最終話
あいにく、翌日は朝から土砂降りの大雨だった。
流石にこの雨では無理だろう。
私はまた、本の整理を始めることにした。
珍しく、作業に集中したまま夜を迎えた私のところに、また一本の電話がかかってきた。
……。
…………。
「…………母さん。どうかしたの? 」
「耕ちゃん、どうかしたのじゃないでしょ! 何回も、何回も電話をかけているのに――」
「ああ……。ごめん、どうも山の奥だから、電波が届きにくいみたいなんだよ」
私はまた、明るい声で噓をついた。
「菜々子に聞いたけど、自炊しているなんて嘘でしょう? 包丁の持ち方知っているの? 怪我をしても、近くに病院もないようなところなのに――」
「大丈夫だよ……母さんも知ってるでしょ、僕は昔から、大抵のことはすぐできるようになるんだよ」
「そういうことじゃないのよ。そんなところじゃ、若い女の人もいないでしょう? 耕ちゃんはあんなにモテたのに、どうして結婚もしないで……。だってそうでしょ? そもそも奥さんがいたら、あなたがそんなことを――」
「母さん……僕が結婚しなくても、孫なら菜々子の子供が3人もいるじゃないか」
「ちがうの。耕ちゃん。孫の話をしてるんじゃないの。ママは、あなたが心配で――」
激しい風雨が、古い木の雨戸をガタガタと揺らす。
陰鬱な気持がふつふつと湧き上がり、頭の中に黒いモヤがかかっていくようだった。
何故、電話に出てしまったのだろう。
ずっと無視をしていたのに。
何故、電話に出てしまったのだろう。
ずっと、無視をしていたのに――。
「僕はね、今、幸せなんだよ、母さん」
だからもう黙ってくれ。
私は一人になりたいんだ。
僕は、一人になりたいんだ――。
「でもね、耕ちゃん、あなたはこっちに戻って来たほうがいいと思うの。だから――」
――ブツッ。
私は通話を切り、そのまま電源をオフにした。
イライラする。
せっかく手が届きそうだった何かを、私はまた見失ってしまった。
「クソッ!」
そう大声で吐き捨てて、私はゆかに叩きつけるようにスマホを投げ捨てた。
こんなもの、最初から持ってこなければよかったのだ。
風呂にでも入って、少し落ち着くとしよう。
家じゅうがガタガタと鳴り、電球がチカチカと点滅する。
激しい雷が鳴り響く中、私は湯船で膝を抱えながら、心を塗りつぶしていく闇を必死に追いやろうとした――。
***
翌日は快晴だった。
昨日の雨が緑を潤し、朝日に反射してキラキラと輝いている。
私は少し安堵して、そして、あの木のベンチへと向かった。
まだ早すぎるかもしれないと思ったが、少年はすでにそこに来ていた。
ベンチは雨でぬれているだろうに、気にした様子もなく腰を下ろして、その細い足をまたユラユラさせている。
「きみ――」
私が声をかけると、少年は振り返って嬉しそうに微笑んだ。
よかった。
よかった……。
私はまだ、絵を描くことができそうだ。
「濡れてしまったんじゃないのかい? 別の日でもいいんだよ」
そういうと、少年は小さくうなずいて「でも大丈夫」と明るく言った。
「ちょっと1回立ち上がって」
私は羽織ってきた上着を脱ぎ、折りたたんで少年の座っていた位置に置いた。
戸惑う少年をそこに座らせて、私は彼の前方の少し離れた位置に、持ってきた折り畳みの椅子を置き腰を下ろす。
雨露に輝く草花の中で、少しはにかんだ様子の少年。
私はそれを黙々と写し取った。
時折他愛もないことを話しながら、少しずつ少年の姿が描き出されていく。
ゆったりとした、時間が流れる。
そうだ、この絵には色を付けてみよう。
つゆ草の花冠と、それと同じ色の蝶の羽で、この美しい少年を飾ろう――……。
「ねえ、マキ」
変声前の澄んだ高い声で、少年はふと囁くように私に呼び掛けた。
「ねえ、マキ……ぼくは妖精がみえる人に、はじめて会ったんだ」
少年は続けて、何かを言いかけた。
「だからね、マキ、ぼくは――」
「妖精なんていないよ」
その瞬間――自分でもなぜそんなことを言ってしまったのか理解できないが――私の口からでた冷ややかな言葉に、少年はひどく衝撃を受けたような顔をした。
そして、絶望に満ちた表情のまま、彼は、その場から消えてしまった。
そう、消えてしまったのだ。
忽然と、まるで最初から存在していなかったかのように――……。
「きみ!?」
私は狼狽し、立ち上がって周囲を見回した。
どこにもいない。
確かにそこにいたはずなのに。
夢を見ていたのか?
このスケッチブックには、確かにあの美しい少年の姿がはっきりと描かれているのに――。
私は恐る恐る、彼の座っていたベンチに近づいた。
畳まれた私の上着の――私の上着のその上に、それはあった。
青く輝く羽をもつ、美しい外国の蝶の姿。
その瞬間、これから先もう私の人生に、幸せが訪れることはないのだと悟った。
「ユリシス――……」
震える声で蝶の名を呟き、その死骸を両手でつつみ膝をついて慟哭する。
私は心の在り処を、永遠に失ってしまったのだ。
「ユリシス」
または
「あるピーターパン症候群の男の話」 =終わり=
<蛇足>
■ユリシス
実在する蝶の名前。幸せの青い蝶。幸運のシンボル。
■「妖精なんていない」
『妖精なんていないよ』というたびに、どこかで妖精がひとり死んでいくんだよ――。
ピーターパンのセリフです。