暗殺者と作戦の決行
そうして作戦決行の日。
矢を持たされた彼は、ご令嬢に指定された男の後をつけていた。
対象のご令嬢がいつ現れるかわからないからだ。
そもそも、狩りをしている男の前に、本当に女性など飛び出してくるのか。
こんな森の中をふらふらと歩いているご令嬢など聞いたことがない。
依頼内容について少々半信半疑であったが、このような依頼を出してくるようなご令嬢なのだから、きっと対象の男の前にその相手を引きずり出す算段があってのことだろう。
前金はもらっているし仕事はきっちりするつもりだ。
そんなこととは知らない男性は馬に乗り、数人の従者を連れて森での狩りを楽しんでいた。
男が馬の上から矢を射て、その矢が当たると馬を止める。
だが本人が下りることはなく、従者が代わりに獲物を取りに行き、引きずって戻ってくる。
馬上の男は高位の貴族なのだろう。
馬も素晴らしいが、本人の腕も素晴らしい。
さぞ良い師についていたに違いない。
同じ弓を扱う者として、彼の腕が本物なことは見ていればわかった。
一度競ってみたいと思うが、残念ながら狙うのは彼ではない。
そうして対象を付け回していると二つの影が現れた。
彼は迷いなく、狩りをしている男の前に飛び出し、馬を前に怯んだ相手に向けて矢を放った。
そう、雇われた暗殺者は間違いなく言われた通り、その矢を彼の前に飛び出した女性らしきものに当てたのだ。
少なくとも当たったと思しきものが、矢が刺さった状態のまま茂みの中に逃げ込んだのは確認した。
指示は矢を当てることであって、死体や証拠の首を持ち帰ることではない。
だから彼は、その矢に毒が仕込まれていると聞いていたこともあり、すぐにその場を後にした。
自分が暗殺者として捕まるわけにはいかないからだ。
実は前金を多くもらっていたのは、後からお金を受け取りに行くとリスクが大きい仕事だと判断したからで、ご令嬢は後日、成功報酬も払うと言っていたが、彼は初めからそれを受け取らず姿を消すつもりだった。
そして彼はそれを実行したのだ。
一度殺人を行うと、ほとぼりが冷めるまで他の街で生活する。
暗殺者はそんな流浪の生活をしていた。
だから彼はいつもと同じように、仕事を終えると姿を隠したのだった。
「今のは何だ?」
嘶いた馬の後ろにいた従者が、自分の馬を止めてつぶやくと、前にいる主の男は馬をなだめようと手綱を器用に扱いながら言った。
「この通り、馬が驚いていたのだから、この前に何かがいたのは間違いないだろう」
そう言いながらどうにか馬を収めた彼は、改めて先ほど何かいたであろう場所を見て、目を細めた。
「……それに少しだが血痕のようなものが地面に残っている」
主がそう言うので別の従者は馬を降り、確認することにした。
馬の前に立たないようにしながら地面を見ると、確かにそこには血痕があり、その周辺には乱れた足跡がある。
「獣か何かでしょうか。馬にはついていませんから、おそらく強い獣が、別の獣を追いたてたのでしょう。周囲に人の気配はありませんし」
弱い獣が逃げるためにここに出たところ、この馬に遭遇し、慌てて逃げたのかもしれない。
その仮説を従者が伝えると、主の男はうなずいた。
「そうだな。馬の前に現れた影は二つあった。ずいぶんと不自然な動きだったし見間違いかと思ったが、そうだとすれば合点がいく」
男が見た影や二つ。
だからきっと、その獣が追い追われる間に、偶然この場所に来て、自分たちの馬に遭遇。
馬を避けるため両者は退散したが、どちらか片方が手負いになった。
けれど、どちらも逃げるだけの力を残していた。
そしてここに人間がいるので獣たちは警戒してこの場から離れたか様子を伺っている。
そういうことではないか。
「となると、その強い獣がまだ辺りにいるやもしれません。一度離れた方がいいでしょう」
彼らがこの場所を狩り場に選んだのは、そのような強い獣への遭遇率が低いとされているからなのだが、偶然とはいえ、この場所にそのような獣が出現しまった可能性がある。
もし誰かがその姿を捉えていて、弱い獣同士の争いだったのなら気にする必要はないが、残念ながら見えたのは影のような物だけで、それを特定できるものではない。
その仮説が正しければ、弱い獣はともかく、強い獣も近くにいることになる。
つまりこの場は危険ということだ。
「そうだな。目に見えぬものを相手にするのは得策ではない。相手が強い可能性があるのならなおさらだ。場所を変えよう」
彼はそういうと、従者の提案を受け入れ、落ち着いた馬を操り移動を始めた。
従者も馬に戻るとすぐ彼の後に続く。
そうして彼らは遠くへと姿を消したのだった。
あの時、馬の前に飛び出した影は二つだった。
一つの影が飛び出した時、その影の主は馬の存在にも矢の存在にも気が付いていなかった。
そして後から来たもう一つの影は、前にいたものが、このままでは馬に衝突するかもしれないと慌てて飛び出し、そして前にいたものを突き飛ばしたのだ。
馬は急な動きをする二つのものに驚き嘶く。
突き飛ばされた方は馬に踏まれないようにと慌てて茂みに隠れると、そこに人間の姿を察知し、見つからないよう逃げていった。
一方かばった方は、馬に踏まれることがなかった代わりに矢を受けていた。
友人をかばって負傷したのだ。
けれど痛みのなかった彼女は、まず人間から姿を隠そうと友人とは反対の茂みに避難する。
友人が逃げたのを確認した彼女は、矢を受けたことに気がつき途方にくれた。
人間がここにいる以上、仲間に助けを求めることはできない。
それならばとりあえず落ち着くまでここに隠れているしかない。
もし移動して追いかけられるようなことになっては困る。
自分たちは人間に見つかってはいけない種族なのだ。
実はそれらは人間に姿を似せた二つの魔猫で、彼らは友人だった。
きっと友人も自分が馬に踏まれていないことを確認したから帰ったのだろう。
彼女はそう信じていた。
それに相手をかばった事は後悔していない。
これでよかったのだ。
しかしこのタイミングで矢を受けたのは想定外だった。
矢は馬上から放たれたものではない。
第三者によって射られたものだ。
そんな矢に当たるなど、誰が想像しただろうか。
見えてはいないが、矢の当たった感触、その時の痛みはある。
だんだん痛みが引いているが、これはもしかしたら自分の最期の時が近いからかもしれない。
そんなことを思いながら、彼女は馬に乗る人間達がいなくなるのを、ただ息を殺して待つのだった。