足の長い女
書いているときは楽しかったのですが、読み直してみると、結構刺激的な箇所がありました。がっつりホラー要素が含まれているので、注意してください。
ブロック塀と剥げかけたアスファルトの狭間の僅かな土壌に健気に自生している白い花の存在に、狭い路地を夜に徘徊しふと月を見上げることに倦んだ少女が気付いてその頭を撫でていた。
佐倉木乃香は大学の帰りにコンビニに寄って軽食を買いビニル袋をぶら下げて歩いていたが、貧弱な街灯が一つあるだけの暗い路地に白い何かが佇んでいると気付いて立ち止まった。
しかしそれが白いワンピースを着た少女だということに気付いて安心すると共に、こんな時間に少女が出歩いていることに違和感を抱いた。
声をかけようかと一瞬だけ迷ったが関わり合いにならないのが最善だと判断し、そのまま通り過ぎようとした。
ところが少女は白い花を撫でながら何事か呟いていた。虫の声が聞こえてきそうなほど静かな夜なのに彼女の声は儚げで耳を澄まさなければ聞き取れなかった。
「おはよう。ね、おはよう。ね、ね、おはよう。おはようございます」
今は夜でありおはようという挨拶は間違っている、などという野暮ったいことは木乃香も考えなかった。むしろ花と会話しようとしている少女のあどけない様子に心が洗われる気さえした。これまで自分が抱えていた悩みが馬鹿らしく感じられて避けかけた視線をしっかりと彼女に向けた。花と会話しようとするなんて可愛らしいではないか。自分にもこんな時代があったんだろうかと一八歳の分際で考えてしまうほどに時の流れは早く若者は老いやすい。
おはようおはようという声には親しみが込められている。しかしその一方で少女の苛立ちを感じてしまうのは気のせいだろうか。言うまでもないことだが花はどんなに挨拶をしても返事をしない。大人なら誰でも知っている。だから花に挨拶をする大人はほとんどいない。子供は花がけして返事をしないということを知らない。返してくれるかもしれないという淡い期待を抱いているものかもしれない。木乃香は子供だった頃の自分の繊細な思いなど忘れてしまっていたからそう推察するしかない。
挨拶をしても返してくれないというのは純粋な子供ほどショックを受けるものだ。木乃香もそういう経験がある。小学校では先生に挨拶をすると必ず返してくれたのに中学校では生徒の挨拶を無視する教師がいた。タフな人間には大袈裟だと嗤われるかもしれないがそのときの木乃香は本当に気分が悪くなり授業に身が入らなかった。それからその教師の顔を見るのも嫌になった。たかが挨拶を返さなかったくらいで他人を嫌いになるなんて理不尽だと思うかもしれない。けれど木乃香は挨拶を返してくれない大人や、子供が見ている前で平然と赤信号を渡るような大人を見ていて何かどす黒い悪を感じてしまうのだから仕方ない。大袈裟だと言う人とは話もしたくなかった。
だから木乃香は花に向かって必死になって挨拶をしている少女の気持ちが少しだけ分かるような気がした。立ち止まるとまではいかないまでも歩を緩めて少女の挨拶の声を少しでも長く聞いていたかった。特に意味のあることではない。ただ大人になるにつれて忘れ去ってしまうかもしれないこの感情をより強く心に留めておきたくてそうしたのだ。
突然少女が振り返り木乃香と目が合った。凄絶な美貌の子供だった。美少女という鋳型に純金を注ぎ込んで成型したかのような容貌。双眸は大きく穏やかだがどこか陰気な印象があるのは月夜の所為か。鼻筋通り口元にはあどけなさとぞっとするような色気が同居している。歳の頃は一〇歳前後といったところで透き通るような白い肌はやや病的できっと風呂上がりは真っ赤になっているんだろうなと想像したところで少女が口を開いた。
「おはようございます」
明らかに自分に向かって言っている、と木乃香はなぜだか緊張した。僅かな街灯の明かりの下で少女の存在感は際立っている。それに比べて自分が儚げな存在だという気がして気後れしていた。しかもこの夜におはようと言われて間違ってるよと指摘するのが良いのか、こんばんはと返してそれとなく正しい挨拶を伝授したほうがいいのか、おはようございますと返すのが正しいのか、はたまた無視して歩き去るべきか。いっそのこと走り去って逃げ出したい気分だった。
「こんばんは」
結局木乃香はそのように答えた。子供の間違いを正したいとは思わなかったが自らが間違いを犯すほどの重要性をこの瞬間に感じなかったがゆえに。
少女は驚いたように顎を持ち上げた。そして見上げることに倦んでいるかのように胡散臭そうに月をじっと注視した後に「あれは何なの?」と呟いた。
あれは何なの?
月だ。
月と言う他はない。今宵は半月だ。晴れ上がった夜空では他の星の影が霞んでいる。
月だと答えるべきとは思わなかった。少女の私的な独り言という感じがしたので口を挟む気になれなかった。やがて少女はその蠱惑の双眸を木乃香に向けてきた。何かを訴えかけるわけでもないのに胸騒ぎがするようなその眼差し。
「こんばんは。夜も遅いのでお気をつけて」
少女はそう言ってにこりと笑んだ。その唐突な笑顔に木乃香は思わず笑みを返していた。
それから何事もなかったかのように少女は白い花に向き直って挨拶を繰り出していた。熱心に、熱心に、こんばんは。こんばんは。ね、こんばんは。こんばんは。
木乃香は首を傾げた。知恵が遅れているのだろうかと直感したが確証はなくすぐにそんな想像を打ち消した。知恵遅れの子供が「お気をつけて」なんて上品な言葉を使うだろうか。いやいやそれも偏見だろうが自分のイメージとはかなり食い違う。少なくとも口調には異常が感じられなかった。けれど見た目一〇歳前後の少女が夜におはようと花に話しかけていたり、こんばんはと返された途端自分もこんばんはと花に向かって囁きかける辺りに異常性を感じて、むしろ知恵遅れだと説明されたほうが釈然とする。
木乃香はそのまま歩み去ろうとした。後ろ髪を引かれる思いがしたのは少女の外貌が魅力的であったのと大いなる謎を秘めているように感じられたからだ。夜の九時近くになって心配性の両親もそろそろ落ち着きがなくなる時刻で、足の運びの回転数を上げたいところだったが、道を曲がる直前に振り返った。そこにまだ少女はいるだろうか。いたとしてもここから見えるだろうか。木乃香はもちろん普段一つ一つの動作にそれほど意図を込めるような慎重な生活を送っていないが、このときばかりは指の先一本まで神経を張り巡らし振り返るタイミングを間違わないように配慮していた。そしてすぐにタイミングを間違えるとどうなるというのだろうかと考えて、馬鹿馬鹿しくなった。
振り返った直後には何も見えなかった。妖しく光る半月と青の街灯のそれなりに幻想的なコントラストが目の前に広がっている。すぐに前方を向いて帰路に就こうと思ったけれどそうはいかなかった。街灯の光量が増したのか月のスポットライトが少女に照準を合わせたのか、それとも少女自身が光を放ち始めたのか分からないがすぅっと少女の姿が浮かび上がった。そのフェードインの滑らかさは大衆演劇でも見ている気分だった。少女はブロック塀を睨んでいた。そしてその手には先ほどの白く儚げな花が握られている。細い茎が引き千切られて少女の手の中でうな垂れていた。摘み取られたばかりで萎れるはずもないのに既に枯れかかっているように思う。でもかなり距離があったのでそれは木乃香の想像かもしれない。そもそも自分の足元さえ明瞭ではない夜道の中で花の鮮度なんて分かるはずもない。イメージで見えていないものが見えているように感じられているだけ。それは理解しているはずなのに寒気がする。
少女が花を摘んだだけなのにどうして寒気が走ったのか木乃香には説明がつかなかった。しきりに花と挨拶を交わそうとしていた少女はいつまで経っても返事をしてくれないのに苛立って彼女を殺してしまったのだ。そのように想像してもさして不気味ではない。むしろ子供の純粋さを証左すると言っても良いくらいだし、もしかすると少女は花と友達になりたくて家に持ち帰ろうとしているだけなのかもしれない。あるいは単純に明るい照明の下で白い花をじっくりと観察したいのかもしれない。そもそも確乎たる理由がなくとも人は何となく花を摘んだり虫を殺したりする。子供なら猶更だ。どうして不気味に思う必要がある。
少女が木乃香のほうを向いた気がした。スポットライトが薄れて少女の姿が闇に紛れた。否、木乃香が路地を曲がって街灯の下に立っていた少女を視界に収めることができなくなったのだ。
「こんばんは、こんばんは」
少女の声が頭の中で残響している。小鳥の囀りのような耳に残る声。夜の闇が深く瞼を閉じているのと同じような感覚だった。大きく目を見開いているというのに浮かび上がるのは少女の手の中で息絶えた白い花の姿だった。挨拶をしてくれないから殺したのだと自分に言い聞かせた。
そしてすぐに、どうしてそんなことを自分に言い聞かせる必要があるのかと我に返り馬鹿馬鹿しくなった。だって自分は少女にちゃんと挨拶を返したから。あの白い花のように殺される理由がないだろう。本当ちゃんちゃらおかしい。夜は人を臆病にさせる。夜にあんな白いワンピースの少女が一人で出歩いていたら不気味には思うのは普通かもしれないけれど、それにしてもこんなにビクビクして。
ふと木乃香は背後に気配を感じて振り返った。闇の中に誰かがいた。しかしそれは例の少女ではなく長身の男だった。電柱の下で煙草を喫っている。曲がり角に立ちその視線は少女を捉えているように思える。
不穏なものを感じた木乃香は歩を早めた。男は敏感にもそれに気付いて木乃香に視線を向ける。夜だというのにサングラスをかけていた。闇に埋もれて顔に穴が空いているように見える。それが不気味で木乃香は足早に道を進んだ。二度三度と振り返ったが男が追いかけてくる気配はなかった。
それからやっと少女の安否が気になった。戻って様子を見に行こうかと一瞬だけ考えたがすぐに断念した。自分にそんな勇気はないし男がなぜ少女に危害を加えようとするのかその想像をしただけで気分が悪くなるというのに、いざというとき自分に何ができるというのだろう。返り討ちに遭うのが関の山だ。
忘れよう。忘れよう。そう思いながら夜道を足早に進む。罪悪感より恐怖が強かったのは少女の持つ雰囲気に男以上の不穏さを感じたからだろう。理不尽な不安が木乃香を支配していて、今夜の自分はおかしい、きっとこの話を弟や友人に披露したら笑われるんだろうなと思った。
帰宅すると家全体がそわそわしているのが空気で分かった。木乃香はとうとうあのことがばれたのだと直覚して恥ずかしいような鬱陶しいような気分になったが、悪いことではないと思い直した。そして少女とサングラスの男の影を思考の隅に追いやることに成功した。
居間に入ると父と母がテーブルに若者向けのファッション雑誌を並べて談笑していた。弟の啓太は冷蔵庫の傍に立ってつまらなそうにジュースを飲んでいる。カラカラという氷の音が彼の不機嫌さのバロメーターになっているかのようで、両親が笑い声を上げるたびにそれを打ち消そうとグラスを振り回す。飛沫が服にかかり小学六年生の弟は慌てふためき木乃香は思わず笑い声を上げた。
「おかえり、木乃香」
「おかえり」
「ただいま。何見てるの」
木乃香が言うと父が腕組みして首を振った。
「雑誌だよ」
「何の雑誌?」
「木乃香が出てる雑誌。モデルやってたんだってな。凄いじゃないか」
「モデルって言っても読モだよ。大したことない」
「ドクモ?」
木乃香が笑みを隠し切れずに言うと父が紫色の糸を吐く巨大な蜘蛛の姿を連想しているかのような顔になったので、付け加えた。
「読者モデル。その雑誌の読者が応募したりイベントに参加したりしてモデルの真似事をするの」
真似事とは言っても実際にモデルと同じ仕事をこなしている読者モデルは多数いるわけで、要するに木乃香の謙遜だった。しかし父はそれを真に受けたらしく――もちろん真に受けて貰っても一向に構わないわけだが、少し落胆したように肩の位置を下げた。
「そうか。しかしこういう商業誌に載ることは生半可なことじゃないと思うがどうなんだ」
「そりゃあ誰でも出れるってわけでもないだろうけど私なんか扱い小さいし」
「そんなことないぞ。だって九回も出ているじゃないか。雑誌全部チェックしたぞ。段々扱いが大きくなってる。人気が出てるってことなんだろ?」
本当は一一回出ているし大袈裟だと思った。木乃香は読者モデルの中でもかなり地味な服装と化粧だったが、その長い足を珍しがられて掲載を成し遂げた。事の発端は大学の友人が木乃香のプロフィールを勝手に雑誌に投稿したことにある。普段黒髪でシックな服装を好む木乃香は明らかにそのファッション雑誌の傾向と合わなかったが、編集部が気紛れを起こしたのかある日突然連絡を寄越してきた。そして髪を染められたり着たことがないようなけばけばしいファッションにさせられたりして写真を取られしかも勝手に「将来はパリコレモデルが夢でーす(笑)」「自分では足が長いとは思わないんですよ。本当ですよ(笑)」のようなコメントを写真の傍に添えられて思わぬ恥をかかされた。無論そんな馬鹿みたいなコメントは口にしていない。
言うまでもないがパリコレモデルなんて目指していないし自分でも自分の足は嫌になるくらい長いと思っている。ときに自慢に思うこともあるが後姿だけで美人だと想像されて声をかけられいざ木乃香の顔を見た男が苦虫を噛み潰したような表情になるのが堪え難い恥辱だった。
両親は木乃香を美人だと言ってくれる。けれどどう贔屓目に見ても木乃香を美人というカテゴリーに入れてしまうと世の中の大半の女性は絶世の美女ということになってしまう。あるとき友人に「木乃香って普通の顔してるよね」と言われたことがあった。わざわざ普通の顔だよねと言わなくてもいいだろうに。本当に標準的な顔だったらむしろ美人だとか可愛いだとか言ってくれそうなものだ。友人に「貴方も普通の顔をしてるわよね」と返したら喧嘩を売っていると解釈されるだろう。きっとそうだ。
「人気はないよ」
木乃香は苦笑交じりに言った。
「人気があったらもっと忙しそうにしてるよ。ただ私のことを気に入ってくれてる人が編集部の中にいてね」
「人気があるってことじゃないのか」
「そうじゃなくて私に合う服って他の人には合わないみたいな。そもそも真似できるファッションを率先して着こなすのが読者モデルなのに、私みたいに足が長過ぎるのは雑誌の色に合わないの。それでも呼ばれてるのは一周しかけてるからじゃないの」
一周の意味を捉えきれていない父親に母親が助け船を出す。
「昔流行ったものが最近流行ることでしょ。最近の子はスタイル良いからね」
「そうだよね。モデル体形のファッションも需要が出てきたってこと。棲み分けが曖昧になってるとも言う」
「よく分からないがよくやった。でも大学にはちゃんと行くんだぞ」
「それは大丈夫。ちゃんと四年で卒業するから」
いずれ両親には話すつもりだった。自分がモデルめいた活動をしていることを。何でも面白がる母親はともかくとして堅物の父親はひょっとすると怒り出すのではないかと懸念していたから、このように円満に話が済んでほっとした。
でも傍で聞いていた弟の啓太は顰め面だった。歳が六つ離れた弟は生意気なところもあるが、基本的には素直で活発で可愛い存在だった。けれどときどき理不尽に不機嫌になりどうしようもなくなってしまうことがある。
「今日の夕飯はハンバーグよ」
と母親が幼稚園児に知らせるかのような口調で朗らかに言う。わーいとでも言って喜んでみせたら良いのだろうかと思ったが、さすがにそこまではできず「手洗ってくるね」と言って洗面台に移動した。
がぁがぁうがいをしていると背後に誰かの足音が聞こえて振り返った。弟の啓太がむすっとした顔で柱に寄りかかってこちらを睨んでいる。
「どうしたの」
「馬鹿じゃねえの」
「何が? 読モのこと?」
「姉ちゃんには無理に決まってるじゃん。雑誌でも一人浮いてるし」
「そうかもね」
ちょっと傷ついたが顔には出さなかった。けれど啓太は自分の言葉が鋭利であることに気付いているのかますます残虐な顔になって、
「顔が駄目だよ。化粧で誤魔化し切れてない。ブサイクとまでは言わないけど地味なんだからさ背伸びしなくていいんだよ。見てて痛々しいっていうかさ」
木乃香は首を横に振った。
「編集部の人がOKって言ってくれる限りは出るよ。色んな服を着るのは楽しいし。自分の楽しみの為に雑誌に出るのって駄目?」
「学校で嗤われる」
「大丈夫だよ。私と啓太ってあんまり顔似てないし」
「でも絶対いつかばれる。クラスの中にあの雑誌読んでる奴いるし」
「そうだよね。でもまだばれてないんでしょ? 下の名前しか載せてないからね」
「ばれてからだと遅いんだよ。最初は凄い凄いって言われるかもしれないけど、絶対最終的には馬鹿にされる」
木乃香には啓太の言っていることの意味がよく理解できた。人間と言うのは流行に同調する生き物だけれど、いざ自分のアイデンティティを発揮しようと思ったときに手っ取り早いのは世の中の主流とされている考え方に敢えて逆らってみることだ。それでなくとも天邪鬼は多く、クラス中で啓太の姉ちゃん凄いなーと騒ぎになっても必ず一人は「でもこの顔でモデルってやばくね?」とでも言い出すに決まっている。騒ぎになれば肯定は否定に、否定は肯定にと揺り戻しが起こる。騒ぎの渦中に立たされた人間が少なからず傷つき辛い目に遭うのは明らかであり自己を防衛するには目立たないこと、これしかない。
これくらいなら大丈夫ではないか。テレビに出て馬鹿な発言を連発しているわけでもブログが炎上しているわけでもない。ただ数ある雑誌の中の一つで有象無象の読者モデルとして地味な顔を晒しているだけなのだから啓太に被害が及ぶほどではない。有名人になったという自覚はもちろん全くない。この雑誌を読んでいる人の中で木乃香のことを意識している者がいったいどれだけいるというのか。啓太の友達で木乃香と面識のある小学生は一人もいないはずだ。
「大丈夫じゃないの」
木乃香はしばらく考えてからそう言った。しかし啓太は不機嫌そうに口元を歪めていた。
きっと弟は怒っているのだろう。しかしその顔には戸惑いのようなものが感じられた。あるいは笑い出しそうになっているのを我慢しているような。木乃香には弟の表情の意味が分からなかった。自分の見間違いだろうかと瞬きを二回繰り返すと弟は背を向けていた。
「気を付けてよ」
しかしどう気を付ければいいのか分からず返事できなかった。木乃香は将来読者モデルで食べていけるとは思っていない。大学を卒業したら公務員になるつもりだった。大学一年生の今の段階で公務員試験について考えているほどだ。芸能界のような華々しい世界で自分が輝けるとは思っていない。どんなに強い照明を浴びせられても自らが放つ輝きを大衆に見せつけることのできる、そんな選ばれた人間だけが就ける職業だと思っている。自分は照明を浴びせられたら影さえ消え失せてしまうだろう。木乃香は本気でそう思っていた。仮に何か間違いが起こってテレビ出演だの有名なファッション・ショーに出ることになってもそれは単なる思い出作り以上の意味を持たないだろう。
食卓に着き母手製のハンバーグを頬張った。デミグラスソースがたっぷりかかっていて少ししょっぱかったが美味しかった。木乃香が食事しているのを両親がにこにこしながら見ていて非常に食べづらかった。
「なに? どうしたの。テレビでも見ててよ」
「まさかお前がモデルになるとはなあ」
父親が言う。母は何度も頷いていた。
「私は分かってたわよ。木乃香は子供の頃からスタイルが良かったからね。変な姿勢が癖にならないように、そればっかり気を付けて躾けてきたからね」
そう言えば母は放任主義者だったが猫背になっていたり足を組んで椅子に座っていたりするとやけに厳しい口調で矯めようとしてきた。
「子供の頃から? 私の足って長かったの?」
「そりゃ、もう。ティラノサウルスみたいだったんだから」
「は? ティラノ?」
「膝下が長いってこと。膝下が長いと速く走れるんですって。ティラノサウルスもそう」
「でも、私、そんなに足速くなかったけど」
「だって、木乃香は人間でしょ。ティラノサウルスじゃないもの」
よく分からないが父親と母親は笑い合っている。木乃香は二人の陽気さについていけなくてただひたすら早く夕食を済ませようと箸を動かした。
夕食を終えシャワーを浴び自分の部屋に入った。やっと気分が落ち着いた。ベッドに腰掛けて一息ついてからふと思い立って窓辺に立つ。マンションの三階から見る外の景色はぱっとしないけれど浮かび上がる半月を眺めるのには良いアングルだった。無意識に先ほど少女が佇んでいた路地を探した。ここから見えるはずだったがさすがに人影があるかどうかまでは分からない。今夜は静寂が支配している。サングラスをかけていた男が暴漢で少女が酷い目に遭っている状況を想像すると落ち着かなくなったが、この静けさの中でそんな蛮行が行われているとはどうしても思えなかった。
そうやって自分を慰めているのだととっくに気付いていた。けれどどうしようもない。世の中はそんなに物騒だろうか。あの少女は無事で今頃自宅のベッドで絵本でも眺めているかもしれない。いやあの歳で絵本を読むことはないか。しかしそうしても不思議ではない雰囲気がある。あのサングラスの男だってあそこで誰かと待ち合わせをしていただけかもしれないし、ひょっとするとあの少女の保護者だという可能性だってある。そもそも道端で立ち止まっているだけで不審者と決めつけてしまうのは乱暴な気がした。
止まったように動かない景色を見るのに飽きて窓辺から離れた。音楽プレーヤーのイヤホンを両耳につけて音楽を聞き始める。片付けるべき大学のレポートが一つあった。締め切りはまだまだ先だが一時間もやれば終わりそうだったので取り掛かることにした。
ウェブで資料を集めてワープロソフトで立ち上げた白紙に文字を打ち込んでいく。ときどき講義で指定された参考書を引っ張り出してきて引用できる部分がないか探す。そうこうしている内に二時間が経ち、レポートは一応完成した。
思ったより時間はかかったが充実感があった。すぐさま教授のメールアドレスにレポートを送りつける。ざっとウェブニュースを見た後、興味を惹く事項がなかったのでノートパソコンを閉じ大きく伸びをした。
夜の一一時半。
翌日の講義は予習が要らないはずだ。そう思うと眠気が襲ってきて大学と自宅を行き来するだけの毎日ってつまらないなと思った。もし読者モデルなんかやっていなければ東京に行くことも滅多になかっただろう。そのときの自分の人生は今より色づいていただろうか。それとも色褪せていただろうか。率直に言って読者モデルの撮影現場は楽しかったが撮影自体は好きではなかった。色々な服を着られることの喜びや色んな人や他のモデルと話をするのは良い刺激になったけれど、いざ撮影となると自信がなくなり萎縮してしまい無性にここから消え去りたくなる。きっと読者モデルの仕事は向いていないのだろう。もしするなら裏方のほうが合っている。けれどファッションにそんなに興味があるわけでもないので公務員のような競争の要素の少ない職場のほうがのんびりストレスなくやれるのではないかと思う。
明日の朝も早い。大学に入学する前は大学生になったらたくさん遊べると思っていたがとんでもない。毎朝七時には家を出ないと一限目の講義に間に合わないし、大学の先輩の話を聞く限り単位を取るのはそう簡単ではないらしい。木乃香は経済学科だが理系はもっと単位を取るのに忙しないと聞いてぞっとしたものだ。世の中には遊び呆けている大学生もきっといるんだろうけど、少なくとも木乃香の大学は少々厳しめのようだった。ただし木乃香は大学を遊び目的で受験していない。それならそれでいい、むしろ勉強をやってやろうかという気になるほどだった。
音楽プレーヤーを止め部屋の照明を消してベッドに潜り込んだ。
瞼を閉じると白い花が浮かび上がった。その頭を撫でているあの少女の姿も。
すぐに目を開いた。天井が目に入った。窓から差し込む薄明かり。
どうしたことだろう。胸騒ぎがする。眠れそうにない。一瞬でそれを悟った。眠気はあるのに熱病の兆しが体内の至る所で散見されるような。体内に潜り込んだ蛍が一斉に尻を光らせているかのような。覚醒と嗜眠のスイッチがどこにあるのか忘れて部屋の中を探すべきなんじゃないかと思わせるような心残り。
「こんばんは」
少女の声が聞こえた。木乃香は起き上がった。
幻聴だろうか。先ほど聞いた声を反芻しているだけだろうか。
そこに少女がいるという可能性は全く考えなかった。
考えた瞬間に自分は何か正体の掴みようのないものに取り込まれるという予感がしていた。
闇に目を凝らす。部屋の調度品や積み上がった小説のタイトルを視認することができる程度には明かりがあった。視覚はそこに誰もいないことを示している。
幻聴だ。記憶の声を探り当てただけだ。木乃香はそう思い込もうとした。
部屋を出てまだ起きているであろう両親に会いに行こうか。でも幽霊に怯える子供みたいな真似はみっともなかった。
どうしてだろう。どうして自分はこんなにも不安なのだろう。
「こんばんは」
少女の声がまたした。しかし木乃香はその声が自分の頭の中から聞こえてくることをしっかりと確認した。近くに少女はいない。いるとしたら自分の中だ。
ベッドに横たわり固く瞼を閉じた。シーツを握り込んで皺を作る。
「こんばんは」
少女の声が近い。当然だ。頭の中から聞こえてくるのだから。むしろ遠くから聞こえてきたほうが恐ろしい。
窓がバンバンと叩かれた。今日は風が強かったのでその所為だろう。
早く落ちろ。眠りに落ちろ。焦れば焦るほど心拍数は上がる。
床が軋んだ。誰かが部屋にいる。
それでも木乃香は瞼を開けなかった。壁のほうを向いてじっと蹲っていた。
思えばこれは理解不能な行為だった。このとき気付くべきだった、自分は夢を見ているのだと。覚醒状態にあったならきっと起き上がって部屋を飛び出していただろう。心霊現象は寝惚けているときに最も体験するのだ。
肩を叩かれ、振り返り、そこに少女の血まみれの顔があり、木乃香は絶叫し、目が覚めた。汗だくになって激しく息をついていた。発作的に時計を見てまだ一二時前だということを確認した。首を横に振りふざけんなと呟いた。あの不気味な少女の所為でこんな夢を見させられるなんて。
すぐに枕に頭を預ける気にはなれなかった。喉が渇いている。水を飲みに部屋を出た。
暗さに目が慣れていて台所に点けた照明がいやに眩しかった。既に両親も弟も就寝しているらしい。家の中は寝静まっている。
蛇口を捻って出てきた水をコップで受け止めて口元まで持っていく。
ぬるい水道水が今は美味しかった。喉元に垂れた水がくすぐったい。
誰かの視線を感じたが自分の気のせいだと知っていた。
肩を叩かれた気がしたが押し潰された寝巻きが重力に負けて形を変えただけだ。
目の前にあの少女がいる気がするが幻覚だろう。
「こんばんは」
少女の声が聞こえた。つられて目の前の幻覚の口も動いた。赤い舌が蠢く様子を見て木乃香はリアルだと思った。夢の中、あるいは幻覚の中にこそリアルはあるんじゃないか、そう思えるときがあるほど人間の想像力というのは細部に至ることがある。
返事はしなかった。なぜって目の前に少女はいないのだから。後悔は、きっとしない。
*
佐倉啓太には少し前から気になっていることがあった。啓太の住んでいるマンションの近くに空き家があるのだが、そこに誰かが潜んでいる気配があったのだ。気配と言っても明確な何かを見たわけではない。ただその家を観察していると日毎に何かが変わっているような気がして興奮した。
でもきっと何も変わってなくて空き家は本当に空き家で、何かが潜んでいるとしたらそれは啓太の妄想が作り上げた影に過ぎないのだろう。それが分かっていてもなお興奮してしまうのだから単純な奴だ。きっと自分で考えた怪談でびびってしまうタイプの人間だな。
楽しいことは楽しい。だからこの妄想を止めようとは思わなかったけれど誰かに話したいとは思っていた。きっと話したら馬鹿にされるのにどうして話したいのか。それは心のどこかで本当に誰かが潜んでいて不穏なことが起こりかけているのだとしたらどうしようという不安が渦を巻いているからだろう。
笑いながら、自分でも小馬鹿にしつつ姉に話そうか。父親に話しても相手にされないだろうし、母親は表面上は熱心に聞いてくれるかもしれないがすぐに忘れる。優しくて包容力のある姉なら心に留めておいてくれる。読者モデルの件でなじってしまったが本当は誇らしい気持ちもあった。姉のことは嫌いではない。いやむしろ好きと言ってもいいのだろう。でも姉に甘えるような歳でもないと思っている。感情を露にするのが難しくてつい攻撃的な言葉を吐いてしまうそんな自分に嫌気が差した。
今朝の姉の顔を見て啓太はぎょっとした。朝食を摂りに部屋から出てきた姉を見て両親も言葉を失った。
姉の顔が歪んでいた。
額から鼻の下にかけて黒い塊がこびり付いている。右眼の瞼が捲れて剥き出しになった肉の色が紫に変質し芋虫が這い回り畑を荒らしたかのように肌に凹凸が出来赤黒い面皰から膿が噴出している。唇は切れ細かい肉の粒の輪郭に陰影がはっきりと刻み込まれ不自然に肥大化しまるで泡が弾け飛んだかのようだ。捲れた唇からは欠けた前歯と犬歯が剥き出しになり歯茎には縦に無数の傷が入り今にも歯が脱落してしまいそうだった。形の良かった眉は無残に切り裂かれそこには得体の知れない白い線が入り発酵の済んだパン生地のような光沢がある。前髪も禿げかけており不完全な瘡蓋がサンバイザーのように広く展開している。
絶句した家族を尻目に、木乃香は平然と食卓に着き朝食を食べ始めた。パンにイチゴジャムを塗りたくり頬張る。姉はここ何年もそういう食生活を続けていた。面白味のない姉。食べるものも着るものも話すことも表情の作り方さえも何かしらの手本を模倣したかのような個性のない人間。それは美点でもあるが啓太の目には退屈のように思われたのに、今朝だけは違った。どうして顔面の崩壊した姉がパンにジャムを塗って食べているのかと強烈な疑問を抱いた。飲み物は牛乳。姉は乳製品が好きだった。そんなのばっかり口にしてるから背が伸びるんだよと弟に指摘されても、頬を赤らめながらも好きなんだから仕方ないでしょうと言い、食生活を改めようとはしなかった姉。姉が毎朝辿る日課をなぞる毎に啓太の混乱は増していった。口元に白い跡をつけた姉の手には牛乳の入ったコップがあると分かっているのにそれはバリウムか何かのように見えてしまう。今の姉に相応しい服装があるとすれば病衣なのに、外行きのブラウスだのロングスカートだのを着用している。それが常識への挑戦か人間社会を冒涜しているように感じられて啓太は慄いた。だからしばらく姉に声をかけることはできなかった。両親も同じようだった。
やがて木乃香は食事を終えて立ち上がった。啓太は知っていた。この後姉が大学の講義に出席する為に自室の鞄を取りに行きそのまま玄関へと向かうことを。
このまま行かせてはいけないと啓太は思い姉の進路を塞いだ。姉は驚いたように弟を見た。
「どうしたの、啓太」
「どうしたのはこっちの台詞だろ!」
思わず怒鳴りつけていた。それで覚醒したのか両親も姉の前に立ってその酷い顔をまじまじと見つめた。
「どうしたんだ木乃香。その酷い怪我は?」
「何があったの?」
木乃香はきょとんとしていた。いや実際には無表情だったかもしれない。ただ瞼が捲り上がり眼球が露出していたので驚いているように見えたのかもしれない。啓太は自分の前にぶら下がっている姉の白い腕を凝視していた。その腕に傷一つないことが異様に思えた。どうして顔面にだけそんなに傷が集中しているのか理由を聞いても納得できないだろうと思った。それほど姉の白い腕は傷どころか穢れがなく清新な朝に相応しい輝きに満ちていた。しかし少し視線を持ち上げると姉の顔は別の誰かのものになったかのように変容している。いやそんな表現では足りない。目の前にいるのが姉だろうが別の誰かだろうが関係ない。生身の人間の顔を彫刻刀で成形し直そうとしたかのような傷や打撲痕はそのまま恐怖の対象であった。そんな暴力が存在し得るのかという未知との遭遇。今いきなり姉の顔面が破裂して脳漿が飛び散り絶命したとしてもそれ自体には驚かない。きっと声を上げて飛び退き心臓がひっくり返るだろうが納得はするだろう。平然と突っ立っている今の状況のほうが不自然だった。
「みんな、どうしたの。そんな驚いた顔をして。何か変ね」
木乃香はくすくすと笑った。きっと笑った。啓太は顔を背けた。顔の筋組織がびろびろと動いているのが分かった。それは見えてはいけないものだ。人間の表情が筋肉によって形成されているのは当たり前のことだが、人が笑顔を作るたびにその裏の筋肉の動きを見透かそうとする人間は稀だ。画家か解剖学者か、世界を敢えてグロテスクな風景にしたい狂人か……。
「どうしたのって、お前」
父親は上手く言葉が紡げないようだった。母が甲高い声で喚きながら姉に触れようとするが割れ物を扱うような慎重さで指先だけタッチしてすぐに引っ込めた。啓太にはその気持ちが痛いほどよく分かった。
「その酷い怪我! 気付いてないの、木乃香?」
「怪我? ああ、昨日、寝てる間にベッドから落ちたみたいで。顔面から。それで少し腫れたのかな」
「そんな……、そんなわけあるか!」
父親が喚く。
「誰にやられたんだ。昨日帰ってきたときは普通だったよな? 深夜にどこかに出掛けたのか? それともこの家に誰か侵入したのか? まさか自分でやったとか言わないよな?」
「だから、ベッドから落ちて――」
「ベッドから落ちただけでそんな化け物みたいな顔になるか!」
父親の言葉はいたってまともだった。姉の顔面はまるで化け物だった。啓太はその表現に全く違和感はなかったし母親は泣きそうになりながらもしきりに頷いている。誰もが腑に落ちる表現だった。
けれど姉にはショックだったらしく信じられないとでも言わんばかりに父を睨み首を横に振って部屋の出入り口を塞いでいる啓太を押し退けた。
「化け物って……。酷い」
「おい、待て木乃香。病院に行くぞ」
「病院? どうして?」
「どうしてもこうしても、その傷が」
「ちょっとぶつけただけなのに大袈裟なのよ」
「鏡を見てみろ、酷いぞ!」
「知ってるわよ!」
姉が叫ぶ。その大音声に両親は凍りついた。傷が酷いことを知っている? そう両親は解釈したようだが啓太は姉が自分が美人ではないと指摘されたと勘違いしたのではないかと懸念した。そしてすぐに追いかける。
しかしすぐにと言ってもそれは自分の体内時計に依る感覚の話で、しばらくの間立ち竦んでいたらしく、既に姉は玄関から出て行ってしまっていた。あの顔で。あの傷で。姉は本当に傷があることに気付いていないのだろうか。今朝一度でも鏡を見たのだろうか。残酷な顔だ。人間の顔を玩具としか思っていない人間が滅茶苦茶にしたかのように混沌としている顔だった。
啓太も外に飛び出しマンションに面する路地の真ん中に突っ立ち姉の後姿を探した。しかし視界にはなく駅までの道を走り始めた。
くねくねと曲がりくねった路地と視界を遮る高いブロック塀。老朽化した舗装道路には軽自動車が窮屈そうに行き交いその間を自転車に跨った学生や会社員が縫うように進んでいる。追い抜き追い越され動きだけ見ていると熾烈な異種レースでも繰り広げているかのようなのに、誰もが他人には無頓着で周りの景色にも無関心で何を考えているのか分からない眼差しをしている。啓太は道行く人の表情をよくよく観察していた。というのも姉を目撃した人間なら絶対に恐怖を感じるはずだろう。その恐怖の残り香が通行人の顔の中に見出せないものかと思っていた。けれど誰もがいつもの顔でけだるい金曜日の朝を過ごしていた。
路地を曲がり姉の後姿がないものかと視線を忙しなく動かす。見えるもの全てがねばねばする壁に思えた。一度焦点を結んでそれが姉ではないと結論し次の標的を視線で刺す。それも姉ではない。次の物体も姉ではない。次も違う。次も。次も。視線を動かすたびに眼球の疲労が蓄積するのが分かる。走り疲れて思うように足が上がらないのと同じように、勉強に疲れて目に飛び込む文字を咀嚼するのが遅れるように、眼球が今にも破裂するのではないかと思いながらも粘り付くような人の群れを一つ一つ分解して姉の姿を探した。
そして駅前の比較的大きな通りを早足で歩いている姉の後姿を発見して啓太は大声を上げようとした。けれど姉の後姿はいたって普通だった。というよりも颯爽としていてこの通行人の中でもひときわ輝いているように見える。一瞬見惚れ、顔に酷い傷を負っているというのは自分の勘違いなのではないかという疑念が、なかなかの信憑性を伴って襲いかかってきた。
けれど両親もあのように驚いていたのだから間違っているはずはない。姉の顔は酷い有様のはずだ。あのまま大学に行かせるわけにはいかない。あの酷い怪我はすぐに治療しないと取り返しのつかないことになる可能性だってある。
「姉ちゃん! 姉ちゃん! 待って!」
しかし啓太は大声を上げながらふと気付いた。道行く通行人は誰も驚いていない。改まって姉の顔を見る者はいないが少しでも目の端に入ればその異常に気付くはずだ。それなのに騒ぎにならない。おかしい。何かがおかしい。
声に驚いた姉が振り返った。
いやそれは姉ではなかった。別人だった。よく似た服装の女性だった。よく見れば姉ほど背が高くない。足だって短い。ハイヒールなんか履いている。姉は絶対にヒールの高い靴は履かない。スニーカーかサンダルだ。
啓太は途方に暮れた。姉を見失ってしまった。もう駅に着いてしまったのだろうか。啓太の目の前で上り電車が駅から出発する。遮断機のカンカンという警戒心を喚起する音が消えてから初めてその音があったことに気付いた。
辺りを見回す。
姉がいた。
姉が駅に向かって、啓太の立っているほうへ歩いてきている。いつの間にか追い越していたのか。
やはり姉の顔面には無数の傷があり歪んでいた。遠くから見ると覆面でもしているのかと思えるほど輪郭が歪であった。それでかえって目立ちにくくなっているのかもしれない。いやそれにしても普通は人目を引いてちょっとした騒ぎなっていてもおかしくないのに。見れば見るほどそう思う。
姉は啓太の姿を見て驚いているようだった。
「どうしたの、啓太。こんなところで」
「姉ちゃんの後を追ってきたんだよ」
「どうして?」
「だって、その顔――」
姉は不機嫌そうに肩を竦めた。
「いい加減にしてよ。大袈裟ね。ちょっとぶつけただけで」
「ちょっとじゃないだろ。今朝鏡を見たのかよ」
そして啓太は付け加えた。
「姉ちゃんがブサイクだとかそういうことを言いたいんじゃないんだからな。傷があるんだよ。本当に気付いてないの」
弟の真剣な表情に姉は不服そうにした。
「まったく、ワケが分からないわよ。鏡を見たかですって? 見たわよ。しっかり見た。確かに傷があるけど大したことないでしょ。わーわー騒ぐほどのことじゃないのに、本当、大袈裟というか」
大袈裟のはずがない。特殊メイクでもしているのではないかというほど顔面が崩壊している。少なくともこんな惨状で外を出歩けるというのが異常に感じられる程度には酷い傷なのだ。
啓太が困惑していると、姉が腕時計に視線を落とした。
「ああ、もう、電車が出ちゃう。用事はそれだけね? 啓太も学校、遅刻しちゃうんじゃないの」
そんなことは些細なことに思えた。普段だったら学校に遅刻どころか起床が五分遅れたりトイレ待ちで数分浪費しただけで慌てふためくのに、今朝はそんな焦燥がおままごとのようにさえ感じられた。
姉は駅に向かって歩き出す。啓太はそれを見送るしかなかった。ふと通行人の何人かが姉の顔に気付き、ぎょっとした。
姉の傷を見たのだ。構内から駅前のバス乗り場に人がたくさん並んでいる。彼らも目の前を横切った姉の顔を見て驚愕の表情を浮かべた。そして二度見三度見をし声をかけようとする者もいた。
やはり異常なのは姉だった。あの傷は啓太や家族だけに見えていたわけではないのだ。しかし姉は素知らぬ風に構内へと消えてしまう。後姿だけ見ているといつもの颯爽とした姉だったけれど正面に回った途端そこには悪夢が広がっている。
啓太はしばらくその場に立ち尽くしていた。もう自分にはできることが何もないと知っているのに後ろ髪を引かれる思いだった。
やがて啓太は帰路に就く為に振り返った。
そこには白い顔があった。
啓太は飛び退いた。鳥肌が立つほど近くに見知らぬ少女が立っていた。黒髪に白いワンピース。地味で簡潔なコントラストはしかしどんな色彩の組み合わせより鮮やかに見える。朝の空気によく映える白い肌と眠たげな双眸に啓太の視線は吸い寄せられた。同年代の少女だったが見覚えはなく首筋から口元にかけて大人の女性のような色香が漂っていた。いやもっとはっきり言ってしまえば淫らな印象。浮き出た鎖骨と口紅を塗っているのかと疑ってしまいたくなるほど艶のある唇の光沢に胸の奥を鷲掴みにされた思いだった。
「こんばんは」
少女はそう言った。確かに言った。啓太には理解できなかった。ふざけているのだろうか。こんな朝っぱらから「こんばんは」はないだろう。しかし挨拶されていることは確かであり反射的に、
「こんばんは」
と返していた。少女の登場と繰り出された挨拶のタイミングがあまりに突然だったので本当はおはようと返すべきだという認識を跳び越えて勝手に口が動いていた。自分の声を聞きながらおはようだろう馬鹿と罵る声が頭の中に響き少女の笑顔が一瞬ぼやけて見えた。
「学校ですか?」
少女はそう訊ねた。啓太は頷くことも否定することもできなかった。今日は金曜日であり小学校はある。これから啓太は多少遅刻するかもしれないが小学校に行くことは間違いない。本当は休みたいところだが親にどんな言い訳をすればいいのか分からない。だから少女の質問にイエスと答えることは可能のはずだが、今は姉を追って外に飛び出してきたのでありランドセルを背負ってない。一度帰宅する必要がある。少女の質問が色々と言葉を省略しているのだから答えに正確性など求められていないはずなのに啓太は迷った。挙句「分からない」と答えるに至った。感受性豊かで、ときに神経質なほど空気を読んでしまう佐倉家の弟は数秒間の気まずい沈黙に耐えられる人間ではなかった。
「分からないの? へえ。私と一緒です」
少女は笑み、タン、タンとその場でステップを踏んだ。右足で跳んだとき左足の膝を曲げ腿を躰の軸に対して垂直に立て、もう一度右足で地面に着地すると同時に左足の膝を伸ばし爪先を前に蹴り出す。続いて左足で跳び右足もさきほどの左足と同様の恰好にして以後繰り返すという簡単なステップだ。
啓太は少女の軽やかな動きに見惚れていた。いや数秒のことだったから見惚れていたというよりは少女が何をしているのか確認している内に時間が経ってしまったと言ったほうがいいかもしれない。ただし仮に少女が何分何時間も同じ動きを繰り返していたとしても啓太はその場から動けなかっただろう。見えない壁に三方を塞がれ躍動する少女のショーを強制的に見せられている気分だった。
少女のステップはすぐに終わり啓太の視線の方向を探るように彼女が膝を折り曲げて、体勢を低くしながら上目使いに接近してきた。啓太の足の裏から根が生えて竹藪のように感覚が拡散しもはや自分がどのように足を動かしていたのか分からなくなった。思い出そうとしても少女の簡潔なステップが脳裏から離れてくれなくてその場で踊り出しそうになる始末だった。
「一緒?」
啓太はやっとそう言った。言ったときには少女の鼻が啓太の丸い鼻とくっつきそうになっていた。もし何も言わずに少女が接近し続けたらどうなっていただろうか。キスをしてしまいそうな距離だけどなぜだか啓太はどぎまぎはしなかった。こんなに美しい少女なのに不気味な何かを感じている自分がいる。もし少女がこのまま接近を続けていたら唇を重ねるのではなく眼球同士を密着させて涙を交換したような気がする。根拠なんて何もないけれど吸い込まれるような彼女の瞳に抗うことをやめれば行き着くのはそこのような気がする。
「一緒なの。私も、分からないの」
少女は頷いた。啓太は上半身を仰け反らせて距離を保とうとしたけれど無理だった。これ以上角度をつけると後ろに倒れてしまうというほど背骨を曲げても彼女の瞳の大きさは変わらなかった。彼女の瞳の中に自分の顔がすっぽり収まっていることをしかと目撃した少年は少女の言葉を何とか解釈しようと頭を働かせたけれども、感情の処理で過負荷がかかり思考が纏まらなかった。
「分からないんだ」
鸚鵡返しをするので精一杯だった。
「いつも学校に行こうとしてるの。それは分かるの。けれど学校がどこにあるのか分からないの。学校がどんな場所かも分からないの。どんな人がいてどんなことを勉強するのか知りたいのに分からないの。最近染谷から教えて貰ったのは縄跳びっていう遊びがあることなの。登校途中の小学生の男の子のランドセルから縄がはみ出してるのを見たからそれを何に使うんだろうと思って染谷に聞いたらそれを飛ぶんだって。だから私も最近は縄跳びの練習をしてるの。だっていつか私が学校に行って縄跳びをしないといけなくなっちゃったらそれができないと皆に笑われてしまうでしょう」
「うん」
少女は満足げに話を続ける。
「縄跳びの縄は人によって色が違ったり長さが違うって。人によって好みが違ったり跳ぶのに適切な大きさが違うからそうしてるんだって染谷が教えてくれたけど合ってるの?」
「うん。合ってる」
染谷とは誰だろうと思ったが質問をするという発想がこのときは完全に抜け落ちていた。ただ少女の清らかな声音と繰り出される言葉のささやかな異常性に慄いていた。
「私も練習してみたけど全然上手くならないの。こんなんじゃ学校に行っても笑われるだけだって分かってるのに学校がどこにあるのか分からないことが悔しくて仕方がないの。あなたは悔しくない?」
「ああ……、うん」
啓太は少女がどういうつもりなのか全く理解できなかったが、頷くしかなかった。少女は満足げに頷いたが声には不満そうな響きが含まれていた。
「そう。私はあなたとは友達になれそうにない。けど大切な隣人として、今後とも末永くよろしくお願いします」
少女はぺこりという擬態語がぴったり似合うお辞儀をして啓太を更に惑わせた。お辞儀を反射的に返した啓太だったが少女は既に背を向けて歩み出していた。歩幅があるように思えないしゆったりと足を踏み出しているように見えるのに異様に進むのが早い。まるで動く歩道に乗っているかのような。スケート靴のエッジで氷上に傷を刻み込みながら滑っているかのような。あるいは啓太が見えない何かの手によって引っ張られているかのような。恐怖と不気味さに起因する好奇心から、少女が歩み出してすぐに追いかけたのに路地に入った途端姿を見失った。
仕方なく帰宅すると既に父は出社しており母は啓太にあれこれと聞いた。姉をそのまま行かせてしまったと知ると怒り出し携帯電話を取り出して何度も姉にメールやら通話やらで連絡を取ろうとした。事件だったらどうしようと何度も呟いて小学六年生の意見を仰ごうとした。
啓太にも何が何だか分からなかった。姉の一件もそうだがあの少女のことが頭から焼き付いて離れなかった。マンション近くの空き家のことを思い出し、少女が「隣人」だの何だのと言っていたことしか根拠がないのにあそこが少女の家ではないかと妄想を膨らませた。するとあの空き家のことを姉に話そうと思っていたことをも思い出した。あんなになってしまった姉にこんな些細な懸念を伝えるのは気が引けた。ささやかなスリルを空き家の存在に見出していたのに姉の怪我はここ何年分の刺激を凝集したかのようなショッキングな出来事であり、あのいきなり話しかけてきた頭のおかしな少女のことも心に残った。
きっと姉は大学に行き学友から顔の怪我について指摘されるなりするだろう。家族のみならず多数の人間の意見から自らに降りかかっている異常について何とか理解してくれるに違いない。そうしてからあの傷の原因が何なのか探ればいい。
ふと啓太はとんでもない妄想に駆られた。駅前で人違いをした。今ではもう姉とそれ以外の人間を見極めるのに背の高さと後姿くらいしかアテにできない。顔面はぐちゃぐちゃになり面影なんてまるで残っていない。もしかすると姉だと思っていたあの人間は姉ではなく全く別の人間かもしれない。もしそうであったとしても絶対に分からない。声は変えられないかもしれないがそもそも姉弟とは言えその声音を正確に把握しているわけではない。ちょっと声音が違うくらいでは判別できないに違いない。
けれどそれは妄想の域を出ない。あの人物が姉であるという証拠は山のようにあり啓太自身も姉が姉ではないという考えが真実だと本気で思うわけではない。しかし一瞬でもその考えが頭を擡げると不安が持続してしまうのだから人間の心というのは厄介なものだ。
啓太は淀んだ川に目を凝らして水底に沈んでいるはずの答えを探しているような心地がした。次に姉と会ったときに色々と質問をすればそんな馬鹿げた考えが間違っていることは証明できるしそもそも姉は姉なのだから不安に思う必要もなく、むしろこの状況を面白がるくらいの余裕が欲しかった。今はまだ朝でこれから学校に行ってつまらない授業を耐え忍び陰険なクラスメートの干渉を受け流し続けなければならないと思うと憂鬱になった。一日がどうしようもなく長く感じる日々が続いていて自分がまだ一二歳であるというのが信じられない。姉の一件があったのだから自分は学校を休んでも良い、とはならないのが不公平な気がした。すると騒ぎを招き自分を心配させた姉に対する怒りが沸々と湧き上がってくると同時に、自分が矮小な人間であると再確認させられて啓太はますます憂鬱になった。自分は世界で一番不幸な小学生じゃないかと何の根拠のないことを真面目に考えて、だって自分は今こんなにも憂鬱で食べ物に困っていたり住む家を失ったり親と離れ離れになった子供は世界中にいるだろうけど自分より暗い心を抱え込んだ人間なんていないだろうと傲岸な思考に囚われて、それにより一層自虐的な気分に陥った。そうやって考えている内に身支度を整えて玄関で靴を履き始めているのだから習慣というのは恐ろしい。母は携帯電話を握りしめて姉と連絡を取ろうと躍起になっている。啓太がドアを開いてマンションの通路に出たとき母親の甲高い声が響き渡り、姉が通話に応じたのだと気付いたけれど耳を傾けようとは思わず、バタンと閉まった分厚い鉄製のドアをまじまじと見つめた後エレベーターのほうへと早足に歩き始めた。やっと一日が始まるという気がした。今朝の出来事は悪夢か何かのように思っていればそれで済むだろうと自分に言い聞かせた。
*
ゴーン。
木乃香は衝撃で目を覚ました。けれど頭に血が上り思考が散逸していて世界が弧を描いていることしか分からず意識が遠のく。耳鳴りがして鼓膜の内側に膿が溜まっているような気がした。ときどき小指の爪を伸ばしている人がいるのはそれを突っ込んで滅茶苦茶に掻き毟り膿をほじくり出しているからだという仮説が頭を擡げると無性に楽しくなった。笑いたくなったが喉が渇いていることに気付いて自重した。喉が擦れて血が出るような予感がしたからで、実際にはそんなことは起こらないだろうと思ったが念には念を入れて石橋を叩くタイプの自分はそういう生き方が結局は最もストレスが溜まらないのだと思った。石橋を叩いてひびが入ったのを見て危ない橋だと分かって安堵するのか、自分が振り下ろしたハンマーが健全な橋を叩き壊したのだと思うのとでは全く違うけれども、自分はどちらかと言えば後者だろうと思った。保身の為に慎重になっているのは前者だが自分はただ自分に関わったあらゆる事物を悲観的に見ているだけだ。慎重というよりは答えを出すことを懼れているのだ。
ゴーン。
衝撃が思考をリセットさせる。一瞬前に考えていたありとあらゆることを忘却し新しい血脈が濁った酸素を運搬しシナプスのネットワークの再構築を促す。その図をイメージすると自分がクリエイティブな人間になった気がして浮かれた。でも実際に何を生み出せるかと言えばつまらない思考と陰鬱になることに利用できるネガティブな材料ばかりで脳髄を液体窒素の中に詰め込んで凍らせてしまいたくなった。液体窒素はミネラルウォーターよりも安い値段で買える。自分のような安っぽい人間の中枢には相応しい居場所ではないかと思うとまた笑い出したくなったが、喉が渇いていたのでやめた。喉から血が溢れ出し窒息するような気がしたからだ。
ゴーン。
衝撃が思考をリセットさせる。この衝撃がどこからやって来るのかと言えば顔面からだが全身が痙攣し唾液が自分の額を濡らしていることくらいしか自分の身に降りかかっていることが理解できなかった。世界の色彩は豊かだが形というものを為していない。ただ混沌としていて色とりどりのフランス料理のフルコースをすっかり平らげた後の嘔吐物かあるいは腸を下った後の消化物のような趣があった。先ほどから鼻がヒクヒク動いているのはその画をイメージしているからで自分が誰かの吐瀉物にまみれているのではと思うとそこから這い上がりたかった。こんな世界から抜け出してしまいたいと思うのに足はぴくりとも動かず他の部位もまるで空に摘まみ上げられているかのように自由がきかない。
ゴーン。
衝撃が思考をリセットさせる。顔面に猛烈な痛みが走り血が流れ出していることに気付いていたがそれならそれで構わないと思った。顔の造りには全く自信がなかった。足が長いだけが取り柄の自分が雑誌で愛嬌を振り撒くことになるとは少し前なら信じられないことだった。パーツモデルになることを勧められたこともあったが自分の足が注目されることは必ずしも喜びではなかった。後姿だけで美人と判断されて声をかけられ振り返るとナンパ男の表情が翳り苦笑される。そんな経験は一度や二度ではなかった。無数にある。無数とは言い過ぎかもしれないが何度も何度もその日の光景と恥辱を反芻していると自分がこれまでにいったいどれだけの男を落胆させてきたのか分からなくなる。
ゴーン。
衝撃が思考をリセットさせる。いや思考の履歴は僅かに残留している。自分の顔なんて幾らでも潰れてしまえばいい。潰れても誰も損なんてしない。最初から潰れているも同然なのだから傷で覆い隠してしまえばいい。美人だったのかブスだったのかなんてことを気にする人がいなくなるほど強烈な傷を負えばいい。むしろ傷だらけになってしまえばいい。傷そのものになってしまえばいい。既に心はそうなっている。自分の心は傷そのものだ。膿そのものだ。指を突っ込んで滅茶苦茶にほじくり出せば空っぽな器だけが残る。器さえ綺麗に着飾ることができない人間はそれを投げ棄ててしまいたくなってもなまじ愛着がないわけでもないのでそれに踏み切ることができない。ただ泣くしかない。涙は傷を塞がない。むしろ蛆虫を湧かせる。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン……。
衝撃が思考をリセットさせる。駅前の人間も大学の人間も家族も全員傷を見て驚いていた。自分が一番驚いていた。自分が傷に無頓着にいられたことも驚きだった。傷だらけになった理由は自分でもよく分からない。経緯を知っているような気もしたが思い出せない。それで苛々するわけではない。自分は必要があってそれを忘れたのだという確信があった。それなら少し前の自分の判断を信じてみるのも良いかもしれないと思った。自分は自分を裏切ろうとは思わないだろう。過去の自分が未来の自分を苛めたいとは思わないだろう。自分が自分を好きになるというのは実に自然な成り行きで、だって自分は常に自分の味方で自分は自分の前では常に正直で誠実で尽くしてくれる。それでも嫌いになるというのなら死んだほうがいい。自分さえ味方になってくれないなら世界中にお前の居場所なんて存在しない。存在するはずがない。お前はお前から逃れられるはずもなくさっさとお前を殺して死んでしまえ。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン……。
衝撃が思考をリセットさせる。もうまっさらで何も上書きされない感情の中で木乃香はただ浮かんでいた。寄せては返す波に連れられて海と陸を交互に行き交う浜辺の人間になっていた。
せっかく悪い気分ではなかったのに腹に衝撃が走った。世界が明転し自分の部屋の天井が見えた。けれど夜はまだ終わっていなかった。目の前にあの少女がいる。少女は恥ずかしそうにはにかんでいる。
「ごめんね。ミスしちゃった」
そして世界は再び混ざり合う。溶け合い個性が消えて万物が世界に拡散されると同時に幾重にも重なり合い不透明な膜が全身を包み込む。
木乃香は瞼を閉じて時が過ぎるのを待った。
嫌気が差したからではない。むしろ少女に感謝していた。
少女が自分を必要としていることを感じていたから。足の長い自分を愛してくれていると感じていたから。もうずっとこのままで良いと言いたかった。少女が倦んでしまうまで自分はこうしているのが最善なのだと信じてあらゆる痛みを受け入れた。
夜は続く。
音は鳴り響く。
無邪気さと無慈悲さを綯い交ぜにして。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン……。
たすけて
*
姉は既に連絡を入れていたらしく帰宅が夜遅くなっても両親が騒ぎ出すことはなかった。ただ諍いの種のようなものは二人の会話から感じ取れた。両親の繰り出す言葉のいちいちに棘が含められている。リビングが血の海になりそうだと感じ取った啓太は自分の部屋に早々に引き揚げた。彼の部屋にはテレビがなかったからいつも一〇時頃までリビングで粘るのに今夜はそういう執着がなかった。
姉がどういうつもりなのか啓太には理解できなかった。気遣いのできる人だと思っていたのに自分が原因で両親が喧嘩しているこの状況を看過するとはらしくない。やはり姉は姉でなくなっているのだろうかと思い始めたがすぐに反対意見が頭の中を占めた。
ああだこうだと考えていても仕方ないので携帯ゲーム機のスイッチを入れたが、五分も経たない内に放り出した。本を読もうかと思って学校の図書室から借りてきた文庫本に手を伸ばしかけたがそれは手に取る前に思い直した。そういう気分ではなかった。心の中の靄を晴らす方法はないものだろうかと考えたが今はどうすることもできないという結論が導き出されただけだった。もちろん勉強なんてする気にもなれずベッドに寝そべって染み一つない天井を睨んでいた。けれど自分の腕を枕にして横を向いた直後に瞼が重くなりすぐに眠りに落ちてしまった。
そのまま朝まで意識を失っていれば良かったのに部屋の照明が点いたままなのが良くなかったのか数時間後に覚醒した。
時計を見ると日付が変わる直前だった。いつもならこんな時間まで起きていたら母親が注意しに来るのに今日は来なかったらしい。来ていたなら照明を消していたはずだ。娘のことを心配するあまり息子の存在を忘れ去ってしまったらしい。それならそれでいいと思ったけれど寂しさなのか悔しさなのか不快な気分になってしまったということは、母親に気に掛けてもらいたいということだろうか。親に甘えるなんて恰好悪いと思っていても自分はまだ子供だということ。
起き上がると躰が重かった。喉が渇いていた。水を飲む為に部屋を出るとリビングの照明は消えて既に両親が就寝したことを知った。すると心細くなって無性に自分の部屋に戻りたくなった。そしてそのままベッドの中に蹲って何も見ないし聞かないようにしなければならない気がした。どうしてそう思ったのか理由を考えてみても全く心当たりがなくてこれがいわゆる霊感ってやつだろうかと思った。
そういう根拠のない恐怖に喉の渇きが優った。リビングの照明を点けて部屋を横切り床に積まれた若者向けファッション誌の山を跨ぎキッチンの冷蔵庫に辿り着く。当然のことだがどこにも異常はなく未開封の紙パックに入っているオレンジジュースを発見してそれをいただくことにした。小さなコップに三杯も飲んだ後で尿意に気付いてトイレに向かった。
トイレの白い照明に自分の黄色がかった小便が生々しく写りぎょっとした。起きたばかりで明かりに目が慣れていない所為かもしれないがいつもより存在感が増しているような気がした。小便が便器に撥ね水面を叩く音に混じって玄関のドアが開く気配がした。姉が帰ってきたのかと思ったが確認できない。排泄が止まらなかった。異常なほど長く放尿が続いているような気がして不気味に思った。トイレの前を足音が横切る。そしてバタンと姉の部屋のほうから音がした。
やっと用を足し終えた啓太は廊下に出た。リビングの照明も自分の部屋の照明も消えていてただあるのは姉の部屋のドアの隙間から漏れ出ている明かりだけだった。啓太は自分が照明を消しただろうかと考えた。リビングの電気は消したかもしれないが自分の部屋の電気は絶対に消していない。姉が消したのだろうか。
どうしてそんなことをしたのだろう。啓太が明かりを点けたまま眠ってしまったのだと勘違いしてしまったのだろうか。普通に考えるならそうだろう。でも今の啓太は普通に考えることができなかった。姉と話がしたかった。そして文句を言ってやりたかった。勝手に電気を消すなよ。本物の姉なら笑いながらごめんごめんと言うだろう。美人ではないが笑うと花が咲いたかのように華やかになる姉の顔が啓太は嫌いではなかった。きっと姉の友人も彼女の笑顔が好きに違いない。
しかし今の姉の顔面は傷だらけで笑ったとしても不気味にしか思わないだろうと思うと気が引けた。啓太は姉の部屋の前まで歩いたが無意識に足音を殺して歩いていた。このまま無言でドアを開けたら覗き魔みたいだと思ったとき部屋の中で服を着替える気配がして安堵した。ああ着替えている最中なら部屋を訪ねるわけにはいかないな。そして自分の部屋までやはり足音を殺して戻り照明のスイッチを探した。
過ごし慣れているはずの部屋のスイッチを探し出すのにかなり手間取った。暗闇に包まれているとはいえおかしなことだった。やっとスイッチに指が触れたが切り替えても明るくならなかった。
蛍光灯が切れている?
恐怖がせり上がってきた。どうするべきかとその場に立ち尽くした。両親が眠っている部屋に飛び込んで照明を点けたい気分だった。あるいはリビングに。けれどそうする理由が見当たらなかった。小さな子供が夜の闇に怯えてゾンビが襲ってくるよぉと泣き叫ぶのと啓太の今の状況は全く変わらない。怯える理由なんてまるでないのだ。
その思考が結局は啓太の行動を支配した。自分の部屋に踏み込みドアを閉め足早にベッドまで進んだ。そして布団をかぶり枕を引き寄せて壁を睨んだ。おそるおそる瞼を閉じて重厚な闇の中に身を置く。すぐ近くに姉が立っているのではないかと想像しただけで震えた。自分の姉が怖いのか? あんなに優しくて寛容な姉が? 自問を繰り返して何とか落ち着こうと思ったけれど上手くいかなかった。理屈ではなく異物がこの家に侵入している感覚が拭い切れない。口の中で揺蕩うオレンジジュースの酸っぱい甘味が胃液の味のように感じてきた。口をすすぐべきだったと後悔した。では今から部屋の外に行けるかと言われれば無理な話だった。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン。
突如として隣の部屋――姉の部屋から音が鳴り響き始めた。それは数秒に一度の間隔で聞こえてくる。啓太は驚きのあまりベッドから転がり落ちそうになった。
音量はそれほど大きくない。きっと今が深夜でなかったら躰にここまで響くことはなかっただろう。それでも確かに音はしている。床か天井か分からないが硬くも柔らかくもない何かをそこに叩きつけている音。鈍い音に続いて余韻のような潰れる音が混じっている。啓太が真っ先に連想したのは姉が床に這いつくばって自分の顔面を叩きつけている場面だった。姉のあの怪我を考えるとそんなことでもしないとあそこまで酷くはならないだろうと思った。
しかし何の為にそんなことをするのだろう。マンションに住んでいるという理由で啓太がちょっとどたばたと廊下を走っただけで人様の迷惑を考えなさいと注意を促した姉が深夜にこんな音を出している。下の階の住人はさぞかし迷惑に思っていることだろう。
啓太は姉の部屋を覗きに行くべきか迷った。これ以上怪我を悪化させるわけにはいかない。恐ろしくて一人で行けないのなら最低でも両親を起こして制止させるべきではないのか。けれど自分の躰を覆い尽くしている掛布団を払い除け立ち上がり暗い自分の部屋を横切ってドアを開き、廊下に顔を出して姉の部屋まで辿り着くという十数秒の道程が途方もなく長い気がしてどうにも動けなかった。
怯えている。いつもと違う姉に怯えている。あのおぞましい怪我をした姉に怯えている。照明が切れてしまった深い闇に怯えている。一つ一つ恐怖の対象を数えて、啓太は汗で濡れてしまった掌をシーツに擦りつけ、ここは自分の家なのだから恐れることなんて一つもないはずだと自分に言い聞かせた。
そして立ち上がる。ゴーン、ゴーン、ゴーン。音は鳴り続けている。いざ足の裏で床に触れてみると少なからず衝撃が伝わってくる。どうやら姉は自分の顔面を床に叩きつけているようだと思った。天井ではなく。大真面目にそう考えた後、どうやって天井に自分の顔面をぶつけるのだろうと考えると少し可笑しかった。ふふと細く弱々しい笑い声を漏らすと思いのほかそれが不気味に響いたのでぎょっとしてしまった。自分の細い声がこれほど大音量に感じるということは隣の部屋から聞こえてくるゴーンという音は実はそれほどうるさいわけではないかもしれない。むしろ顔面を床に叩きつけているとするならあまりに小さな音と言わざるを得ない。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン……。
啓太は部屋から出て行こうとしたが床に落ちていた漫画本のカバーに足を取られて危うく転ぶところだった。なんとか踏みとどまったが心臓がバクバクと鳴り冷や汗がこめかみから流れ落ちるのを感じた。中腰のような姿勢のまま自分を落ち着かせる為に動かなかった。すると目の前にある窓のカーテンの隙間から外の街灯の明かりが見えてふと視線を向けると人通りのない路地と隣の空き家の輪郭がぼんやりと見えた。
空き家のマンションに面する一室の電気が点いていた。
最初はそれほど驚かなかった。しかし心臓が状況の理解が進むにつれて高鳴り、やがて耳の奥に小さな心臓が出来たかのような己の激しい脈動をまざまざと感じることとなった。
空き家のはずだ。誰も住んでいないはずだ。どうして明かりなんて点いているんだ。
明かりがついているのは路地に面する縁側のある居間のようで闇に慣れた啓太の眼はすぐに仔細を確認することができた。黒ずんだサンダルが一足縁側に揃えて置いてあるのが見えた。庭には無秩序に生い茂った雑草と上品さをかなぐり捨てた花があり一部路地にはみ出していた。近くには銀色のシャベルが転がっており青い街灯に照らされてその光沢の妖しさを増している。
昨日までサンダルなんてあっただろうか。シャベルなんてあっただろうか。啓太は知らず窓に鼻をくっつけるほど近づいていて鼻の頭の冷たさに気付いて一歩下がった。
部屋に明かりがあるということは今あの部屋に誰かがいるのか。ずっとここで見ていればその姿を拝めるのか。
見てはいけないもののようにも思う。幽霊の類だったらどうする。しかし幽霊が電気を必要とするだろうか。闇にひっそりと佇むのが幽霊のような気がする。昔テレビで心霊スポットを巡り除霊と称してわーわー騒いでいる霊能力者のおばさんの番組を見たことがあったが、幽霊に出会いたくなければ部屋の電気を点けて数秒待ってから中に入りなさいなどと言っていることがあった。今よりずっと幼い子供だった啓太はその言葉を真に受けてトイレの電気を点けてから何十秒も待ってからおそるおそるドアを開けるということを一時的な習慣としたけれども、一緒に同じ番組を見ていたはずの姉がドアを開けてから電気を点けるという行為に及んでなお無事に済んでいることに気付いてからは「ああ大丈夫なのか」と思い徐々にそういう意識が薄れていった。
幽霊が明かりを嫌がるのかどうかは知らないけれども進んで明かりを点けるということはしないように思う。そもそも本当に空き家なら電気が通っていないのだから照明を点けられるはずがない。空き家だと思っていた家に誰かが移り住んできたのだろう。そう思うと少し気が楽になったけれども依然恐怖が啓太を支配していた。
空き家のその一室で何かが動いた。
何が動いたのかは分からない。しかし感覚で何か変化が起きていることはすぐに感じ取った。そして誰かの影が縁側に落ちているのだと気付いた。窓際に誰かが立っているのだ。その影は少しずつ大きくなっていく。
啓太はこのまま自分が観察を続けていれば誰があの空き家に引っ越してきたのか確認できると思った。しかし見てはいけないものを覗き見ているような心地がして腰が引けた。ただ啓太の部屋の照明は切れていて向こうから少年の姿を見ることはできないはずだ。相手が幽霊ならば話は別だが幽霊が住宅を購入したり賃貸契約を結ぶことができない限り電気が点いている説明がつかない。それは幽霊が存在していると断じることと同程度には奇妙な話だ。だからあの部屋にいるのは人間で、人間である限り啓太の覗き見に気付くことはない。
空き家の窓が開き縁側に誰かが出てきた。角度の問題でつま先が最初に見えた。紺色の靴下をしている。ジーンズを履いておりどうやら男性のようだった。それがちょっと意外でてっきりあの少女が現れるのではないかと期待していたから恐ろしくも興味深い夢から醒めるような思いだった。
男はぐっと頭を突き出すように上半身を前に傾けきょろきょろと辺りを見回した。短髪の若い男。夜だというのにサングラスをしている。それはかなり奇妙なことのはずだったが幽霊との恐怖に戦っていた啓太にとっては些細なことのように思えた。
男は何かを探している。まるで誰かに見られていることに気付いているようだった。そんなはずはない――仮にそうだとしても啓太がマンションの三階から見ていることには気付かないはず。しかし一応カーテンの影に隠れるように躰を動かし顔の上半分だけカーテンから出して観察を続けた。こちらの照明は切れている。見えるはずがない。大丈夫だ。
男はやがて腰に手をつき大きく欠伸をした。サングラスを外して目を擦る。しかし街灯の明かりからは遠くかつ部屋を背にして立っていたのでその顔を観察することはできなかった。
啓太が窓に顔をくっつけるようにして男の顔を何とか見ようとしたときだった。男の視線が跳ね上がり啓太のほうを睨むようにした。
驚き躰を引きかけたが男の顔が見えそうだったので敢えて更に窓に近付けた。向こうからは黒く湿ったマンションの壁が聳えているようにしか見えないだろう。大胆不敵になっている自分が凄まじい冒険をしている気になって興奮した。大丈夫、大丈夫だ。
そのとき男が笑ったように見えた。啓太は訝った。何だか馬鹿にされているような気がした。腹立たしくなって何が何でも男の顔を拝んでやるとムキになった。
しかし啓太が鼻息を荒くしたその瞬間、世界は明滅した。
血が逆流するような感覚は自分の顔色が青くなっている証拠だ。啓太の部屋の照明が復活していた。啓太は男と目が合ったことに唖然とした。男は明らかに啓太を見ていた。カーテンから半身を出して空き家を観察している少年の顔をその目に焼き付けたはずだ。
慌ててカーテンの影に隠れた。しかし手遅れであることは分かっていた。何が起こったのか分からず天井の丸い蓋の奥の蛍光灯を睨みつけた。不安定に光が揺らいでいる。姉が部屋の電気を消したのだと思っていたが蛍光灯の寿命が尽きかけているだけだったらしい。どうして気付かなかったのだろう。どうして電燈のスイッチを入れたままにしていたのだろう。悔やんでも悔やみ切れない。
そして隣の部屋から聞こえていたゴーンという音が途絶えていることに気付いた。いつ終わったのか分からない。
隣の部屋のドアが開く気配がした。
ミシミシと廊下の床板が軋む音がする。
啓太はベッドに潜り込もうとしたが電気が点いている。と思ったら消えた。そしてまた点く。その場に立ち尽くした。自分がどうするべきなのか分からず、ただ足音が近づいてくるのを聞いているだけしかできなかった。
足音は啓太の部屋の前で消える。
ゆっくりとドアが開いた。
そこには姉がいた。顔から血を流した姉が――今朝見たときよりも酷い怪我を負った姉が立っていた。直視できずに啓太は顔を背けた。姉は優しい声音で言う。
「こんな遅くまで起きてたら駄目でしょう。明日休みだからって」
「あ――うん」
「電気消すわよ」
そう言って姉の白い指がスイッチにかかり部屋が暗くなった。ドアが閉まり姉の足音はリビングのほうへと消えた。夜食でも摂るのだろうか。
啓太はなお緊張を解くことができずその場に立ち尽くしていた。
ふと窓のほうを見ると空き家の明かりが消えていた。窓辺に立ち外を見たがあの男の姿を認めることができなかった。しかしすぐ傍にいるような気がして寒気が走りベッドに走り寄った。
布団をかぶって瞼を固く閉じる。
それで世界が遠ざかるわけではない。もう啓太はそんな事実を理解できない歳ではない。
明日が早くやって来て欲しかった。
いつも通りの朝が自分を迎えて欲しかった。
それと同時に明日が来るのが怖かった。
あの男が家の前に立っていたらどうしよう。
文字通り躰の震えが止まらなかった。
怯えているのは自分の想像力のせい。
そう言い聞かせても震えは大きくなるばかりでリビングから物音がする度に啓太は瞼をカッと見開き部屋に充満する闇に何者かが潜んでいないか確認しなければならなかった。
翌朝、啓太は予想外にも爽快な朝を迎えた。ぐっすり眠れたわけではないが目は冴え昨晩のことさえ思い出さなければ陽気に振る舞えたに違いない。
いや思い出さなくとも姉の顔を見れば驚愕すると同時に恐怖を感じその爽やかな気分はたちどころに萎んでいたことだろう。啓太と姉の起床時間は偶然にもほとんど同じで廊下で行き会った。
姉の顔面はなおいっそう酷いことになっていた。
それは黒い海だった。顔面の半分以上を黒い瘡蓋が占領している。罅割れて薄紅色の液体が噴出し表面を覆い異様な色彩を帯びている。顔面の輪郭は歪んでいるどころか横長に拡張し甲殻類の外殻を連想させるような巨大な出来物が無数に頭を出していた。額の瘡蓋は激しく裂けて今も血が流れ出ていた。その鮮血は鼻筋を通り口元に流れ顎の辺りで滞留し幾つかの出来物と共に活火山のような紋様を形成している。唇は赤く染まり白い歯のほとんどが欠けて鋭利な切っ先が口の中をずたずたに引き裂いている。衣服も血まみれでよく見れば両肩の辺りにも傷があったり指の何本かが異様な方向に折れ曲がっていたりした。
絶句した弟を見た木乃香はおはようと挨拶をした。啓太は挨拶を返せず姉がコツンと頭を叩いてきた。
「挨拶くらいしなさい」
「……おはよう」
「おはよう。今朝は良い天気ね」
しかしそれどころではないことは明白だった。案の定リビングに顔を出した姉は両親にその惨状を発見されて怒鳴られた。
「いったいどうしたんだ!」
「ますます酷くなってるじゃない!」
その剣幕に姉は不機嫌になるどころではなく、父に引き摺られるようにして家の外に連れて行かれた。
「ちょっと待って、どこに行くの」
「病院に決まってる! それとも警察署のほうがいいか?」
「警察って……」
「いいから来い!」
両親と姉はわあわあ騒ぎながら瞬く間に啓太の前から消えてしまった。家で一人になってしまった佐倉家の長男は昨晩の出来事もあり一人で過ごすのは心細かったが、夜の闇はとうに晴れて精神は落ち着いている。誰かが来ても家に閉じ籠っていればいいんだと思い戸締りをしっかり確認した。
土曜日の午前中はいたって平穏だった。色々と心配事はあったがここは隔離された空間で世の中にどんな大惨事が降りかかろうとも自分は無関係だと思えるようなゆったりとした時間が流れていた。
あの不気味な少女やサングラスの男がどんな危ない人間だったとしても、あるいは単なる善良な一市民だったとしてもこの家にいれば関係ない。不安に思うことも安堵するようなこともない。ただ時が過ぎるのを待つだけ。
しかしカップラーメンの昼食を食べ終わった後にこのまま何もしないで良いのかと悩むようになってしまった。そして姉の部屋で何が起こっていたのか探るべきじゃないかと思いついた。これまでは意図的に目を背けていたのだ。姉が彼女の部屋で何をしているのか床を見れば一目瞭然だと思った。
思い立ってすぐに姉の部屋に向かう。いつ帰ってくるか分かったものではなかった。夜に姉が部屋で何をしているのか興味半分恐ろしさ半分。見ないほうが良いのではないかという囁きも確かにあったが見ないで妄想を膨らませたまま夜を迎えたほうが自分の場合よほど危険だという判断もあった。
姉の部屋の前に立つ。ドアノブに血の手形が残っていた。あれだけの傷を負っているのだから無理もないがべっとりと付いた赤い手形の大きさに疑問が湧いた。自分の手を重ねてみる。手形が明らかに小さい。姉の手はこれほどまでに小さかっただろうか。手を重ね合わせて大きさを比べたことなど一度もないので分からない。けれどあの少女の姿がちらついて首を横に振った。サングラスをかけた男ならともかくどうしてあそこで少女の姿を思い出してしまうのか理解に苦しむ。
ドアノブに触れてその血が固まって出来た僅かな凹凸を感じながら回す。ざらついていて血液が粉状になって零れ落ちる。ふと視線を足元に向けるとドアの隙間から黒い血の跡が廊下に流れ出ていた。
ぎょっとした啓太は跳び上がりドアノブから手を離した。そして部屋の中が想像以上におぞましいことになっていると覚悟した。
もちろんここで姉の部屋を見ずに引き上げることが今夜の安寧を破壊することになると分かっていた。自分の想像力によって押し潰されかねない。だからここで逃げるなんてことは考えなかった。ただここに両親のどちらか一人でもいてくれたらこの恐怖を共有できたのにと思うと自分を放置した二人に幾許かの怒りが湧いてきた。
そうした怒りもすぐに消えてドアノブに再び手をかける。思い切って一気に開けた。
部屋はまるで殺人現場だった。
無論啓太は本物の殺人現場なんて見たことはないが人を殺したらこんな感じになるのではないかという想像力は働かせることができる。四面の壁と天井全てに夥しい量の血が付着している。濡れた手を振り回して水滴が辺りに散らばったかのような分布。悪趣味な水玉模様が白い壁紙やポスターに浮き上がり床には額を擦りつけたかのような血の跡が残っている。こんなにも大量の出血をして無事でいられるのかというほどの赤の圧迫に啓太は一歩下がった。部屋からは何の臭いもしなかったが腐臭の予感とでも言うべきか鼻がヒクヒクいって一瞬だけ呼吸困難に陥った。
額を床に叩きつけただけではなく叩きつけた後に頭を滅茶苦茶に振らなければこんな血の付き方はしていないだろう。姉が白目を剥きながら頭を床に激突させ狂ったように身を捩り部屋中を飛び跳ねる光景を想像してぞっとしたが、冷静になって考えてみるとそれだと物音が凄まじいはずだ。実際には深夜に目立つ程度の騒音しか姉の部屋からは聞こえてこなかった。
それが何を意味するのか啓太にはまるで理解できなかったが、すぐにここから立ち去りたかった。けれども自分の想像力というものが厄介な形に捻じれて夜に襲いかかってくることを思うとまだ逃げるわけにはいかなかった。どうしてあれほど物音が少なかったのに血が飛び散っているのか探らなければ納得できない。
意を決して部屋の中に踏み込んだ。カーペットに染み込んだ血液を避けて通ることは不可能だった。それは尖っていて啓太の柔らかな足の裏を刺激した。そろりそろりと部屋を進み何か他に変わった点はないかと探し回った。
ふと目についたのは窓だった。窓が半開きになっている。カーテンは全開で風に靡いて小さく波打っている。まるで自分をいざなっているかのようで、啓太は窓辺に立った。
啓太の部屋の窓からは隣の空き家を見下ろすことができたが姉の部屋もそうだった。ただし啓太の部屋からは一軒家の庭とそれに面する縁側を視認することができたが姉の部屋からはその家の門と黒い玄関の扉、それから庭の端をなんとか確認できる程度で見える範囲がかなり違っていた。あの邪魔くさいブロック塀がなければ二つの窓からあの家の全容を確認できるのだろうけれど。
窓枠に目をやると血が大量に付着していた。床や他の壁と比べても集中度が違う。啓太は不審に思い更に近づいた。窓にも頭を擦りつけたのだろうか。窓枠の尖った角に頭をぶつける姉の姿を想像しただけでも痛い。啓太は顔を顰めたが窓枠のみならず外の窓付近の壁にも大量の血が残っていることを発見し首を傾げた。
そして視線を下げる。
そこには赤黒い梯子がかかっていた。
と言っても何かがあったわけではない。ないのだ。欠落している。壁が抉り取られてまるで壁に拳を突っ込みながら下と姉の部屋までを昇降したかのような跡があった。壁の穴に沿って黒ずんだ血が直線的に付着しておりまさに梯子。何者かが通常では考えられない方法で姉の部屋までやってきたことは明らかだった。
これまで姉の怪我に関連して啓太は色々と想像を巡らせてきた。異物の存在を予感しながらも姉が狂ってしまっただけだと心の底では思っていた。しかし姉ではない何かがこの家に侵入しているという決定的な証左を発見してしまい動転した。これは夢ではないだろうかと頬をつねりたかった。実際目の前の光景はどこか浮ついているように思う。視界の隅に入ったのは例の空き家の郵便受け。郵便局員がバイクに跨ったまま何かを入れた。人間が住んでいる。いや人間のフリをした何か。あの家の誰かがここを赤黒い梯子を通って姉の部屋まで来たのだ。根拠なんて一つもないがそうとしか思えなかった。そして姉を痛めつけた……。
「勝手に入っちゃ駄目だって言ったでしょ」
声がした。
振り返る。
目も鼻も口もない白い頭の怪物が啓太に触れようと腕を伸ばしている。
「わあああああ!」
絶叫した啓太の肩を怪物は掴む。そして白い表皮から口吻を出現させてにやりと笑う。
「私よ。木乃香。馬鹿ね」
怪物はそう言って弟の肩を揺さぶった。すぐに啓太は白い頭の怪物が包帯をぐるぐる巻きにされた姉だと気付いて脱力した。その場に座り込む。
「どうしたのよ。叫んじゃって、情けない」
「いつ帰ってきてたんだよ」
「今よ。とにかく、もう勝手に部屋に入らないって約束して」
「分かったよ」
啓太は膝に手を置いて立ち上がり、はあと溜め息をついた。
廊下に出て振り返り表情の見えない姉に向かって、
「病院に行ったの?」
「そうよ」
「何て説明したの」
「説明? 何の?」
「その傷の説明だよ。医者だって驚いただろ」
「そりゃあ、驚いたけれど。皆大袈裟なのよ」
大袈裟じゃないと言っても姉は不満そうな顔をするだけだろう。啓太はぐっとその言葉を飲み込んでから、
「で、説明を求められたんだろ。どう説明したんだよ」
「ベッドから落ちたって」
「嘘だ。じゃあどうしてこの部屋はこんなに血まみれなんだよ」
「血まみれ?」
「そうだよ」
「何を言ってるの。おかしいんじゃないの」
「おかしいのは姉ちゃんだろ。どこからどう見ても血だらけ、ベッドから落ちただけじゃ天井に血が飛び散ることもないだろうし」
「天井に血? ふふふ、おかしな子」
そう言って姉は啓太の頭を撫でた。
「疲れてるんじゃない。最近、啓太の表情が暗いから気になってたんだ」
「おれを心配してる場合かよ。姉ちゃんのほうが絶対心配だって」
「学校で嫌なことでもあったの? 良かったら相談に乗るけど」
学校では嫌なことばかりだ。けれど今はそんなことを話している場合ではない。このままだと姉がどうにかなってしまうのではないか。話してみれば姉がまだ優しい女性であることに変わりない。でもこのまま今起こっているおぞましい何かを放置すれば姉が壊れてしまうのではないかと思うと引き下がれるわけはなかった。
「姉ちゃん、本当に何も分からないの? 本当に自分の傷は大したことないって思ってるの? 本当に部屋が血まみれだって気付いてないの? 本当に?」
「どうしたの、啓太。必死な顔して。……まったく、今朝からお父さんもお母さんも、啓太までおかしい。昨日もおかしかったけど今日はとびっきりおかしい」
「だって、姉ちゃん……」
「いいから。ちょっと休ませて。父さんったら私を入院させようとしてね、無理矢理逃げ帰ってきたのよ。しかも精神科――あり得ないでしょ?」
あり得なくない。何者かが姉の部屋に通っているのだとしたら病院に避難するのは良いかもしれない。
「入院したほうがいいよ」
「冗談じゃないわよ。大学だってあるのに。読者モデルの仕事だって」
「え?」
予想外の言葉だった。読者モデルという単語。まさかその醜状で出るつもりなのか?
姉は狂っていると思った。現実が見えていない。包帯でぐるぐる巻きになったそんな姿で仕事に行ったら現場は騒然となるに違いない。
「姉ちゃん……」
「啓太、悪いけど、一人にして。朝から父さんの怒鳴り声とか母さんの金切り声を聞かされて疲れちゃった。ごめんね」
最後のごめんねという言葉が別の意味に聞こえて啓太はなおも問い質そうとしたけれども姉は自分の部屋に消えてしまった。ドアノブが回らない。鍵をかけてしまったようだ。
今夜も得体の知れない何かが姉の部屋を訪れて嬲るのか。
そう思うと恐怖より怒りが湧く。何の権利があって姉をそんな目に遭わせているのか。
ドアをどんどんと叩いて姉を呼んだが返事はなかった。しばらく粘ったがやがて諦めて溜め息をついた。
自分の部屋のドアノブに手をかけたときふと廊下の先にある玄関に目をやるとチェーンが垂れ下がっているのが見えた。
姉たちが外出した後に戸締りはしっかりやった。
チェーンロックだってかけたはずだ。
どうやって姉はチェーンを外したのだろう。
啓太は姉の部屋に侵入した何者かが今は家の外にいるのだと決めつけている自分の浅はかさに気付き愕然とした。
途端自分の部屋に重苦しい空気が垂れこめているように感じて慄いた。ドアノブをおそるおそる回して中を覗き込むと何もいなかった。
机やベッドの下、押し入れの中、天井の隅などを丹念に調べてやっと安心を得た。
何かが家の中にいる。
その何かがチェーンを外して姉を家の中に入れた。
馬鹿馬鹿しい想像だろうか。しかし姉の部屋の窓下にあった穴を見てしまった以上単なる想像で済まされるものではない。早く両親が帰ってきてくれるように祈った。
今はまだ昼。夜が来たら自分は耐えられるだろうか。この家にいて良いのだろうか。啓太は答えを知りたかった。姉は無事に済むか。自分は。両親は。
不安だった。けれど自分に何ができるのか分からなかった。親が帰ってきたら全てを話すんだ。それしかないと思えた。そうして啓太は昨晩と同じように部屋の中で静かに震えていた。この選択が正しいとはどうしても思えなかった。きっと外に飛び出して逃げるしかないんだと思った。けれど外に飛び出してどこに向かえばいいのか。警察か? 友達の家か? 現実的ではなかった。そして現実とは思えない恐怖がこの家に襲いかかろうとしていることに眩暈を覚えた。何が起こっているのか知りたい。最終的に啓太をこの家にとどまらせたのはそうしたつまらない好奇心だったのかもしれない。
*
染谷権十郎はこの世に奇跡があることを知っていた。世界で最も知られている奇跡はキリストの復活だろうが結実子にも似たことが起きた。ただし彼女の宗教を信仰しているのは自分一人でありそれが彼には誇らしかった。
奇跡というのは極めて低確率で起こる事象が世の中に顕現するという意味では断じてない。けして起こり得ないことが起こるから奇跡なのだ。一度死んだ結実子が今日も元気に跳ね回っていることを理屈で解することは不可能である。ただ現実に起こったということを確認してそれで良しとするしかない。
結実子の死に様は凄絶だった。踏切で飛び出し電車に轢断され臓物が弾け飛び近くに停まっていた車のボディに穴を開けた。吹き飛んだ頭部が遮断機に激突してバーをへし折り眼窩に木片が引っ掛かりぶらぶらと宙に浮かんだ。しばらくシャワーさえ浴びていなかった彼女の長い黒髪はぬめりのある光沢を放ち風が吹いてもほとんど動かなかった。
染谷は結実子のこれ以上ないほど確実な死を目撃し現場から逃走した。保護者だと思われるのはまずい。
結実子は染谷が攫ってきた子供だった。早朝ピンクのランドセルを背負い一人で畦道を歩いていた彼女におはようと挨拶した。彼女は返事をせずに彼を無視して行こうとした。その態度が気に食わず車に押し込めて乱暴した。性的な意味ではなく、単に殴って楽しんだのだ。ちょっと楽しんだだけではもったいないと思い、殺すのはよして世話をすることにした。東京の自宅に彼女を連れ込むのは今思えばかなり危険な行為だったが盲目だった。一か月ほど共に過ごしてあまりに彼女が大人しく自分に心を開いていると感じたので共に外出することにした。開き直って兄妹か親子のように振る舞えば周囲からも怪しまれないだろうと思ったのだが目の前で彼女が自殺し自分の思い違いだったと気付き狂ったように泣いた。
結実子が転居したアパートの一室に現れたのは彼女が死んでから三か月ほど経った月夜のことだった。染谷は当然それが彼女の幽霊だと思ったのだがそうではなかった。呼吸をし食事と排泄を必要としているれっきとした人間だった。
最初は恐怖しかなかった。結実子の頭は狂っていた。食べ物の好き嫌いが激しく空腹になると暴れる。生前はごく普通のか弱い女の子だったのに復活した後は異様な怪力で分厚い鉄の扉を引き千切ることもあった。
しかし基本的には大人しく、彼女と一緒に過ごすのはそれほど難しいことではなかった。勤めていた食品会社を退職することになったが不思議と後悔はなかった。
結実子の異様な言動はすぐに近所の評判となり住居を転々とする日々が続いた。染谷は貯金を切り崩しなんとか生計を立てていたがいずれ破綻が訪れることに気付いていた。そのとき結実子は野に放たれ怪物として恐れられることになるのだろうか。それだけは阻止したかった。
「学校に行きたい」
それは結実子の口癖だった。
登校中に結実子を攫い殴ったことが関係しているのか。
誘拐して一緒に暮らしていたときも学校に行きたいと漏らすことがあった。家に帰りたい、ではなく。
そんなに学校は楽しい場所だったのかと死んだ後の結実子に訊ねたことがあった。
「分からないの。楽しいことがあったら良いなって思うけれど分からないの。それが知りたいの。染谷は知ってる? 学校は楽しい場所なの?」
「人それぞれじゃないか。僕は全く好きじゃなかった」
「楽しくなかったの?」
「楽しいことがなかったわけじゃない。けど、好きじゃなかった。学校では人が集まって色々やる。その中に楽しいこととか苛立たしいことがたくさんある。楽しいことばかりすれば学校は楽しい場所ってことになるだろうけどあいにく僕はそういうことを避けてた」
「どうして? 楽しいことから逃げるなんておかしい」
「学校が楽しい場所だって発想がなかったんだよ。耐え忍ぶ場所だとずっと思ってた。早く家に帰りたかった」
「じゃあ私は楽しいことから逃げなくてもいいの」
「もちろん」
「じゃあ教えて」
「何を?」
「学校では色々とやるんでしょ? 楽しいことを教えて。何をすれば楽しくなるの。学校ではどんな楽しいことがあるの」
染谷には何と答えれば良いのか分からなかった。たとえば楽しいことに給食の時間に談笑することを挙げてもそれを結実子が実際に体験するのは不可能ではないか。彼女は死んだことになっている。この世に存在しない人間だ。学校の給食にありつくことは難しい。学校に通うことができない彼女に学校の楽しみを教えたところで実現できなければ落胆するだけだろう。
学校といえば何だ。勉強か。交友か。遊びか。遊びといえば何だ。鬼ごっこやケイドロは相手がいなければできない。一人遊びといえば何だ。竹馬か。一輪車か。縄跳びか。
縄跳びが一番しっくりきた。竹馬や一輪車も悪くないのだが染谷はそれらで遊んだ記憶が全くなかった。それに縄跳びが最も出費が少なく済むと思った。
「縄跳び?」
結実子は首を傾げて目をぱちくりさせた後くすくすと笑った。
「何だか楽しそう。楽しそうだね。跳ぶんだね」
「そう。縄を跳び越えるのさ」
染谷はその会話をした翌日には縄跳びの縄を買ってきた。しかし結実子の怪力は想像を絶し数回跳んだだけで柄の部分が引き千切れて使い物にならなくなった。
「物は大事にしないと」
「大事に?」
「そうだよ。すぐに壊れてしまうから」
「壊したらどうしていけないの」
「壊れたらもうそれで遊ぶことができなくなるだろ」
「新しいのを持ってきてよ」
「僕にはあまりお金がないんだ。お金がないと新しい物を買えない」
「ふうん」
そのとき結実子は奇妙な質問を口にした。
「染谷も物?」
「うん?」
「染谷も物なの? 壊したらいけないの?」
染谷は恐怖した。どういうつもりで言っているのか分からずに少女の美しい相貌をまじまじと見た。
「僕は物じゃない――人だ」
「人は壊してもいいの?」
「駄目だ。物以上に大切にしないと駄目だ。絶対に壊してはいけない」
「もし壊したらどうなるの」
「……自分が壊されても文句は言えない。どんなに痛めつけられても文句は言えない。そういうものなんだ。痛いのは嫌だろ?」
「うん。そっか。じゃあ、物と人ってどうやって見分けたらいいの?」
「え? 見たら分からないか?」
「分からないの。教えて。ねえ、教えて」
染谷は思案した。そして、
「挨拶をして返さなかったらそれは物だ。挨拶を交わすことができればそれは人だ」
「ふうん……。でも染谷は私が挨拶をしたとき返事をしないときがあるよ。そのとき染谷は物になってるの?」
「そうだな」
染谷は思わず笑った。子供特有の柔軟過ぎる発想に愉快な気分になった。
「また新しい縄跳びを買ってくるけど、ちゃんと大切に使うんだぞ」
「うん。分かった」
結実子は手を上げて頷いた。その白い肌と小さな手。普通の子供にしか見えない。
けれど結実子は普通ではない。
人間と呼ぶのに躊躇いを感じるときがある。他にしっくりくる名称を挙げるとするなら悪魔。
怪物と呼べるほど凶暴ではない。ゾンビと呼ぶにはあまりに美しい。狂気と魅力を兼ね備えた悪魔。悪魔と呼ぶのが相応しい。
結実子はいつか染谷を滅ぼすだろう。しかし自業自得であると彼は考えている。彼女を誘拐し殴りつけ自殺に至らしめた。刑法は彼を懲役刑に処するだろう。ただし被害者たる少女にだけは染谷を存分に苦しめる権利がある。いつ彼女に殺されてもいいと思えるからこそ一緒にいるのだ。
それが贖罪になるとは露ほども思っていない。そもそも贖罪したいと思っていない。ただ彼女にはその権利があると考えているだけのこと。
「ろくな死に方をしないだろうな」
染谷は思う。少なくとも電車に轢かれて粉々にされた結実子よりも酷い死に方になる。それが公平というもの。
世の中不公平ばかり目につくけれど最後には帳尻が合うようになっている。奇妙なことだが自分にどんな死に方が用意されているのかと想像を巡らせていると染谷は少し楽しみに思うこともあった。
*
夜になっても両親は帰ってこない。二人の携帯電話にかけてみたけれど出てくれない。部屋に籠った姉はどれだけ呼びかけても返事をしない。
凍ったような夜。テレビから漏れる空虚な音。夕食の時間になって空腹に気付き冷凍庫の中にあった冷凍食品を食べることにした。電子レンジの中の皿がゆっくりと回転する様を意味もなく見つめていた。
食事を終えても一人だった。テレビを消して自分の部屋に引き揚げた。明日は日曜日でこんな状況がまだ続くのだろうかと懸念したとき玄関から物音がした。
両親が帰ってきた。
啓太はほっと一安心した。一人でこの夜を乗り越えるのはあまりに心細い。自分の部屋から廊下に出るとちょうど姉も廊下に顔を出したところだった。否、顔は出していない――包帯ですっかり埋もれてしまっていたので。
姉は片足を引き摺るような足取りで両親を出迎えた。啓太も姉の後ろについた。そして家族以外の人間が両親の間に佇んでいるのを見た。
にこにこと不気味なほど明るい笑顔を浮かべている両親の間に、白いワンピースを着たあの少女が立っている。啓太はその場に立ち尽くした。
どうして駅前で出会ったあの少女が家に?
両親は少女とぺちゃくちゃと談笑している。姉が少女に来客用のスリッパを差し出した。少女はそれを物珍しそうに見つめた後指先につっかけるようにして履いた。
「こんばんは」
少女が笑みを浮かべて挨拶をしてくる。啓太は正直少女なんて無視して部屋に引き籠りたかったが、
「こんばんは」
発作的に返事をしてしまっていた。そして両親に向き直り、
「この子は?」
しかし質問は無視された。両親はぺちゃくちゃとお喋りをしている。少女が一言言うと過剰に反応し大袈裟に驚いたり悲しんだりする。すっかり仲良くなっているようだがどういう経緯があって家に招いたのか想像できない。四人がリビングに消えた後啓太は一人取り残されたが玄関の鍵がかかっていないことに気付いて施錠した。
母親が意気軒昂とキッチンで料理を始めた。少女はいつもなら父親が占領している食卓の一角にちょこんと腰掛けた。父親は啓太の席に移動して意味もなく笑っている。その向かいに座った姉は首を鳴らしながら頭を振って恐らくは笑っている。母親の鼻歌が聞こえてきたが音程が不安定で父親の笑い声と不協和音を奏でているようで不快だった。少女がテレビをつけてあれこれと質問を始めた。五歳児が思いつくような幼稚な質問ばかりだったが父親と姉が代わる代わる懇切丁寧に解説し、ときに母親が包丁を片手に持ったままキッチンから飛び出してきて話に割り込んでくることもあった。
四人が楽しげに話しているのを啓太は茫然と見つめていた。母親が思い出したように啓太のほうを見て「もう夕食は食べたの」と尋ねた。やっと構ってもらえてこの上なく嬉しかったが「食べたよ」と答えると「だったら作る前に言いなさいよ!」と怒鳴られてしまった。
啓太は自分の部屋に戻りたかった。しかし姉の部屋の異常を両親に伝えなければならないと思っていたので何度も声を張り上げて一同の注意を惹こうとした。けれど父も母も姉も佐倉家の長男を徹底的に無視した。声を上げて啓太のほうを向いてくれるのは白いワンピースの少女だけだった。それも魅力的な笑みを浮かべながら小首を傾げてどうぞ先を話してごらんと促しているかのようだった。
啓太は少女を不気味に感じていた。絶対に少女にだけは話しかけまいと思っていた。しかし家族に無視され少女だけ優しい表情を見せてくれるので彼女を嫌悪する気持ちがどんどん薄れていった。
食卓はクリスマスや誰かの誕生日でも見ないような豪勢な料理で埋め尽くされた。いただきますと父が言うと少女が真似をして両の掌を合わせて頭を下げた。食事が始まっても誰もが楽しそうに話をしていた。
少女はスプーンを持ってポタージュスープを飲もうとしていたが持ち方がぎこちなくほとんど全てをテーブルの上に零していた。やがてテーブルの四分の一ほどの範囲を汚した後に諦めてフォークを使いエビフライを突き刺して口の中に放り込んだ。
少女はしばらく美味しそうに食事を続けていたが突然立ち上がり首を横に振った。そして胃の内容物を一気に吐き出した。
食卓の上にあった料理に嘔吐物が降りかかった。啓太は驚いて飛び退いただけだったが他の家族の反応は異常だった。
まず母親は少女に体当たりを仕掛けるかのような勢いで近付き背中をさすった。大丈夫かな大丈夫かなと甲高い声で喚きながら口の近くや少女の服に付着した汚物を啜り舐め取った。啓太は叫び出しそうになった。何をしてるんだ。しかし声を出す前に父親の怒鳴り声が鼓膜を打ち震わせた。
母親の髪を鷲掴みにして前後左右に振りながら握りこぶしで眼球の辺りを繰り返し殴りつけた。ぎゃああという悲鳴が聞こえても父親は渾身の力を込めて母親を殴り続けて、
「結実子ちゃんに何を喰わせやがった何を何を何を喰わせやがった!」
暴力を止めるなどとは思いつかなかった。目の前の光景が信じられなかった。姉が食卓の上に立ち料理を蹴散らし自分の頭を包み込んでいる包帯を引き千切った。
「こんなまずい料理は食べないほうがいいわこれを食べて」
と差し出したのは自分の顔面から抉り取った黒く大きな瘡蓋だった。啓太は唖然としたが更に驚いたことに少女はそれを受け取りパリポリと美味しそうに食べた。
狂っている。こいつら全員狂っている。
母親が吐いている。父親がそれを浴びながら少女に謝っている。姉は食卓から滑り落ち顔面をテーブルの角に打ち付けて更に肉を抉り取ろうとしている。少女はにこにことしている。そして変わらず啓太に視線を向けているのは少女だけだった。
これは夢だ。
そう信じたかった。
たとえ現実だとしても夢ということにしたい。
全て夢ということにして明日は平和な日曜日になって欲しい。
今日はさんざんだった。
本当に、さんざんだった……。
啓太はベッドの上で覚醒した。部屋は闇に包まれていたがここが自分の部屋だということはすぐに理解した。窓のカーテンは全開で月の光が差し込んでいる。もしかすると外の街灯の明かりだったかもしれない。けれど確認する気は起きなかった。窓辺に立ったら空き家に住むあの男に見られてしまうと思ったから。
時刻を確認すると午前零時を少し回ったところだった。枕に頭を預けながらさっきの光景を思い出しあれは夢だったんだろうかと思った。
あれだけじゃない。姉が顔面を負傷していたのも隣の空き家に不審な男が住んでいることも駅前で少女と出会ったことも全て夢であって欲しい。長い夢を見ていただけということにして欲しい。そうすればもう心配事は消えてなくなる。
でもそれは過ぎた願いなんだろう。きっと全てが夢だということはない。あの少女は実在するしサングラスをかけた不気味な男だって今も隣の家に住んでいるはずだ。
少女が家に訪問してきたことは夢であっても不思議ではない。そうあって欲しい。啓太はしばらくベッドの上で蹲っていたがいつまでもこうしていられないと思った。
部屋の外に出るとすっかり寝静まっていた。廊下の照明を点けて玄関に行くと少女のものと思われる靴が一足置いてあった。先ほどの光景は夢ではなかったらしい。
このまま外に飛び出して逃げ出したくなった。けれど数分経ったら後悔するだろう。どこに行けばいいのだろう。この家に居場所がなくなったらどうすればいいのか分からない。
尿意が強くなった。トイレなんか行ってる場合ではないと思ったが垂れ流しにするわけにもいかない。夜にトイレに行くことが怖い年齢では既になくなったけれども、今夜だけは恐ろしかった。
トイレの明かりを点けて中の様子を探ってから入る。ズボンのチャックを開けて管を引っ張り出した直後に勢い良く真っ黄色の尿が噴出した。手に少しかかりうんざりした。粗方搾り出した後にトイレットペーパーを少し引き千切って手を拭いた。便器に湿った紙を投げ棄てる。水に流したところで、
ゴーン。
姉の部屋のほうからまたあの音がした。
ぎょっとした啓太は腰を引き陰茎の先に残っていた尿を床に何滴か落とした。慌てて下着の奥底に仕舞った。壁に背を預けるようにして座り込んでしまいそうになるのを何とか防いだ。
ゴーン。
音がまた鳴った。何かが起きている。
逃げたい。けれどまた姉が痛めつけられているのだと思うと悔しさが滲み出てくる。恐怖が圧倒的に大きいけれどもどうして自分や姉がこんな目に遭わなければならないのかと義憤が湧き上がってくる。
読者モデルの仕事を掴んだ姉。美人ではないかもしない。足が長いのは無駄だの宝の持ち腐れだのと言われ続けていた。でも無駄なんかじゃなかった。読者モデルとして選ばれたのだから誰にも無駄だったなんて言わせない。両親も娘が誇らしかったに違いない。啓太だって本音を言えば誇らしかった。クラスの誰かに小馬鹿にされたらきっと怒りを抱くだろう。お前がおれの姉ちゃんの何を知ってるんだ。足が長いのはコンプレックスだったのにそれを乗り越えて人前に晒すようになった。深い悩みだとか葛藤だとかあってやっとあの雑誌に出られるようになったんだぞ。誰にも笑われたくない。誰にも壊されたくない。
なのに。
啓太はトイレから出た。そして洗面台に行き手を丁寧に洗った。手を洗い終わったら姉の様子を見に行くんだ。もし鍵がかかっていたら出てくるまでドアを叩き続けるんだ。そして深夜なんだから静かにしろと不機嫌な顔を作って言ってやるんだ。姉の酷い傷を見ていい加減にしろと言ってやる。それで全てが終わるといい。悪いもの全てを追い出してまた家族皆で笑い合えればいい。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン……。
音は続いている。手を洗い終えタオルで指先まで丹念に拭き取り鏡の前で頷いた。そして姉の部屋へと向かう。
部屋のドアはほんの少し開いていた。まるで誘っているかのようだった。隙間から中を覗き込んだが真っ暗で何も見えなかった。しかしゴーンという鈍い音に何かラケットを素振りしているかのような鋭い音や鳥の羽根のような軽いものが床を這う音が混じっていることに気付いた。
敢えて文字で表現するならヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ……。
音は等間隔で鳴っている。ときどき何かが潰れる音がしたが姉の顔面から血が噴き出ている音だと想像した。おそるおそるドアの隙間に指をかけて開いた。
廊下の明かりが部屋に指し込む。何かが躍動しているのは分かる。しかし空間全体がうねっているように感じられて何が起こっているのか理解できなかった。
壁に指を這わせる。
部屋のスイッチはどこだ。
電気のスイッチを入れれば全てが分かる。
この部屋で何が行われているのか。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴガゴッ。
音が鳴り止んだ。
噛み合っていた歯車に異物を挟み込んだかのような音。
「ごめんね」
少女の声がする。
「ごめんね。もっと上手くなるから。壊れないでね。練習しないといけないの。だから壊れないでね。壊れないで」
シュルシュルシュル。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
啓太は息を殺して躰を前のめりにする。
雨が降っていた。
ここは室内なのだから雨なんて入ってくるはずがないしそもそも外は晴れている。しかし首筋や顔に冷たい何かが当たる。ときどき大粒の雨がぶつかってきたがそれは生暖かった。
疑問に思いつつも壁に這わせていた指にスイッチが触れた。
一瞬躊躇した。見てはいけないものを見ることになるのではと思うと心臓の音がうるさくなった。けれどここで引き下がれるはずがなかった。ここまで来たのだ。見てやる。そして姉を助けるんだ。
スイッチを入れた。
半秒のタイムラグ。
点滅する蛍光灯。部屋の中で躍動しているものの正体が分かった。
啓太はスイッチを切ろうとした。しかし濡れた床のせいで尻餅をついてしまった。立ち上がろうと思っても腰が抜けてしまった。
蛍光灯が部屋の全容を照らし出す。
そこには白いワンピースの少女と木乃香がいた。
少女は木乃香の両足首を掴んでいる。
木乃香をぶんぶんと振り回して姉の股間を跨いでいる。
まるで姉の躰を使って縄跳びをするかのように。
しかし少女より木乃香のほうが背が高い。少女が「縄」を回すたびに姉の顔面が床に激突している。血に染まった頭髪を床の上に引き摺った後少女は力を込めて「縄」を持ち上げてだらりと垂れ下がった姉の腕を自分の肩より前に器用に動かして姉の均整の取れた躰を見上げてから勢い良く振り下ろしタイミング良く跳躍する。その瞬間姉の顔面に刻み込まれた酷い傷口から血が飛び散り部屋の壁に染みを作る。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ……。
悪夢だった。啓太は姉が縄跳びの縄として少女に振り回されるたびに血を浴びた。このままだと姉は死んでしまう。それは分かっていた。
けれど助けたいなどとは露とも思わなかった。逃げなければならない。それしか頭になかった。それさえ満足にできないのだから誰かを助けたいなどと考えを巡らせられるはずがない。
少女が姉の股間に足を引っ掛けてつまずいた。姉の首が不自然な方向に折れ曲がって少女が申し訳なさそうにした。足首から手を離す。
「ごめんなさい。ごめんなさい。もっと上手くなるから」
そう言って姉の顔を覗き込む。
「壊れそうだわ。向きを変えようかな?」
顔面ではなく後頭部を床に打ち付けよう、と言っているのだろう。
それには姉が抗議した。歯はほとんどへし折られ瞼は既に開かず腫れ上がった肉が覆い尽くした顔面でもちゃんと口は動くし声は出せるようだった。
「後頭部はやめて。傷をつけるのは顔だけにして」
「どうして?」
「だって、後姿だけは昔から自信があるから。それがなくなったら私死にたくなる」
たぶん姉は笑った。そして自ら足首を少女に差し出した。
「結実子ちゃん、縄跳びが上手くなって学校で一番になれるといいね」
「一番になれるかな?」
「なれるよ。こんなに練習しているんだから」
姉の優しげな声。
誰かが拍手している。
いつの間にか啓太の背後に両親が二人並んで立っていた。
「その調子だ、結実子ちゃん!」
「頑張って! ほらちゃんと木乃香の足首を持って!」
啓太は両親を押し退けるようにして部屋から這い出た。
もうこの家にはいられない。
逃げなければ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
音が追いかけてくる。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
家から出た。それでも聞こえてくる。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
鼓膜の中にあの少女が居座っているような。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
乗り込んだエレベーターの中で蹲った。もう家には戻れないと覚悟した。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
エレベーターが一階に着く。扉の向こうではサングラスをかけた男が腕を組んで待っていた。啓太は無慈悲にも扉が音を立てて開くのを茫然と見つめていた。
男がエレベーターに乗り込んでくる。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴーシャ。
ヒュッゴガゴゴ……。
以上となります。お読みいただきありがとうございました。




