茜の逃避行
別に、暗くなるような時間じゃなかった。まだ眩しい太陽は俺達の頭の天辺を照らしていたし、影も短かったから。
別に、特別奥に行ったわけじゃなかった。近所の山は子供の遊び場だったから大体の地形は分かるし、大人達が目印に張っていたロープの先にも行ってない。
ホントにいつも通り、十人ちょっとで集まって秘密基地作ってみたり、木登りしたりしてただけ。
本当に、本当にそれだけだったんだ。
次は何する?って皆で輪になって話をしてたら突然山奥の方からリンって音がして、えっ?って呆けてたらもう一回。綺麗な鈴の音が聞こえた。
一人が「飼い猫でも迷ってるのかな?」そう言って音の方へと進んでく。いないなーなんて言ってたそいつは、え?って言って顔を上げたあと、消えた。
一瞬、何が起こったのか分かんなかった。
「に、逃げろ!!」
ハッと我に返って慌てて声を上げてチビ達の手を引いて走り出す。なんかよくわかんなかったけど、とりあえず逃げなきゃいけないって思ったんだ。はぐれないようにしながら皆で山を駆け下りようと、走って、走って、走って。
助けようとなんてしてくれない無慈悲な太陽が見つめる中、いっぱい、走ったんだ。
ふいに、母さんがよく俺達に言っていた言葉を思い出した。
『《鈴の音が聞こえたならば十数えるうちに散り散り逃げよ》
これ、昔からここに伝わる言い伝えみたいなものなんだけどね。小さい頃から言い聞かせて、忘れないようにって何度も何度も話すことなんだよ。
いい? もし外で鈴の音が聞こえたなら、どこにいても走ってそこから逃げなさい。いつも地蔵盆の時に手を合わせるお地蔵様の所まで。絶対、いつものお地蔵様のところね?違うところにもお地蔵様が居られるかもしれないけど、そこに宿っておられる神様は全然違う御方だから。
鈴の音に捕まったらダメ。そして、その時神社に行ってもダメ。鈴の音が聞こえて、お地蔵様の所に行くまではいつもは真っ赤な神社の鳥居が真っ黒な筈だからね。その鳥居は危ないんだよ。色が違うってことは、鳥居のある場所も繋がる先も違うってことだから。
ゆう、母さんと約束して。どこで何してても絶対にこれ忘れちゃダメだからね?』
何回も何回も、しつこいくらい約束したんだ。ゆびきりして、絶対って念を押されて。ただの古い言い伝えだと思ったけど、母さんがあまりにも必死だったから、忘れない様に、約束破らないようにしようって思ってた。
でもごめん、母さん。約束、守れ…ない、みたい。ごめん、母さん。ごめんなさい。
一人、また一人と目の前から消えていく。もう残ってるのは俺を含めて四人だけだ。
内一人はもう腰を抜かしてしまっているし、あとの二人も疲れ果てて動けない。でもそんなのはお構い無しに鈴の音と落ち葉を踏む音は近付いてきてる。
カチカチと小さな音を鳴らす奥歯をぐっと噛み締めて、覚悟を決めた。動けない三人にいつもみたいににっと笑って顔を向ける。
「行ってくる! 逃げて、出来たら誰か呼んできて!」
なるべく明るい声で言って、すぐに走り出す。ダメって声と、伸びてくる腕が見えたけど、そんなの気にしていられない。
残ってる四人の中で一番走るのが速いのは俺だ。今動けるのも俺だけだ。何よりも俺は最年長者だ。年下の奴らを守る、お兄ちゃんなんだ。
あのまま動かなかったらそのまま消されてしまう。それじゃ、ダメなんだ。
ちりん、ちりんと音が近付いてくる。ガタガタ震える手をぎゅっと握ってお腹に力を入れて音に向かって叫んだ。
「おーにさんこーちら!! てーのなるほーおへ!!」
二回手を叩いて、音がこっちに近付いてくるのを確認したらすぐに全力で走り出す。とにかくいっぱいいっぱいで後ろを見ることなんて出来なかった。
夕日で赤く染まり始めた木と木の間を無我夢中で駆け抜ける。止まったらだめだ。なるべく時間を稼がないと!
三人の叫ぶ声も聞こえないくらい、躓いて転びそうになるのも気にならないくらい、ぐっと握り締めた手のひらから血が流れるのも気づかないくらい、無我夢中だった。
そうやって、もうどれくらいの時間を走っていただろうか。
「ぅあ!!」
フラフラの足で走っていたからか、それとも何かが地面に埋まっていたのか。かなり派手に転んでしまった。
両膝と右手を擦りむいてしまっている。左手はギリギリ無事だったけど、他のところからジンジンした痛みが血と一緒にじわじわ滲んで広がってった。
夕日が落ちてきててもう少し暗い。それが分かると途端に怖くなった。足がイタイ。
「っ……ふっ、うぇ……」
目の前が歪んで、ぼろぼろと涙が零れてくる。怖い、恐い、痛い。暗くなっていく周りに、余計に怖くなって身を強ばらせた、その時。
リン……
鈴ノ音ガ、聞コエタ。
ヒッと喉を引き攣らせ、ほぼ無意識に背後へと身を引く。地面を蹴って後退していたのに、トン、と軽い音を立てて途中で背中が何かにぶつかった。
しまったと思って慌てて振り返る。ここは山の中だ。だからそこら中に木が生い茂っている。背後にあった木に当たってしまったのだと、そう思った。
だけど。
振り返ってみて目に入った風景は、どこかオカシイ。木が目前に迫っている筈なのに、そうじゃなきゃダメなのに、何故か、木と背の間には30cmくらいの隙間がある。
「あ……」
声じゃない音が口から零れた。それをきっかけにガタガタと体が震え出す。指先が冷たくなって上手く力が入らない。
動けなかった。頭の上すぐからチリンと音がしたから。
逃げなきゃ。母さんと沢山約束しただろ。母さん必死だったじゃん。逃げろよ。逃げろ。
そう思うのに動けない。鈴の音が近くなって、もうダメだって分かった。
消されるのが怖くって、母さんとの約束を破るのが悲しくって、目をギュッと瞑って出てくる涙を閉じ込める。
小さくなる事も出来ないで、ガタガタ震えながら泣かないように身を固くしていたら、鈴の音と一緒にギュって抱き締められた。
え……?って思わず目を開けて、上を見てみるけど何も無い。でも、怖い鈴の音は頭の上から聞こえてる。多分暖かいのは鈴の音で追い掛けてきた何かだ。怖いはずの鈴の音のソレは、何でこんなに温かい……?
それの抱き締めてくる腕、みたいなのは温かくて。鈴の音のことなんか忘れちゃいそうになるけど、ふと俺はもうゲームオーバーだって思い出した。残した三人は逃げられたかな、とか、母さんとの約束、守りきれなかったな、とか。そんなこと思ったんだ。そしたら
“もう、大丈夫”
“よく、頑張ったね”
“もう、いいんだよ”
そんな声が聞こえた気がした。だから。別にそんなつもりじゃなかったのに、ついうっかり、泣いてしまった。ボロボロ止まんない涙はさっき無理矢理我慢した分まで溢れてくるみたいで。
「ご…めん、母さん。やくっ、そく、守れ…かった……!ごめん、母さん。ごめん、なさい……!」
チビ達みたいに大声上げて泣いて、叫んでたら、鈴の音に、たぶん慰められた。嫌な事とか、怖い事とか、辛い事があった時に父さんと母さんがしてくれるみたいに、ゆっくりポンポンと頭を撫でられる。その手が温かくて、父さんと母さんが恋しくなって、益々涙が止まらなくなった。
さんざん泣いて、疲れて涙が止まった頃、また声が聞こえて。
“おつかれさま、もうおやすみ”
そしたら急に眠くなって、温かい腕に縋り付いてそのままゆっくり目を閉じた。
結構長い時間泣いたはずなのに、未だに沈んでなかった夕日のおかしさに気づかないまま。
ほんとは、もっといろんな事話したかったし、一緒にやりたい事だって沢山あった。一緒に食べてみたいものもあったし、そういうのを挙げてたらキリがない。でも、もうなにもかも出来なくなってしまったから。
「父さん、母さん、ごめん、なさぃ……,,,,…………」
ほんとは、もっと、いっしょにいたかった
くたりと力の抜けた身体がふわりと風に舞って腕の中から消えるのを、鈴の音が見送っていた。




