プロローグ:詰め込みすぎの山と谷
「この人、痴漢です!!!」
駅内ホームに響き渡る女性の悲鳴。ざわめく人だかりの中、悲鳴をあげた女性は、俺の腕を高々と掴み挙げたと同時に冒頭の言葉を叫んだ。
ふと、今朝方見たニュースを思い出した。タイトルはたしか、『増え続ける痴漢行為と痴漢冤罪』だったかな。
痴漢される人も気の毒だが、ただ電車に乗って行きたくもない会社に向かっていただけなのに、痴漢冤罪をふっかけられて人生を詰む方もかわいそうだな。なんて、他人事として受け取っていた。だって、他人事だし。
とか思ってた俺を全力で殴りたい。
「いや、いやいやいや!違いますよ、やってませんって!」
人生でここまで慌てふためく場面に出くわしたことはない。
俺は、幼少期から壁と同化するように息を潜めて社会を生きてきた。特に目立つことも無く、かといって、一匹狼のように尖っていこうともせず、山もなく谷もない、恥ずべく人生とも華やかな人生とも言えない、普通の人生を歩んできた。それを望んで生きてきた。
また、容姿が突出して良い訳でもないので、所謂、非モテの部類に入る。何が言いたいのかというと、女性とお付き合いしたことがない。つまりは、母以外の異性に腕を掴まれたのも初めて。
__ファーストタッチである。正直言って、こんな状況でなければ今すぐ女性の手に指を絡ませて柔らかさを堪能したい。そう、こんな状況でなければ。
もし時を遡れるのならば、軽く流すようにニュースを見ていた俺の頭を叩いて、今後一切電車に乗るなと伝えてやりたい。「行きたくもない会社に向かう先で痴漢冤罪に遭う哀れなサラリーマンの仲間入りを果たすことになるぞ」と。
「道開けてくださーい、警察でーす」
遠くからのんびりとした声が聞こえた。それがまた、俺を焦らせ地獄に叩き落とされた気分にした。
…警察、警察かぁ、まいったなこりゃ、会社とかどうしよ、これクビも有り得るよな?、やってもない犯罪を認めたような思考回路に陥っていくのが分かった。
二人の警察官が到着すると、女性は俺の腕を払うように放り投げて、警察官に駆け寄った。駆け寄られた警察官は人気俳優のようなイケメンで、なんだか振られたような気分になる。
「この人が…この人が私のお尻を触ったんです、!」
女性の証言に二人の警察官の目が鋭くなった。
「ほんとにやってないんです、冤罪ですよ。」
「でもねぇお兄さん、この女性もお尻触れたって言ってるよ?本当は触っちゃったんじゃないの?足とかでさ、」
二人のうちの一方、おじさん警察官の変に砕けた言葉遣いが癇に障る。
引き攣る顔の表情筋を抑え、できるだけ堂々と、潔白を表明するための努力をする。
イケメン警察官に擦り寄る女性に視線を移す。先程まで濡れていた目元はとうに枯れていて、冷めた目でこちらを睨んでいた。
パシャ、という歯切れのいい音と同時に、野次馬の方からフラッシュが飛んだ。野次馬たちに視線を移した。汚らわしいものを見るような目、スマホを構えてこちらを画面越しから覗く者、十分なほどに空気は冷たく、鋭い。
どうやら、ここに、俺の味方をしてくれる人はいないようだ。水を含んだ衣に、覆いかぶさられた気分になる。ただただ、重い。そんな中から逃げ出したかった。
「綺麗さっぱり、ここから消えたい。」
心から溢れ出た言葉だけが、ざわめく駅内ホームに消えていく。
俺を囲むように圧迫する見えない壁が、足を一歩、一歩と後ずさるように促す。
「……ぇ、?」
__突然の浮遊感。悲鳴混じりの大衆の声。警察官の焦ったような顔。差し出された手を握ることもできず、ただ、不思議な浮遊感に身を委ねた。
ああ、ここ、プラットホームだったな。そう気がついたのは、左から差し込んだ強い光と鉄の塊が視界に入ってから。
考えてみれば、今日が俺の人生の山であり、谷だったのかもしれない。平坦な人生を神様が哀れんで、最後の最後に詰めてきたんだと思う。ありがた迷惑な話だな。
強い衝撃が、俺を撃ち抜いた。
悲鳴が遠くから聞こえる。瞼が重たい。思ったより身体が痛くない。
__ああ、俺は死ぬのか。死ぬ間際、死にたくないだとか、もっと喚き散らすんだと思ってわ。なぜだか怖くはない。
あの大衆の前から、姿を消すことができるのが嬉しいのかもしれない。綺麗さっぱりというよりも、でろっでろな状態で消えるけど。そこは少し、心残りかな。
そういえば、あの女性はお尻を触られたと言ってたな。
何度も言うが、触ったのは俺じゃない。俺であるはずがないんだ。
なぜなら、
「俺は、おっぱい派だ。」
こんなことになるなら、部屋に隠してたエロ本、捨てときゃ良かった。