言い回しと気遣い
貴族の男の家で寝泊まりするようになって数日を、どうにか切り抜けたアーニャは、そこから少しずつ男性との生活に慣れていった。
最初こそ恐れていたばあやも、自分を気にかけてくれているだけで、自分に害を及ぼすこともなく、時には味方になってくれると分かれば、恐怖の対象ではなくなったし、着替えを使用人たちが手伝いに来る毎日にも慣れた。
しかし、してもらうことが当たり前、という生活になれるのだけは良くないとアーニャは自分を戒める。
自分はいずれはここを離れて、森に帰って生活するのだ。
その時は魔猫のアーニャに戻るのだから、今まで一人でしていたことができなくなれば、途端に生活に困ることになるだろう。
そんな頃、旦那さまからアーニャに提案が出された。
「アーニャ、買い物に行かないか」
彼からすればそれはとても勇気のいることで、このような誘いをしてもいいのかと真剣に悩んでのことだったが、内容は単に買い物お伺いを立てているだけだ。
アーニャがなぜそんなに畏まっているのか分からないと不思議に思いながら聞き返す。
「買い物ですか?」
「生活に必要なものが足りない……ようなことにはならないようにしているつもりだが、本人でなければ気が付かないようなこともあるかと思うんだ」
気軽に誘うのはおこがましい。
だから買い物に連れ出すにもいい訳が必要だ。
本当は不足のものがあれば、すぐにばあや達が気がついて自分に報告してくるので、彼女に不自由をさせるようなことは、よほど特殊なものを必要としない限りはない。
けれどこうして尋ねれば、彼女が欲しいといいだせないものを答えてくれるかもしれないし、彼女が誘いに乗ってくれたら一緒に出かけることができる。
彼にはそんな思惑があったのだが、アーニャはそれを彼の気遣いと捉えて首を横に振った。
「いえ、皆さんに良くしてもらっているし、困っていることはないわ」
彼からすればその答えは想定内だ。
彼女はここに来て、何かをねだってきたことはない。
いくら身分が違っても、この家に来て生活していれば、この家がそれなりに裕福な暮らしをしていることくらい分かるはずだ。
今まで自分に寄ってきた女性たちは、自分の持つ地位や財産が目当てのものばかりで、少し丁寧にもてなせばすぐにボロを出すようなものばかりだった。
けれど彼女は違う。
記憶がないといっても会話ができないとか話が通じないような人ではない。
理解力もあるし、今までの暮らしとは違うようだが、ここでの暮らしに馴染もうという努力も見られる。
何より謙虚だ。
そんな彼女だからこそ、自分は彼女に何かをしたい、そう思ったのだ。
今度はそれを素直に伝えよう。
彼女には素直に向き合った方がいいのかもしれない。
本当は恥ずかしい気持ちが大きいのでその手は使いたくなかったけれど、彼女はそのように裏の言葉ばかりを気にする貴族社会の人間ではないようだから仕方がない。
「じゃあ、私からあなたに、何かプレゼントがしたい。どうせならアーニャさんの好きなものを贈りたいから、選んでくれないだろうか?」
彼が勇気を出して自分が贈り物をしたいと直球で言ったにもかかわらず、アーニャはそれを言葉を変える気遣いと捉えて恐縮する。
「あの、ここにおいてもらっているだけでも迷惑をかけているのに、さらにそこまでしてもらうのは……」
「そんなことはない。それにこれは私のしたいことなんだ。だから是非一緒に外出を……」
アーニャの言葉を遮って旦那様が必死に言葉を重ねると、アーニャはようやく前向きな答えを出した。
「そうね、よくわからないけれど、とりあえず一緒に外出をするということよね。私、街を見て歩いてみたかったの。ここへ来てからほとんど外出できていないから……」
外出をしたのは魔女と外に出た時の一度だけ。
しかもその時は例のご令嬢の家を教えてもらって時間が終わってしまった。
それが目的だから別に構わないのだが、一人なら毎日でも外出して教えてもらった家を見張っていたいくらいだ。
そうして相手を見つけることができたのなら、戻る手掛かりや、こんな物騒なものを作った理由などを問いただしたかった。
それに旦那さまの目的が買い物ではなく外出なら、時間を使うだけだ。
これ以上、物を与えられるのは、故意ではないとはいえ自分を偽って置いてもらっている身としては心苦しい。
気分転換のため、アーニャを買い物という名目で外に連れ出そうとしているのなら、なおのことだ。
アーニャ自身は気がついていなかったが、人間はあまり好きではないもののはずなのに、彼に対してアーニャは自然とそのような感情を持っていた。
「そうだな。そうだ。外出しよう!もしかしたら何か君の記憶に関する手がかりが得られるかもしれない。そうだ。そのついでに買い物に付き合ってくれたらいい」
「そういうことなら……」
彼はアーニャが外出はしたいと言ったので、彼はそれでもいいと答えることにした。
同時に、とりあえず自分と一緒に出かけることを拒絶されたわけではないらしいことに安堵する。
けれどそんな彼女に、言わなければならないことがある。
それが今すぐではないということだ。
「こうしてお誘いしておいて申し訳ないのですが、外出は私の仕事の休みの日までお待ちいただけますか」
彼がそう申し訳なさそうに言うと、アーニャは目を瞬かせて言った。
「それはもちろんかまわないわ。私より仕事が優先なのは当然だわ。それに他の予定があるわけではないもの。旦那様の都合のいい時にすればいいと思うわ」
ここにいる間、自分に自由な外出は許されていないし、人に会うにしても旦那さまの許可が必要な状態だ。
今はこの家でお世話になっているので、それに従うしかない。
だからアーニャの予定は旦那様が握っているに等しい。
なので自分はそこで汲まれた予定に従うだけだ。
アーニャはそう考えていたため、そちらの都合に合わせますと答えた。
しかし彼の方はそうではなかった。
外出したいと言いながらも、自分を立てて仕事を優先にするようにと言う彼女は、彼から見てば謙虚で理解のある女性に映っていた。
そしてまた、彼女への好感度が高くなる。
「わかりました。できるだけ早く外出できるようにします。その日の事を思えば仕事もはかどるというものです」
アーニャから良い返事を聞けた彼は、本当に仕事のペースを上げて、早々に外出の手はずを整えたのだった。