旦那様と自己満足
買い物当日、旦那様もアーニャも軽装とはいえしっかりとした服を身にまとっていた。
そして移動は馬車。
その時点で魔女と外出した時と随分違っているけれど、それでも外に出るのはいい気分転換になりそうだと彼は期待する。
アーニャは外を歩くのかと思っていたので馬車に乗せられると知って驚いたが、最初に森で会った時も馬に乗せられたし、もしかしたら歩かせるのはよくないと思われているのかもしれない。
本当は自由に歩きまわりたいけれど、それは危険だと言われたら従うしかない。
アーニャとしては行動制限があっても屋敷の敷地外に出られるのは嬉しいし、今回は旦那様へのお礼を兼ねた外出なので、旦那さまが行きたいところに、好きな移動手段で行くべきだ。
馬車は街の高級品の並ぶ一等地に到着すると、ようやくそこで降りることを許された。
魔女と歩いた時も、自分で訪ねてきた時も、こんなところには来なかった。
きれいに並ぶ建物と、それぞれの店の入口に立って人の通る様子を伺っている警備、そして常に監視されている環境だからか人通りは少ない。
貴族が買い物に訪れる場所なので、警備が厳重なのだ。
それもあって、街の中にもかかわらず活気がなく、アーニャには何となくこの場所が物々しく殺風景に感じられた。
「どういった物が見たいですか?」
馬車を降りて辺りを見回しているアーニャに旦那様は尋ねた。
買い物に行くと伝えてあったので、すでにほしいものの一つや二つは考えているだろうと思ってのことだったが、そういった物欲の少ないアーニャは立ち止まったまま困ったといった表情をしている。
「どうと言われても何があるのかがわからないから答えられないわ。いつもなら歩いていたら声をかけられるから、その時に面白そうだと思ったら見てみようくらいにしか考えていなかったのよ」
魔女と街歩きをした時は庶民的で人通りの多い所を回ったし、賑やかだったので、人間が苦手なアーニャでも気を使わずに歩くことができた。
何より皆が、アーニャにあまり関心を持たずにいてくれた。
確かに人間からすれば見目麗しい姿なので、すれ違ってから振り返られたりすることはあったけれど、ここにいる警備の人間のように警戒されたり、監視されたりすることはしない。
だから気が楽だったのだ。
しかしこの場所は、周囲の視線が痛い。
正直に言っていいなら、早くこの場から立ち去りたいと思っている。
「なるほど。そういう場所の方がアーニャさんにはよいということですね」
「何だかこの場所は、人が少なくて怖いと感じるわ」
「そうですか。わかりました。では人の多いところに行ってみましょうか」
アーニャが不安を訴えると、彼はあっさり違うところに行こうと言った。
しかしまだ、馬車を降りてからどの店にも入っていないし、そもそも旦那様がこの場所で馬車を止めたのは、この周辺に用事があるからではないのか。
アーニャはそれを確認することにした。
「いいの?旦那様はこの場所でお買い物をしたかったんでしょう?」
アーニャがそう言うと、彼は首を横に振って笑顔で言った。
「アーニャさんの好まない場所に好むものがあるとは思えません。場所を変えましょう。馬車に乗りますか?おそらくあちらに向かえば、以前お二人が歩いた道に出られます」
彼が歩くべき方向を指したので、アーニャはその方向を見た。
確かに旦那様の示した先に多くの人がいるようで、行き交う人々が建物の隙間を横切る様子が見える。
それにたくさんの声もその方角から聞こえているので、旦那様の言葉に間違いはない。
「歩いていけるんだったら歩いたほうが早いと思うわ。それに歩いている最中に面白いものが見つかるかもしれないでしょう?そういうのを見るのが楽しい街歩きだと思うわ」
アーニャの視力で見える範囲に目的地はある。
それなら十分歩ける距離だし、そんなに短い距離を移動するために馬車を使うのは乗降にかかる時間の無駄だ。
アーニャが無意識にそう考えて先に歩きだしてしまったので、彼は慌てて彼女の後を追った。
貴族が道を歩いているのも目立つが、アーニャは特に美しく人も目を引く。
実はそれは彼にも言えることだが、彼自身にその自覚はあまりない。
だから彼は一人でふらっとどこかに行ってしまうのは危険だと判断したのだ。
これに驚いたのは御者と護衛たちで、とりあえずどこに行くかもわからない二人の後を護衛は追いかけ、御者は待機場所に残り、必要になったら迎えに行けるようその場で待機することになった。
付き人一同を驚かせた二人だったが、アーニャが人混みの方に進んでいくのを止めることはしない。
人のいる大きな通りでようやく立ち止まったため、そこで皆がアーニャに追いついた形だ。
「何かありましたか?」
「やっはり、このくらいの方が落ち着くわ」
人間より耳が良いため騒がしいのは苦手だ。
けれど、自分の存在をかき消してくれるこのくらいの雑音はあったほうがいい。
貴族の家は静かすぎるのだ。
「アーニャさん、行きたいところはありますか?」
「私は特にないけれど……」
「じゃあとりあえずあてはありませんが、見て回りましょう。そうだ、公園には行ってなかったですよね。美術や演奏の演目を調べてチケットを取っておけばよかったです。買い物を意識しすぎて考えが至りませんでしたね」
楽しませたいのなら自分がその場を用意すべきだった。
女性の好む外出は買い物だけではないはずだ。
自分が買い与えたものを身に着けてほしいと願うあまり、楽しませるための配慮がなかった。
彼がそう言うと、アーニャは首を横に振った。
「そんなことないわ。私が街のことをもっと知っていたら、行きたい場所も考えられると思うけど、よくわからないの。そうね、でも公園という所は行った記憶がないから、そこに行ってみたいわ」
普通に暮らしているがアーニャには記憶がない。
舞い上がって忘れていたけれど、そんな彼女に、何がどの場所にあるかなどわかるわけがない。
彼女はそもそもこの国の人間ではないかもしれないのだ。
アーニャに自分の気の利かなさを露呈してしまった。
彼は申し訳ないと思いながらも、それを表には出さず、アーニャの申し出に乗ることにした。
「わかりました。では公園に行きましょう。お気に召すかはわかりませんが、この季節はきれいな花がたくさん開いていて華やかで、それを見るだけで明るい気持ちになれます」
「そうなの?楽しみだわ!」
公園に行っても、間違いなく一番目を引く花はアーニャだ。
だから彼女が側にいれば自分は満足だが、それをアーニャに押し付ける訳にはいかない。
それに自分は魔女のようにアーニャを笑顔にしたいし、願わくば笑顔のアーニャに側にいてほしい。
でもそれも全て自分のためだ。
けれどそれを周囲に悟られる訳にはいかない。
そう考えてしまうのは、きっと貴族としてのプライドが高いせいだろう。
「では行きましょう。アーニャさんは疲れていませんか?」
「ええ、全然平気よ!」
こんな短距離で疲れることはない。
むしろ歩いて移動していいのなら嬉しい。
アーニャがそう期待して言うと、彼はすぐにそれを汲み取った。
先ほども馬車には見向きもせず歩きだした彼女だ。
馬車を呼ぶから少し待ってくださいというより、疲れていないなら歩きましょうと提案する方が喜ぶだろう。
「近いので歩いていきましょうか」
「それがいいわ!」
アーニャは彼の提案を受け入れた。
そしてどこに向かえばいいのかと尋ねる。
しかしここで方向を指し示したらまた一人でそちらに向かってしまうだろう。
そう考えた彼は、思いつきで彼女に手を差し出した。
するとアーニャは馬車に乗るわけでもないのにと不思議に思いながらも素直にその手を取る。
手を出されたらとりあえずその手を取るのがいいと、何となく思ったからだ。
それは単なる刷りこみなのだが、彼はそれをも利用した。
「では行きましょうか」
彼がアーニャの手を握って歩き出すと、アーニャはその動きに引かれて動き出す。
こうして彼は、そのままアーニャと手を繋いで公園に向かうことに成功したのだった。