ディジー・エスティバンとキアラン・バータル 6
フェルマー・ワイルズの定理を思い出した一方で、なぜこれは頭に鮮明に思い出せるのか、と疑問に思った。主人公補正の原理で言えば、思い出すことすらできなかったであろう。
もしや、と私は思い、先ほどキアランが描いた正方形の縦横の線を十字に伸ばした。そして、横の線にX軸、縦の線にY軸と書いた。その瞬間、私の中に滞留していた雲が一瞬にして晴れた。すっきりと、その図形や三平方の定理や証明方法が理解できる。まぁ、中学生の数学程度の知識だから、主人公補正という名の呪いさえなければ理解できるのは当然なのだけどね……。
X軸とY軸によって作られるデカルト座標系は、主人公補正の対象外ということなのであろう。「幾何学」という範囲であれば、容赦なく主人公補正がかかるが、座標軸の中に入れてしまえば、それは幾何学、つまりユークリッド空間としての把握ではなく、デカルト座標として把握していることになる。この世界ではまだ座標という概念がないから、主人公の補正がかけられないということなのだろう。デカルトは17世紀の人間だし、このブルスプの時代設定はそれより前ということなのだろうか……。中世ヨーロッパ風な世界観のくせに、入学式に桜が咲いているようないい加減なゲーム設定ではあるんだけどね……。
まぁ、一言でまとめてしまうと、座標という概念は、この世界ではチート扱いになっているということなのであろう。
やったぁ、と私は嬉しく思う。「幾何学入門」の授業に置いて、X軸、Y軸を書いて問題に取り掛かれば、それは主人公補正の対象外ということなのだから、普通に対応できるはずである。そうすれば、キアランから勉強を教えてもらう必要もないし、そうすれば、ディジー・エスティバンから嫉妬されることもないし、嫌がらせを受けるようなことはないはずである。
フラグ回避の光明が見えてきたというわけだ。あとは、ディジー・エスティバンとキアラン・バータルをうまく親密な中にすることができれば、彼らに係る攻略フラグは折れるので一安心ということだ。
問題は、どうやって、キアラン・バータルとディジー・エスティバンをくっ付けるかである。ゴウィン・ニールとオリビアの時は、オリビアは素敵な子だし、ゴウィン・ニールがちゃんと目を覚ませば、オリビアの魅力に気付くという確信があった。しかし……ディジー・エスティバンとは話したこともないし、人柄が良くわからない。まぁ、生卵を投げつけるように指示を出すような人間性ってことなんだけど、それはこの学園の学生一般に言えることだから、置いておこう……。
あ、いいこと思いついた! まずは、キアラン・バータルとディジー・エスティバンが一緒にいる時間を作り出せばいいのだ! 一緒にいる時間が長ければ、攻略キャラとライバルキャラなのだから、自然と恋仲になっていくはずだ。フェルマー・ワイルズの定理の証明を、2人で取り組んで貰えばよいのだ。無理だ、とは言わないまでも、証明をするのに長い時間がかかるはずだ。その時間で、愛を育んで貰えばよいのだ。そうであれば、まずは、キアランにやる気になってもらわなければならない。
「キアラン・バータルさん。私は図書部に所属していて、先日、これと似たような数式を何処かの本で偶然、見ましたの」と私は言って、フェルマー・ワイルズの定理をノートに書いた。
3以上の自然数nについて、「aのn乗 + bのn乗 = cのn乗」を満たす、自然数a、b、cは存在しない
「このようなものでした。どの本に書かれていたかは、忘れてしまいましたが」と私は言う。どこでフェルマー・ワイルズの定理を知ったか追及されると困るから、図書館のどっかの本ということにしておいた方が無難だろう。
「なるほどね。Nが2であれば、さっきの三平方の定理と同じになるな。3以上か……」とキアランは式を見つめながら言った。
しばらくの沈黙のあと、「これは証明されているの?」とキアランが私に尋ねる。
「それがですね。『この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、それを書くには紙が足りない』とだけ書かれていて、証明は載っていなかったんです。キアラン・バータルさんは、これを証明できそうですか?」と私は言う。
私の言ったことが気に障ったのか、少しムッとして「証明がされていないのであれば、この定理が正しくない可能性だってあるじゃないか。まぁ、見たころ単純な定理だし、時間をくれるのであれば、反例を挙げるか、もしくは証明はできると思うよ」と、キアランは言った。
「私には、これを証明するのは難しいように見えますけどね」と、言外にあなたにもきっと証明できないわ、というニュアンスを含ませながら、私は言う。
「ホリー・ヴァレンティノ、君には難しいだろうね。何せ、三平方の定理の証明もやっとなのだから」と、キアランは不機嫌そうに言った。
「そんな意地悪を言わないでくださいな。ごめんなさい。ただ、この定理をふと思い出しただけなのです。これを証明するなんてことは、到底無理だと思いますわ。忘れてください。キアラン・バータルさん」と、明らかな挑発を私をする。
「俺にも無理だと言いたいのか? ホリー・ヴァレンティノ」とキアランは言う。どうやら私の挑発に乗ってきてくれたようだ。
「お出来になるの?」と、私はさらに彼を煽る。
「時間をくれればな」と彼は言う。私が見た中で一番、不機嫌そうなキアランの顔。
「50年でも100年でも、いくらでも時間は差し上げますわ」と私が言うと、彼の顔は真っ赤になる。怒りの頂点に達したのだろうか。
「私を愚弄するか!」と、机を両手でドンと叩く。仮に私が男だったのならば、「決闘だ!」という言葉もキアランは言っていたのではないだろうか。
「愚弄しているわけではございません。無理なものは無理だと申し上げているだけでございます」
「それを、愚弄と言わずして、なんとする!」キアランの怒号が教室の中に響く。
「愚弄かどうかなど、ここで言い争っても栓無きことではありませんか?」と私は涼しい顔をして言う。勉強を懇切丁寧に教えてくれていたキアランをこんなに挑発するなんて、私が悪役みたいになってるんだけど……。でも、私と、最終的には、キアラン・バータルとディジー・エスティバンの幸せの為だ、と自分に言い訳をする。ごめんね、キアラン。
「分かった。お前の前に、反例を突きつけるか、もしくは、証明を披露してやろう。その際には、当然、謝罪をしてもらうぞ?」
「ええ。その際には、心からの謝罪を致しますことを、貴族の名誉にかけて誓わせていただきますわ」と、私は「貴族の名誉」を強調して言う。
「ならば私も、貴族の名誉にかけて、おまえの前にこの定理の答えを叩きつけることを誓おう」とキアランは力強く言った。
私は、釣れた、と心の中でガッツポーズを取る。単なる、売り言葉に買い言葉。されど、貴族の名誉にかけて誓ったとなれば、それは契約書を交わしたのと同じくらい、もしくはそれ以上に重い。
キアラン・バータルは、これでフェルマー・ワイルズの定理の証明に取り組まざるを得ない。フェルマー・ワイルズの定理は、360年間、無数の数学者達の挑戦を退け続けた超難問である。おそらく、このブルスプの世界で知られている知識で証明をするのは不可能だ。
「楽しみにお待ちしていますわ」と私は言った。あぁ、今の私の顔、きっと悪役令嬢のように、したり顔をしているのだろう。
「俺の方こそ楽しみだ」とキアランは言って、私がノートに書いた定理の部分を引きちぎり、教室から出て行った。私はそれを、淑女の礼を持って見送ったのだった。




