作戦実行と旦那様の後悔
アーニャが作戦を実行に移したのは魔女と面会した数日後の真夜中だった。
これで明朝に誰かがアーニャを発見して、医師に死んでいると認識させられれば、あとは次に目覚めた時に、人間の姿を維持することと、慌てて体を起こさないことに気を付けるだけでいい。
仮死状態になることで、人間から猫の姿に戻ってしまうのではないかという心配もあったけれど、この薬なら姿もその状態で止まってしまうから大丈夫だとのことだった。
魔女との面会の時点でかなり弱っていることは理解していたし、これ以上、人間フリを続けるのは辛い。
何より毎日心配して遠慮がちに自分の枕もとに来てくれる旦那様に、これ以上心配をかけたくはなかった。
だからアーニャは旦那様と一緒にいたい気持ちに蓋をして、別れる覚悟を決めたのだ。
アーニャが魔女からもらった薬を飲むと、突然体の力が抜け、やがては重たくなり動けなくなった。
これでは助けを呼ぶこともできないが、冷たくなった自分を発見してもらうのが目的なのだから、自ら人を呼ぶのはおかしい。
自然に見せるのなら、様子を見に来た者が見つけるのがいいだろう。
そんなことを考えているうちに、やがて眠気が襲ってきた。
そして体が冷えていくのを感じる。
だんだんと時間の感覚も失われていったため、薬を飲んでからどのくらい経ったかわからない。
目を開けることはできないので何も視界には映らず真っ暗な世界が広がっているし、周囲の音はぼんやり聞こえているけれど、誰がいて何を話しているのかは理解できない。
けれど騒がしくなってきたようなので、朝が来て、きっとアーニャの異変に誰かが気がついたのだろう。
しばらくして旦那様らしき声が聞こえて安心したアーニャは、そのまま意識を失うのだった。
アーニャの周囲では、様子を見に来た者が、様子がおかしいとすぐに旦那様に伝えたことで、すぐに医師が駆けつけていた。
呼ばれた医師はすぐに診察したが、脈がなく、確認のため触れている腕が、その間にもどんどんと冷えていくことを感じながら、対処する術はないと首を横に振った。
「残念ながらすでに……」
「そう、ですか……。最近はずっと優れない様子だったんです。休めば治ると……。もっと早く診てもらっていたら治療できたものだったのでしょうか」
さすがに終日アーニャを見ているわけにはいかなかったし、それではアーニャが気を使って休めないだろう。
けれどこうなってしまったら目を離さなければと考えてしまう。
「それは何とも申し上げられません。そもそも治療できる病だったかも判りかねます。特別な症状が出ておりませんから、衰弱されてのことと思います」
「わかりました……」
そう言って頭を下げた旦那様に、医師はアーニャの最期を伝えた。
少しやつれているように見えるが、痛みや苦しみを伴った様子はない。
おそらく眠るように逝っただろうと。
「では、私はこれで」
ここで医師にできることはない。
最期を伝えた家族の感傷に付き合うのも違う。
それに他人のいない所でゆっくり別れの時間を過ごした方がいいだろう。
そう考えた医師は、アーニャを呆然と見ている旦那様をそのままに、もう一度頭を下げて静かに部屋を出ていくのだった。
同席していた使用人たちも、旦那様とアーニャを二人にした方がいいと配慮して、医師と共に部屋を出た。
静かになった部屋で、体を動かす様子のないアーニャの髪を撫でながら、旦那様は冷たくなった彼女に、静かに声をかけた。
「ここに来る前の記憶がないと言っていましたね。もしかして、私と出会う前から病気を患っていたのでしょうか。ずっと一緒にいながら、なぜ気がついてあげられなかったのか。あなたの記憶を戻してあげることも、ご家族と対面させてあげることもできないまま、あなたを逝かせてしまった」
この幸せは永遠のものになる、だから家族に会わせるのは今でなくてもいいだろう。
もしかしたら家族とだってうまくいっていなかったかもしれないし、もうそのような親族はいないのかもしれない。
本当に家族なら、アーニャを探しているという声がどこからともなく聞こえてきてもおかしくないのにそんな話は聞こえなかった。
街で人々の声に耳を傾けても噂にもなっていない。
他の貴族たちだって、アーニャの存在を気にしていたのだから、もしアーニャの素性が分かれば自分のところに知らせてくるだろうが、それもない。
何よりアーニャが家族の事を気にする様子を見せていない。
だから何も問題ないはずだ。
そんな考えが先だって、実際に彼女の記憶に関する手掛かりを探すことができなかった。
記憶が戻った時、アーニャが本来あるべき場所に戻ってしまうかもしれないと思ったからだ。
「私は自分の満足のために、アーニャさんをここに縛り付けるために、あなたの家族を探すことも、一人で外出させることもさせなかった。今になって悔やまれます。どうしてあなたのことをもっと考えなかったのかと。苦労も不自由もさせていないつもりでしたが、本当にあなたのことを考えたらもう少しできることもあったはずなのに……」
自分が手放したくないばかりに、アーニャが家族と再会できる可能性を潰してしまった。
せめて、どこに家族がいるのかを調べておけば、その情報をアーニャに渡すかどうかはともかく、何か他にできることがあったかもしれない。
けれど、自分が知りたくなかったが故に、その事実から目をそらしてしまった。
アーニャの家族は自分だけでいいと思ったし、他の人間に気を止めるのも、本当はあまり良くは思っていなかった。
だからここに来て間もなく、アーニャが魔女と街を歩いて、人の住まいなどのある地域を歩いていたと聞いた時は、不安でいっぱいだった。
魔女は真剣にアーニャの家族を探している。
それなのに自分はアーニャを手元に置くため故意にそれを怠っていた。
そこに引け目を感じていたのだ。
アーニャのために動ける彼女に嫉妬していたのかもしれない。
本当は魔女にだって、あまり会ってはほしくなかったのだ。
しかしこうしてアーニャを失って、いかに自己中心的な考え方をしていたのか、身にしみてわかった。
しかし、アーニャはいない。
どんなに後悔しても手遅れなのだ。
彼は気を使って皆がこの部屋にいない事をありがたく思いながら、しばらく泣きくれたのだった。