第三話
「おじさんの名前はね、牧本っていうんだよ。牧本 耕一郎。昨日この村に引っ越してきたんだ」
「マキ?」
「そう、牧本――いや、マキでいいか」
改めて少年の名を訊ねてみたが返事はなく、私はそれを知ることを諦めた。
しかし今日は平日。もう学校が始まっている時間ではないか?
そう思った私は、今度はそれについて訪ねてみた。
だが少年からの返事はなく、どこか人恋しそうな眼差しで私を見上げるばかりだった。
もしかしたら、いじめにでも合っているのかもしれない。
外国人の血を引いているのだろうその容姿は、このように寂れた山奥の村では、受け入れられづらいものかもしれない。
彼と一緒にいることで、引っ越し早々目をつけられてしまう可能性もある――私はそう警戒し彼を追い返すべきだと考えたが、ふと手にしたスケッチブックに目を落として、その考えを改めた。
そうだ……もう、誰の目も気にすることなどない。
少年の頃の自由を、取り戻しに来たんだろう……?
居心地が悪くなったなら、その時はまた引越せばいい――そう、そのためにこれまで稼いできたのだと思えば、あの虚ろな日々も決して無駄ではなかったと思えるじゃないか。
予備の鉛筆を削り――思えば鉛筆を使うのも久しぶりだ――少年の指した朽ち枝に這うカタツムリに視線を戻す。
妹の菜々子の息子が、学校で教わった「でんでんむし」の歌を披露しながら、本物のそれを見たことがないと漏らしたのに衝撃を受け、探してやったこともあった。
経験から、案外雨の日はコンクリートの壁にいることを知っていたので、ほどなく見つけて彼を喜ばせることができたが――やっぱり、自然の生き物は自然の中にいるほうが美しい。
クリーム色の、半透明の身体を伸ばして、近くの草の葉に乗り移ろうとしている。そんな小さな生き物の姿を、私は丁寧に写し取っていった。
少年は傍らで足をユラユラさせながら、無言でそれを覗き込んでいる。
描いているところと人に見られるのは好きでなかったが、不思議と彼の存在は気にならなかった。
30年ぶりにしては上出来な、しかし画家と名乗ったのは失敗だったかな……と思える出来栄えの絵が完成したころ、遠くから昼を告げるチャイムの音が響いてきた。
「ああ、もうお昼の時間だ。君もお腹がすいただろう? 今日はもう、家にお帰り」
私がそういうと、少年は少し不服そうに唇を尖らせて、うつむいた。
何も言わず、ただ細く白い足をユラユラさせる。
帰りたくないのだという気持ちは伝わったが、さすがに見ず知らずの子供を家に上げて食事までさせるわけにはいかない。
私は書きあがった絵をスケッチブックから剝がしとり、それを少年に手渡した。
「これを君にあげよう。おうちに帰って、ご両親にちゃんと話をして、許可をもらえたらまた遊びに来てもいいから」
その言葉に少年はパッと顔を上げ、両手で握った紙を胸元に押し付けるようにして立ち上がった。
心底嬉しそうな、無邪気な笑顔。
「ありがとう、マキ!」
そういって、少年は風の様に走り去っていった。
一人で帰して大丈夫だろうか……と、私は慌ててその後を追おうとしたが、すぐに姿を見失ってしまった。
まあ、来るときも一人で来たのだから、心配はいらないだろう。
もしかしたら、あのベンチは元々彼の隠れ家だったのかも知れない――私はそう考え、一人家に戻った。
鍋に湯を沸かし、大量に購入しておいたインスタントラーメンを1つ入れる。
いずれ庭に菜園でも作ろうと思うが、その前に料理も覚えなければならない。
このままでは、コンビニ弁当か外食ばかりだったころよりも不健康になってしまいそうだな……と、私は苦笑しながら、せめてもの気休めに乾燥野菜を投入した。
出来上がったそれを鍋のまま食卓へ運び、わりばしを割る。
窓の外を眺めていると、いつのまにか曇った空からしとしとと雨が降り始め、ほどなく激しい豪雨となった。
少年はもう家に戻っただろうか?
いい時間に解散したという思いと、万が一まだ家に戻っていなかったら――という心配が、同時に湧き上がる。
とはいえ、もはや私にできることは何もなく、またこの雨では少年が再び訪ねてくることもないだろうと思い、午後は部屋の片づけに専念することとした。
古いCDプレイヤーに、学生の頃に買ったお気に入りのディスクをセットする。幸い、劣化はしていないようだ。
中に何が入っているかも書いていない段ボールを、適当に開けていく。
仕事としては最悪の段取りだろうが、かえって私は楽しかった。
そして出てきた本に意識を奪われて、その日はあっという間に過ぎていった。
***
翌日。
再び彼はやってきた。というより、私より先に昨日のベンチに座っていた。
やはり、ここは彼の場所だったのだな――と、私は少々申し訳なさを感じながら、隣に腰を下ろす。
「おはよう」
「おはよう、マキ」
明るい笑顔が、私に応える。
「ここへ来ること、ちゃんと伝えてきたのかい?」
「うん」
「そうか――じゃあ、今日はおじさんに村を案内してくれないかな? 君が好きな景色の場所へ。そうしたら、そこで絵を描こう」
「わかった」
そう提案したのは、彼の素性を探ろうという目的でもあったのだが、意外にも彼は快諾し、私を急かしながら歩き始めた。
途中、幾人かの村人とすれ違う。
「あら、牧本さん、おはよう」
「絵を描きに行くのかい? こんど見せてもらいたいなあ」
そんな声をかけられたが、誰も少年には声をかけない。
それどころか、目を合わせる様子もないのを見て、私は思った。
やはり、彼は村でうまくいっていないのだ。これが村八分というものなのだろうか――。
少々の不快感を覚えながらも、私は少年に案内されるままついていった。
たどり着いたのは、森の中の小さな池。大きな水たまり程度の大きさだが、青く澄んだ水を湛えたそこは、確かに神秘的で美しかった。
倒れた木の幹に腰を下ろし、少年はまた足をユラユラさせる。
「なかなか難しい題材を選ぶなあ」
そういうと、彼はピョンと丸太から飛び降りて、池の中の一点を指した。
水没した細い木の枝に、一匹のヤゴがとまっている。
大人になってから見るとなかなかグロテスクなものだな……と思いながら、私は少年を振り返った。
「これを描いて欲しいの?」
その言葉に、大きく頷く。
「綺麗でしょ?」
確かに子供の頃は、こういったものが綺麗に見えたものだ。
醜いヤゴが羽化し、立派なトンボとなって飛んでいく姿を思い描きながら、私はそれを描きはじめた。