第四話
その日以降も、少年は私の家をしばしば訪ねてくるようになり、様々なところに案内してくれた。
美しい花の咲く場所、珍しい色のキノコのありか、小鳥の巣、樹齢数百年の木と、苔むした岩々……。
それらを写し取っていくうちに、私の画力も瞬く間に向上していった。
スケッチブックはどんどん埋まっていき、間もなく新しいものを取り寄せなければならなくなった。
まさかそんなハイペースで絵を描くことになるとは思わなかったので、私は1冊しか購入してこなかったのだ。
嬉しい誤算ではあったが、これではまるで家の手入れがすすまないな。
一人夕食を食べながら、ぼーっとラジオを聞いていた時、スマホの着信音が鳴った。
「もしもし、お兄ちゃん? 」
「菜々子か。どうかしたのか? 」
「別にどうもしないけどー、そっちはどうなのかなーと思って」
「ああ、結構楽しくやってるよ」
「ほんとにぃ? 食事はどうしてるのよ? カップラーメンばっかり食べてんじゃないの? 」
「ハハハ、それがな、ちゃんと自炊してるんだよ」
「えぇ!? 嘘でしょ? 」
「本当だよ。近所の人たちが色々食材をくれるからさ。野菜とか、山菜とか、そうそう、この前は鹿の肉なんてもらったよ。ただ焼いて食べただけだけど、結構おいしかったなぁ」
「えー、じゃあほんとなんだ、信じられない。そういえば、お母さんにうちの子連れて遊びに来いって言ったんだって? 」
「ああ、うん」
「もう、心にもないこと言わないでよね。それからずっと、いつ行けるかって電話が来るのよ? こういうときばっかり声をかけてくるんだから。お母さん、お兄ちゃんはいつも大事なことは何も相談してこないって怒ってたけど、お母さんだって大事なことはいつもお兄ちゃんにしか相談しないじゃないって、あたし言ってやったわ」
「そんなこと言うなよ。母さんはお前に心配をかけたくないんだよ」
「そうなのかなぁ」
「そうだよ。お前には家庭もあるし――」
「そっか。まあ、そうかもねー。でも、お兄ちゃんも元気そうで安心したわ。前より声が明るくなったね。きっとすごくいい村なんだろうね。遊びに行くのが楽しみになったわ。自炊ができるようになったって、今度お母さんに伝えておくから、行ったらちゃんとふるまってよ? 」
わかったよ、と、笑いながら電話を終え、食事を再開する。
確かにここはいい村だ。
村人たちとの関係も良好で、時折ペットの絵などを描いてプレゼントするようにもなった。
しかし、あの美しい少年の素性は、いまも結局わからないままだった。
彼についてしつこく聞きまわり私まで村八分にあったりするのは、どう考えても得策ではない。
たびたび一緒に行動している場面を目撃されても、それについて咎めるわけでもなく普通に接してくれるのであれば、それ以上のことは求めないほうが賢明だろう。
それに思い上がりかもしれないが、あの少年にとっても、私が村を出ていかなければならないような事態にならないほうが良いだろう。こんな、年の離れた中年男でも、誰も友達がいないよりはいくらかマシに違いない。
食事を終え、本を分別する作業を開始する。
いくつかの部屋を1つにつなげ、床を板材に張り替えたら、壁全体をつくりつけの本棚にする計画だ。全てが自力でできるとは思わないが、こうして本を分別しながらそんな計画に思いをはせているだけでも楽しくなってくる。
本来であれば、絵を描くことより家の手入れを優先にするべきだが――。
手にした本の表紙には「妖精学」の文字があった。
この本を買ったのはいつだったか――確か、社会に出てすぐの頃だったように思う。
『親指姫』
『小人の靴屋』
『ルンペルシュティルツヒェン』
――……。
そう、慣れない仕事で疲れた帰り道、ふと遠い日に絵本で見た彼らの姿を思い出したくなり、その本を手にしたのだ。
結局私はまた作業を中断し、ページをめくるたびに現れる美しい挿絵を、食い入るように眺めはじめた。
***
数日後。
描いていた花の絵に、ふと思いつきで描き加えた妖精の姿に、金髪の少年はいつになく興奮した様子で、私の絵を褒めちぎった。
思えば、彼がこれまで案内してくれた場所、与えてくれた題材は、どれも妖精と相性がよさそうだった。
おそらく彼もかつての私のように、幻想の中に自らの心を置く存在なのだろう。
しかし――いつかは彼もまた――おそらく遠くない未来に、その儚い夢の王国から追い出される日が来るだろう。
その日から、私は全ての絵に妖精の姿を書き加えるようになった。
花の中に座る少女、カタツムリに乗った少年、蝶やトンボの翅をもつ彼らの姿に、少年は目を輝かせた。
絵を描きながら、私はもはやうろ覚えの妖精たちの物語を話して聞かせた。
彼は熱心にそれに聞き入り、そして何故か時折どこか懐かしそうな目で空を見上げた。
もしかすると彼には、母か、父か――あるいはその両方がいないのかもしれない。
村で他に外国人の姿を見かけることはなかった。
きっと、なんらかの事情で日本人の祖父母に引き取られ、この村で暮らすことになったのだろう。
頻繁に私を訪ねてくることを黙認されているようだが、それはもしかすると私への信頼ではなく、この子への関心のなさが理由かもしれない。
あまり良好ではなさそうな少年の家庭環境を思い、私は暗い気持ちになった。
「ねえ、きみ――よかったら、きみの絵を描いてもいいかな? 」
なんとなく呟いた私の言葉に、少年は目を丸くした。
無理もない。私はこの村に来てから今まで、人間の絵を描いたことはなかった。時折村人に頼まれることもあったが丁重にお断りし、代わりに彼らの大切な何かの絵を描いてやったりしていたのだから。
しかし、大きく何度も何度も頷く少年の姿に、私は暖かい気持ちになって微笑みかけた。
「場所は、最初に君と出会ったあの場所はどうかな」
あの木のベンチで、ユラユラと足を動かす君に羽を付けよう。
その淡い金色の髪に花の冠を描いたら、きっととても綺麗だ――。
心から嬉しそうに頷く少年に「じゃあ、明日天気が良かったらね」と約束し、その日は家に帰った。