悪い虫の噂
アーニャが旦那様と街で買い物をしたことは、すぐに彼を懇意にしているご令嬢の耳に入った。
話によれば二人は大層仲睦まじい様子であったそうで、手を繋いで公園を歩き、街の中にある貴族のいかないような服屋に入っていったかと思えば、ご令嬢のためにそこで服を購入したらしく、出てきた時、ご令嬢の衣装は変わっていたという。
他にもカフェでお茶をしている姿も目撃されていて、珍しい美男美女は大変目立っていたそうだ。
そしてこの噂が流れるのと同じ頃、実は彼の家に最近女性が滞在しているという話が聞こえてくるようになった。
今までひっそりと暮らしていた彼が、急に商人や仕立て屋を呼ぶようになり、その際、遠目に見せられた美女のための品を用意してほしいと注文されるのだという。
その女性が大層美しいこともあり、彼らは喜んで見合う品を用意し、相応の報酬を得ていた。
噂については、他の貴族からの仕事を受けていないのに羽振りがいい事を不審に思って、取り引き先となっている別の貴族が調べた結果、彼との取り引きとその女性の存在が明らかになったというだけで、彼らが言いふらしたりした訳ではない。
ただ、あまりにも驚きの結果だった事もあり、調査をした貴族が雑談のネタにしたことから話が広がってしまっただけである。
何より彼本人が隠してもいない情報である。
だから噂を止める者はいない。
広がり始めればあっという間に話題となった。
そして彼はそのご令嬢を懇意にしており、将来の伴侶とするのではないかとまで言われるようになった。
そして彼はあまり社交を好まないため、この噂がそこまで広がっているとは思っていなかったし、アーニャはそもそも貴族どころか人間の世界とはあまり関わりのないところで生きてきたので、そのようなことになるとは考えていなかった。
だから何も知らない二人は、いつも通り屋敷の中で穏やかな時を過ごしていた。
呪いの矢の作戦を実行できない間に、彼に悪い虫がついてしまったのだ。
その噂を聞いたご令嬢は早速彼の家へと向かった。
当然招待などされていないので中に入ることは許されないが、そんな女性は彼と生活を共にしているという話なので、まずは敵情視察をすることにしたのだ。
そうして勢いで押し掛けてきたご令嬢が生垣の隙間からテラスを見れば、そこには彼と、向かいに座る美しい令嬢がいた。
そんな二人を目の当たりにしたご令嬢は、あの噂が本当であることに衝撃を受けながらも、女性の美しさに思わず目を奪われた。
確かに噂になるだけの美人であることを認めざるを得ない。
「ねえ、あの女は誰?」
ご令嬢が思わずそう口に出すと、一緒についてきた護衛兼使用人の男性も首を傾げた。
「見たことございませんね。貴族でしょうか?ですが夜会に参加していればわかるはずですから、この国の方ではない可能性も……」
これだけの美女だ。
どこか別の国から来た貴族と言われた方が納得できる。
森で見つけた記憶喪失の女性などという情報は外には漏れていないので、彼らはアーニャを平民とは考えていない。
彼らの持つ平民のイメージが、彼女の見た目とは結びつかないからだ。
そもそも平民にこのような美女がいるとは考えにくい。
平民の女性は働いている事もあり、貴族のご令嬢とは違って肌の色が日に焼けて少し暗いし、手荒れなどをしているのが大半だ。
けれど彼女にその様子は見られない。
外に座る彼女は透き通るような白く美しい肌をしているのが遠目からでもはっきり分かる。
「確か滞在しているという話もあったわね。もしかしてお客様なのかしら?しばらく様子を見ましょう。国外の客人なら迂闊なことはできないわ」
「はい。仰る通りでございます。でしたら一度戻り、国外の貴族の資料に目を通されるのはいかがでしょう」
彼の提案にご令嬢はうなずいた。
確かに国内はともかく、国外の貴族の事は詳しくない。
自分が社交に出ても滅多に会うことがないからだ。
でもこの美しい女性、さすがに一目見れば忘れない。
これなら資料に絵姿があれば本人を特定できるだろう。
しかし仮に国外の貴族だったとしても、その女性をなぜ社交嫌いの彼が相手にしているのかが分からない。
しかも仲良く外出をし、彼は彼女のために多くの手を尽くしているという。
彼がそこまでするほどの大物なのか、それとも本当に彼がそういう気持ちを抱いている人物なのか、それがここで判断できないのは複雑だ。
しかしここで変に絡んで、仮に国際問題になど発展させてしまったら、それこそ取り返しがつかない。
国内なら権力を用いて押さえ込める可能性がある行動でも、国外に関係していると権力が役に立たない。
もし相手が自国より大国だった場合はなおさらだ。
さすがに慎重になるべきと、彼の向かいに座る女性を睨みながらも、ご令嬢はさすがに自制した。
「そうね。まずはあの女の素性を知るのが先だわ。他の者にも詳細の調査をさせましょう。二人の関係を明らかにしておきたいわ」
「かしこまりました」
そんなことが塀の外で起こっているとは知らないアーニャと旦那様は、庭でお茶の時間を過ごしてほどなく、二人仲良く室内へと戻っていくのだった。