せてくれた。
まるでそこが定位置化のような扱いだ。
周囲から、最初はどこからともなく現れた野良猫なら追い出した方がいいと一部から声が上がっていたが、旦那様がその猫に会いたくて外に出ていると分かると、白猫は旦那様を外に出すきっかけを作ったものとして、彼らにも歓迎されるようになった。
白猫も、旦那様以外の使用人にも迷惑をかけることなく撫でられるよう心がけていたので、しばらくすると害はないものと判断された。
そうしていつしか家の中に迎え入れられるようになり、アーニャは再び、今度は猫の姿でこの屋敷でお世話になることになった。
それからというもの、彼の側には常に白い美猫がいた。
魔猫として接している間に、アーニャが旦那様に正体を明かすことはなかったので、二人が会話をする事もなかった。
そのためアーニャが一方的に旦那様の話を聞くだけになってしまったけれど、それでもアーニャは側にいられて幸せだった。
アーニャは魔猫は姿が戻ってから、一度も仲間に会いに行くことをせず、彼と屋敷で過ごした後、彼の墓の前で眠りについた。
彼も魔猫も他の誰を愛することなくその生涯を終えたのだ。
魔猫のアーニャは彼の生を見届けたことで、自分の役割を終えた事を悟っていた。
やがて彼が寿命を迎えてその生を終えると、美猫もいつの間にかその家から姿を消していたと屋敷の者には思われていたが、実はそうではなかったのだ。
本来の魔猫は人間よりもはるかに長生きする生き物だ。
しかし呪いを受け、一度は人間となり、真実の愛を知ってしまった猫は、長く生きることができなかった。
呪いの体への負担だけではなく、愛する者を失った心労も重なったのだろう。
しかし彼らがいなくなった今でも、彼の屋敷には、美猫を抱えた彼と、消息不明の美しい令嬢、アーニャの肖像画が並んで飾られているという。