第二話
翌朝――。
小鳥のさえずりに目を覚ます。
まだ夜が明けたばかりという時刻だったが、不思議と爽快な目覚めだった。
当然近くにコンビニもないので、やかんに湯を沸かす。
インスタントコーヒーの粉を見るのも、もう十数年ぶりだ。
コーヒーの香りと、木枠にはめ込まれた薄いガラスの向こうから差し込む光にホッと息をつく。
こんな朝は、何十年ぶりだろうか。
もうはっきりとは思いだすこともできない幼い日の残像が、そのとき微かに、ほんの一瞬だけ瞼の裏を掠めた気がした。
今日はいい天気だ。
時間はいくらでもある。
家の手入れなど後回しにして、少し外に出てみよう。
新品のスケッチブックを手に、生まれて初めて買った登山靴を履いて散策を始める。
山の奥まで入ろうというわけではないが、こういった自然豊かな場所を歩くのに、どんな靴が適しているのかがわからなかったからだ。
どこまでが庭で、どこからが山なのかもはっきりしない。
他人の姿などどこにもなく、誰の声も聞こえない。
こんな場所があったのだな――と、しみじみと思う。
私はずっと、こんな場所に来たかったのだ。
死後、白骨になるまで誰にも発見されないのが、僕の理想の生き方だ――。
そんなことを言い捨てて、母を悲しませたこともあった。結局、ある年頃独特の厭世観だったのだと笑い話で済まされたその思いは、実は、今も何1つ変わっていない。
そう、社会に出て家を出て……そうして一人になるまでは、私は家族の前でだけは確かに素直で正直な子供だったのだ。
彼らだけが本当の私を見、そして結局、私を知ろうとはしなかった。
仕事一筋でほとんど家にも帰らず、家庭を顧みることなど無いように見えた父が、酒に酔って暴れながら、叶わなかった夢を語ったことがあった。
俺は大工になりたかった――。
そんな意外な慟哭を聞きながら、まだ幼かった私が感じたものは、たとえ一流企業に入って成功しても、夢を叶えることができなかった人間はこんなに哀れなものなのか。ということだった。
祖父の口利きで大企業に入り、順調に出世して――社会的な地位を得ても、満たされない思いを叫び、家族の前で醜態を晒す。
その姿が何処か恐ろしくて、自分はこうはなるまいと心に決め――しかし、まるで父の粗悪な模倣品のように、結局、私は生きてきたのだった。
***
木々の間の細い道を進むと、ふと少し開けた場所があった。
古い木のベンチが1つあり、名前も知らない平たいキノコが、その側面に複数生えていた。
柔らかな下草と、可憐な野の花があたりを囲み、柔らかな木漏れ日が無数に降り注いでいる。
その幻想的な美しさに思わず写真を取ろうとして、スマホを家に置いてきたことを思い出した。
そうだ、私にはこれがあるんだ――。
さっそくベンチに腰を下ろして、私はスケッチブックを開いた。
最初の一筆が、なかなか描き出せない。
それもそうだ。私が学校の授業や宿題以外で最後に絵を描いたのは、もう30年以上も前のことなのだから。
意を決して、線を引く。
気に入らない。
消しゴムのカスばかりが溜まっていくようだ。
そうだ……最初から風景を書こうとしたのが間違いなのかもしれない。
もっと小さな――そう、この白い花を、最初に描いてみることにしよう。
視線を落としてみると、草花の上を歩く小さな虫たちの姿が見えた。
蟻、バッタ、テントウムシ……。
ふと、懐かしい気持ちになり目を細める。
カマキリの絵を描いたのが褒められて、しばらく学校に飾られていたこともあった。アゲハチョウが羽化するまでの詳細な絵日記が大きな賞をもらい、校外に展示されているそれを、母と共に誇らしげに見に行ったこともあった。
あの頃、私は確かに幸せな子供だったのだ――……いつまでも、そのままであり続けたかったほどに。
ある日、学校が終わって家に帰ると、私の心のよりどころであった秘密の「自由帳」が、学習机の上に広げられていた。
「耕ちゃんッ、なぜこんな絵を描くの――ッ?!」
母はそう叫び、泣いていた。
担任の教師から電話で呼び出され、私の精神状態に問題があるのではという話をされたらしい。
私は怒りを覚えた。
心の奥の大切なものを、自分だけの大切な何かを、ずたずたに引き裂かれた思いだった。
私はただ、自分が美しいと思うものを描いていただけだ。
私が私であり続けるために、それは必要なものだったのに――。
ボキ……と、鉛筆が折れる音で我に返った。
気が付くと、いつのまにか隣に小さな男の子が腰を下ろしていた。
小学生――10歳ぐらいだろうか。少し長めの淡い金髪が、そよ風にふわりと揺れた。
驚いて思わず飛びのいた私を見上げ、少年は私に話しかけた。
「おじさん、とっても絵が上手だね」
あんなに鬱屈した気分に囚われていたのに、確かに私のスケッチブックには、儚く繊細な一凛の花の絵が描かれていた。
小さな羽虫が、その葉の上にとまっている様子まで描いてある。
本当に自分が描いたのか疑わしくも思えたが、確かに私は、絵を描いている間は一種異様な集中力を持って、周りが見えなくなる癖があった。
それにしても、この少年はどこからきたのだろうか。
観光地でもないこの村にいるのだから、おそらくは村人の子か、その縁者なのだろう。
白い肌と、柔らかな金髪。サファイアのような青い瞳は、どう見ても日本人のものではない。
しかし流暢な日本語で、少年は気さくに私に話しかけた。
「ねえ、今度はあれを描いて」
朽ち枝の上を這うカタツムリを指して、少年は言った。
冷静さを取り戻した私は、小さく溜め息をつき、少年に問うた。
「きみ、どこの子? 名前は何ていうの? 」
しかし、少年は答えない。
そういえば、近頃は防犯意識の高まりから、登下校中名札を裏返しにしているという話を聞いたことがある。安全ピンをつけ外さなくても、簡単に裏返しにすることができる商品を開発した企業のエピソードを、いつだかテレビで見たことがあった。
今はそんな時代なのだ。
知らない人に名前を問われたら、答えなくても当然か。
私は気を取り直して、まず自分から名乗ることにした。