借りてきた猫
ばあやは客室の一つにアーニャを案内した。
ばあやがドアを開けた部屋を見たアーニャは、思わず足をすくませた。
部屋はばあやの言った通り整っていて、しかも自分が森で暮らしていた家より、この一室の方が豪華で広いのではないかと思うほどすばらしいものだったのだ。
「本当にここを使っていいの?私、こんなに広い部屋を一人で使うのは初めてよ」
入室することに躊躇しながらそう言うと、ばあやは振り返って首を盾に振った。
「はい。この一室をお嬢様がお一人でお使いくださって構いません。まずはお茶をご用意いたしましょう」
「ええ。ありがとう」
魔女が力のある人間だといった彼をさらに押さえこむことの可能なばあやから、早く入るよう促されれば断ることはできない。
アーニャはお礼を言いながら恐る恐る中に足を踏み入れたのだった。
ばあやはアーニャをテーブルのある席に誘導すると、先ほどの申し出通りお茶の用意をすると立ち去った。
しばらくアーニャが無言で座って待っていると、ティーポットと焼き菓子を持ったばあやがやってきて、アーニャの前にティーカップを置いた。
そしてそこに湯気の立つほど熱い紅茶を入れてからをポットをテーブルに置いて、アーニャから見てカップの奥にお菓子も置いた。
そして運ぶのに使ったトレイを片付けて戻ってくると、まだお茶にも菓子にも手を付けていない様子を見て、食べるよう勧めてから尋ねた。
「失礼ながら、お嬢様はどのような経緯でこちらにいらしたのでしょう」
今まで人間と接していてそんな呼ばれ方をしたことはないが、魔女が自分をこの姿に変化させられる現況を作った人間をそう呼んでいたのを思い出し、今ここでそう呼ばれる可能性があるのは自分だけなのだから返事をしておこうと、アーニャは口を開いた。
「森で声をかけられたのよ」
「森で、でございますか」
ばあやが聞き直してきたので、アーニャはうなずいた。
そして深く追求される前に、設定内容を自分から話してしまおうと決める。
「ええ。私、気がついたら森にいて、彷徨っているところをとある女性に助けられたの。それで、その人と森を抜けて街に行こうとしていたのよ。そしたらさっきの……旦那様が、自分が保護すると言って、ここに連れてこられたわ」
アーニャがそう話すと、ばあやはそれ以上詮索しては来なかった。
そしてアーニャを労う。
「あらまあ。それは大変な一日でしたね……」
「本当にそうね」
アーニャがそうつぶやいてため息をついたところで、部屋にノックの音が響いた。
「お嬢様、お着替えをご用意いたしました」
ばあやが対応しますとドアを開けると、そこには女性の使用人が並んでいた。
そして、アーニャの方を見て反応をうかがっている。
「ありがとう」
とりあえず自分のために用意してくれたというのだから感謝を伝えてみると、彼女たちは部屋の中に入ってきてドアを閉めた。
「ではお召し替えを……」
使用人の一人がアーニャの服に手を伸ばしてきたため、アーニャは思わず身を引いた。
「一人でできるわ」
「ですが……」
彼女たちからすれば予想外の反応だったらしい。
戸惑った様子で顔を見合わせている。
アーニャは逆に人に服を脱がされたり、手伝ってもらったりした経験がない。
裸で森にいた時は、魔女に言われるまで見られることを何とも思わなかったのに、ここにいると、人前で裸になることが恥ずかしいと感じるから不思議だ。
思わず彼女たちの言葉に拒否反応が出てしまったけれど、彼女たちを困らせたくて言ったわけではない。
「できなければこのままでもいいわ。私この服を気に入っているの」
アーニャがそう軽く口にすると、今度はばあやから指摘がきた。
「それはなりません。会食もございますから整えませんと」
「そうなの?食事をするだけなのに面倒なのね」
「他の方の目もございます。お召し替えいただきませんと、旦那様が困ります」
会食と聞いて旦那様と呼ばれていた彼と二人で食事をするだけなのだろうと思っていたが、どうやらその他の目があり、それを気にする必要があるらしい。
自分には理解ができないが、ばあやがそう言うのなら、そのしきたりに従うべきだろう。
「そういうものなのね。わかったわ。別に恩人を困らせたい訳ではないの。ただ、この服も私を助けてくれた人が貸してくれたものだから……」
人間の服の中で、この服が一番気に入っている。
だから捨てられたくはない。
本当はくれると言っていたものだが、借りていると言えば少なくとも捨てられる心配はないだろう。
この会食が終わったらすぐ、またこの服に着替えたいくらい、楽でいられたのだ。
「さようでしたか。ではそちらは洗濯してお返しいたしましょう。それならよろしいですか?」
「ええ。それなら……」
アーニャの言葉を受けて、ばあやが洗って返してくれるという。
着替えてこの服が捨てられないのならいい。
アーニャはそう自分を納得させることにした。
「では早速」
そのばあやの掛け声と同時に、女性の使用人の数人がアーニャの側に寄ってきた。
どうやらアーニャの着替えのために待機していたらしい。
それぞれが着替えに必要なものを抱えている。
「まずはお洋服からにいたしましょう。神はそのままでも充分お美しいですから後でも問題ないでしょう」
「かしこまりました」
使用人たちは揃って返事をする。
アーニャがその統率のとれた様子に驚いていると、今度はアーニャが指示を出される。
「ではお嬢様、こちらへ」
「わかったわ……」
立ち上がって連れていかれた先で、使用人に言われるがまま服を脱ぎ、用意されたものを順番に付けられていく。
貴族の服というのはとにかくパーツが多いらしい。
これもあれもと身に着いていくので、だんだん身につけているものが重たくなっていく。
そうして何重にも重ねて付けられた衣服がようやく完成すると、ばあやは少し外を気にしてから言った。
「まだ時間がありますね。髪も整えて差し上げて」
「かしこまりました」
「ではお嬢様、ドレッサーの前におかけください」
手で指し示された方向には鏡と机のような台が一緒になっている家具と、その前に置かれた背もたれのない椅子がある。
「そこに座ればいいの?」
「はい。鏡の方を向いてお座りください」
「わかったわ……」
結局アーニャはこの後も、ばあやに指導された使用人にされるがままになっていた。
アーニャの変化に使用人たちはますます腕が鳴るとやる気に満ち溢れていったが、アーニャは徐々に息苦しさを覚えていく。
けれどこのばあやに逆らえば何が起こるか分からない。
だから正に借りてきた猫のように大人しくしているしかないのだ。
「お連れになった時から思っていましたけど、なんとまあ、美しい!あの旦那様がお連れになったのもうなずけます」
そうして彼らに満足いくまでいじられたアーニャは、振り返って、彼らを見まわしてから言った。
「褒められたのかしら?ありがとう」
アーニャがそう言うと彼らもアーニャが満足してくれたと判断したようで、言葉ではなく笑みで返してきた。
「旦那様に声を掛けてまいります!お嬢様を目にした旦那様の反応が楽しみでございますよ」
ばあやまで少し浮かれたようにそう口にすると、旦那さまを呼びに行くと部屋を出て言った。
するとほどなく彼を連れたばあやが戻ってきた。
そして彼はアーニャをほめちぎると、やっぱり手を差し出してきた。
この仕草は何回もされたのでさすがに覚えた。
アーニャはその手に自分の手を重ね、彼に引かれるがまま立ち上がり部屋を出て歩いていくことになるのだった。